指切り
怖くなる時がある。寂しさとも悲しさとも違う、完全なる恐怖がどこからともなくやって来て、一人でいる時も二人でいる時も、胸の中に入り込んでくるのだ。俺は人を殺したことがあるし、人間の人生を狂わすのだって日常茶飯事だ、今の仕事をやめることは選択肢にはないが、情けないことに、後悔することがある。
何のために今まで生きてきたのだろうか、と。一年間、こうして何気ない日常を送っていることに、今までの自分に問いかける。「お前は何をやっているのか?」いつまでもこうしてて、いいのか?生憎、俺は、普通の人間の生活をしたことがない。親は幼いころからいなかったし、復讐のためになんだってやった。一度死んだ身だから、死ぬのだって怖くはなかった。
しかし今はどうだろう。実の妹に出会い、離れ、途方に暮れていた時に名前と出会った。自分を見る目が、自分に好いた女の目と同じ目をしていたから、衝動に駆られてつい話しかけた。「襟が崩れている」それだけのことなのに、名前は顔を赤くして襟を直して嬉しそうにありがとうございますと言った。遊び半分で、名前が女給をしている喫茶店に訪れるようになって、遊び半分で同棲するようになった。飽きたら捨てるつもりだった。
愛しいのだろうか?目の前にいる名前を、俺は愛しくおもっているのだろうか?結婚とは名ばかりで、いつでも捨てる準備は出来ている。出来ているのに、手放すことができない、したく、ない。
怖くなる時がある。隣にいる名前がいなくなることが、とてつもなく怖いのだ。握りつぶしたら簡単に死んでしまいそうだ。阿片でもやったら、素直な名前だから疑いもなしに阿片を受け取るだろう。そして壊れていって、俺に捨てられるのだろう。
「姫様………」
名を呼ぶと、かすれる。
情けない、情けないと、
「名前」
「………なーに?」
驚いて、肩を上げた。目が開いた。背にいる名前の方へ振り向くことができない、当たり前だ。思わず姫様と口にしてしまったのだから。他の女ならよかったのかもしれない、そうしたら謝る事も白を切ることもできたであろうに。
唇が震え、汗を掻いた。初めての出来事に混乱して、枕に深く頭を乗せた。身を丸くする。心臓が胸を打つ。
今までの名前の笑顔が崩れ始める。握った手が消えてなくなる。正面にいた名前は、次第に振り返って一歩一歩と俺から離れていく。さようならの言葉も残さないまま、俺が姫様にしてきたように、名前も俺にそれをする。俺は待って、とも、いくな、とも言えない、言えるはずがない、そんなことをいう権利など持っていないからだ。
行くなよ、待ってよ、離れないで、行かないで、おいていかないで。
「笑っていて」
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