神様の決め事 | ナノ


 赤い血が入った小瓶の近くには注射器がある。そしてこの部屋の真ん中には大きくチョークで印が描かれていて、その真ん中にはどこかで見たことがある動物、いや、怪物がいる。どの動物がなにかわからないが、確かに生きているものだった。
 そう、そうだ。あの時、わたしが以前お墓参りに行ったあの時の、あの怪物だ。
 目の前にはわたしの父であり師である父親がいる。

「俺は長年研究をしていた。お菊が亡くなった日からずっと、お前と一緒に過ごしてきた日からずっとだ。俺は一度死んだと見せかけ、広い宇宙へ飛び立った。俺にはどうしても叶えたい夢があったのだ。それはここ地球じゃどうも限度が知れていた、だから宇宙へこの研究を完璧なものにしようと飛んだ。いろんなものを見てきたさ。生と死を、正義と悪を、この目でたくさん見てきた。地球は狭すぎる。俺達の世界は狭すぎる。わかることもわからないままになる。それが地球、私達の真理への答えだ。わからないまま。だから完璧になれないのだ。だが、わたしは見た。真理を見た。真実を知った。人間を知った。生を知った。死を知った。だからこの術を成功することができた。そう、途中まではうまくいっていた。原理はわかっていた。だがあと一歩、その一歩がどうしても掴めぬままでいた…だが、そう、俺はもう、わかった。
名前よ、久方振りだな。こうして二人きりで話すのも何年していなかったことか。松平がお前を引き取り、真選組の幹部にさせたことは予想外だったが…まあいい。探しやすくしてくれたのを感謝する。さあ、こっちにおいで名前。」

「……父さん…、」

 父さんの手はボロボロだった。皮は剥け、肉の色が剥き出しになり、血の跡も、肉刺もある。膿ができている部分もある。指も小刻みに震えていた。とても痛々しく、弱々しく見えた。あの威厳な父親の姿はもうなかった。

「お菊を、生き返らせるんだ。お前も嬉しいだろう、名前。協力してくれるな?」

 声が出なかった、涙さえ流さなかった父親は、弱音を吐かなかった父親は、母さんの依存しここまでなってしまったのだ。異常だとは思う。でも普通の、人間の願いでもある。死んだ母さんは病気で死んだ、父さんは泣かなかった。悲しい顔さえしていなかった。のに。

「わたしを、騙したの?死んだはずじゃなかったの?わたしに攘夷浪士を殺せって、言ったのは、父さんなのに。」
「母さんを生き返らせるためだ。」
「……父さん、…父さん、父さんは、あの時、わたしが母さんと父さんのお墓に行ったときに、その怪物を使ってわたしを襲わせたよね。わたしを殺そうとしたの?」
「ああ、こいつか。そう、こいつだ。俺の研究の成果だ。知能もある、きちんと言葉を理解するんだ。だがな、人間の知能を埋め付けることはできないんだよ。容量が足りないんだ。そこで以前の考えに気付いた。名前、お前の背中に刻まれている印はなんだ?」
「これは、父さんが、」
「そう、俺が付けた。俺がその印を付けた。」

 母さんが死んで三年後、父さんはわたしの背に印を付けた。焼けるような痛みで刻まれた印の存在を父さんは何も言わずに付けたのだ。これはなにかと質問しても、父さんは何も言わなかった。あの厳しい眼を見せてわたしを黙らせた。日常生活でも痛む時はあっても一時的なものだった。
 この痛みが、わたしに父親の存在を思い出させてくれていたのだ。術を教えてくれた父さんを、ご飯を作ってくれた父さんを、最後に頼ってくれた父さんを、鮮明に脳に焼き付けてくれていた。

「その印が母さんを生き返らせる。お前の中で。お前は死に、母さんが生きる。これこそ俺が求めていたことだ」

 おいで。
 父さんの口がそう動く前に退路を作ろうと振り返るが、のしかかる体重に体を倒すしかなかった。コンクリートの地面に体が叩きつけられ、髪の毛は強く掴まれ、髪の毛がプチプチと抜ける音がする。

「この印の上に血を流しあの印を重ね合わせればお菊は生き返る!」

 背中に殺気を感じ、カケルが押し付けてきたクナイで髪の毛を引っ張る手首に思い切り刺した。一瞬体がぶれた父さんだったがひるむことはなかった。振り下りてきたクナイをクナイで弾き、腕が貫通するくらいに振りかぶりクナイを刺した。しかし父さんがこれくらいでひるむはずもなく、頭を掴まれコンクリートへ叩きつけられた。痛みで視界が真っ白になり、耳鳴りがひどくなる。

「お菊のDNAが必要となる、お前はお菊にそっくりだから、DNAも濃いだろう。ほら、背中を向けろ。印に傷をつけないと始まらんのだ」

 内ポケットから無線機が落ちる。無線機に気付いた父さんは無線機を拾い粉々に潰してしまった。気付いてくれてたら、いいんだけど。頭蓋骨にヒビ入ったんじゃないの?
 この印は、このためにあったのか。わたしを想ってじゃなく、母さんを想ってしたことだったのか。この傷が痛むたびに少しだけ安心できたこの傷は、わたしの為にあるのではなかった。わたしは産まれた時にはもう父さんの道具として生きていく運命だったんだ。


 わたしの父は比較的厳しい人だったと思う。あまり気にしたことがないから、他の家の父親と比較したことはない。忍の血が染みついている人だったからどんな時も自分のルールに従って生きているような人だった。人の意見なんて聞かない。自分が正しいと思っている事は正しいと思っている人だった。……どうしようもない人だと知っている。他人の意見なんて聞かない、自分が世界の中心だと思っている人はどうしようもなくて、世界の中心から外れて隅っこに立っている人だと、知っている。本当は独りが怖くて、独りが嫌で、孤独が嫌いで、隣に温もりがないと生きていけない人だと、わたしは、知っている。だから自己が激しくて、中心に立っていたくて、誰かを従えていないと寂しくて死んでしまう人だと、わたしは知っていた。知っていたが、理解しようとはしていなかった。

「このクナイもいらないな。カケルの奴、お前のことを思ってしたことなんだろうが…無駄に痛みを与えてしまったな。まあいい。カケルは最後までお前を助けようとしていたよ。敵の素振りをして、私の下に就くことによってお前の行動を監視できるからな。お前の無事を祈っていたよ。」

 なぜ?なんで?

「喋らないのか。喋れないのか?そうか…いつも怯えていたな、私を恐れていたな」

 父さんの腕が上がった。致命傷はないだろうが、確実にわたしは死ぬ。



銀ちゃん


 振り上がった父さんの腕には数本のクナイが刺さった。顔をドアの方へ向けた父さんの顔は驚きと、悟っていたかのような安心した表情をしていた。

「名前!」

 カケルだった。昼間、武器として使っていた手裏剣を父さんの方に投げ、父さんはわたしの上から退いて、刺さったクナイをカケルに投げる。手裏剣を投げてガードしたカケルはわたしの側に寄って、腕を引っ張り無理矢理立たせ、煙玉を地面に叩きつけた。

「ちょっと…なにを、」
「真選組がそこまで来てる。俺がなんとかするから逃げろ。」
「待って、あんたは一体何を、」
「俺の目的を知られてんなら、もう偽る必要もない。」

 通路を駆け、階段を登り、重いドアを開けば草木が広がる。カケルは顔の包帯を取り、足から流れる血を止血した。すっと顔を上げたカケルは、予想もしていなかった人物だった。

「……翔、」
「今日俺は占い1位だった。最高についてる。俺はここで足止めをするから名前は逃げろ」
「翔…、どうして」
「あんたの親父に助けられたんだよ。まあこんな形になっちまったけど。…早く行け」

 忍の正体は幼馴染の翔だった。忍術を修行していた身であったから、必然的に一緒に居る時間が長かったし、性格も合っていたので仲良く、親友と呼べる関係だったのだ。

「印は消えない。俺の友人の忍がこの手の忍術に詳しいからその印を消してもらえ。」
「翔、待って、翔が死んじゃう、死んじゃうよ」
「誰が死ぬって?」

 側にはもう父さんがきていた。父さんのクナイが翔を目掛けて振り下ろされるが、翔には届かずクナイは宙を舞った。がっしりと体を抱き締める腕は、見慣れた筋肉と見慣れた服装だった。

「銀ちゃん…?」
「手を上げろ!」

 続いて副長の声が響く。足を怪我している翔はガクンと膝を曲げ、地に手をついた瞬間、父さんが足を翔に向かって上げる。その足には靴に包帯でクナイが縛り付けてあり、それが翔の胸目掛けて振り上げられた。
 間一髪で避けた翔は手裏剣を構えるが、目線の先にはもう父さんの姿はなかった。気配に気づき右に眼を向けると、銀ちゃんの後ろに移動していた。そして銀ちゃんの背中をクナイで刺し、足の裏で思い切り蹴ると銀ちゃんの体は意図も簡単に飛んで行った。

「銀ちゃん!」

 首元にクナイの刃先が向けられ、父さんはニヤリと笑い、「鬼ごっこは終わりだ」と、まるで母さんに言うように、優しく声をかけた。