臭いわけでも虫が付いているわけでもなかった。目の前で起こっている光景に俺は瞬きを何回かした。目も擦ってよぉくその光景を凝視した。やっぱり、勘違いでも幻覚でもなかった。ただおれが知らないだけだった。 いや、特に気にしていないだけだったんだと思う。 席替えがあり、窓際の慣れ親しんだ席から廊下側へと移った。周りにはあまり関わりのない男子と女子ばかりだったけど話しかけてくれたからそこまで警戒心もなく、いつもと同じ調子でおれも関わる事ができた。いつもと同じように昼休み間際にじゃんけんをして勝った人が指定した人物に好きなジュースを買ってもらうというちょっとしたゲームをしていた時だった。 なあ、今回罰ゲームにしねえ?と前の席の金髪の松坂が言う。隣の女子の山田が手を叩いてソレいいね、そうしようよぉと笑う。おれ以外の視線は決まっていた。 「おう じゃあしようぜっ」 笑って拳を出す。 「最初はグー じゃんけんっ!」 男子と女子の声が入り混じる。 「じゃあ日向!お前名字に話しかけてこいよ!」 じゃんけんに勝ったただ一人、松坂がおれを指差して罰ゲームを下した。 「えっ」 おれの顔は今真っ最中だと思う。 「だって 今さ」 名字さんは一番前の席に座る女子に殺虫剤を掛けられているところだった。シューーーー……殺虫剤の音が止まった。名字さんは殺虫剤を掛けられているにも関わらずずっと画用紙に向かって絵を描いている。大して気にしていない様子だった。おれはそれが理解できなかった。 名字さんへの「いじめ」は何度か目の前で見た事はあったけれど、殺虫剤を掛けられる所を見るのは初めてだったし、皆初めてなんじゃないかと思った。おれはあげかけた腕を下ろしてその光景をただ何も考えないで見つめていた。 あれ 殺虫剤かけられてる。 何度か繰り返し気がついて、気がついた時後ろから「日向―っ 話しかけろってばあ!」とワクワクした声がかけられる。今度は自分の目的にハッとして、殺虫剤を掛けられて黙って絵を描いてる名字さんと笑ってる女子の間から外れるように、少し遠くの方で名字さんの名前を呼んだ。 でも名字さんはこっちを向いてくれない。 前に立っていた女子が気付いて退いてくれて、一歩踏み出してもう一度名字さんを呼ぶ。殺虫剤で髪の毛が光っている名字がおれの方に振り向いた。 「なあに?」 「うっわまたコイツこんな絵描いてるよ。きもきもっ 捨てよ」 名字さんが描いた絵がはがされてグチャグチャに丸められてゴミ箱に捨てられてしまった。名字さんは泣くかと思った。けれど泣いていなかった。その光景を最後まで見送ってから、また新しい絵を描き出した。女子たちはクスクスと笑って筆箱を教室の窓から放り投げた。 「やめろよっ」 おれは咄嗟に声を出して窓に投げられた筆箱をキャッチしようとしたけど、もう筆箱はコンクリートの地面に落ちてシャーペンやボールペン、消しゴムが散らばった。「あっ」と声が出た。 「うわぁ 日向が初めてだよぉ。名字さんのいじめをとめようとしたの」 え?そうなの?誰もとめなかったの? テレビとかマンガとはゲームとかやってると、誰かがやるんじゃない!俺がやるんだ!という台詞を思い出して思わずギュッと拳をつくった。 「いいよー 日向 こっちもどっておいでー」 山田の声が聞こえる。 名字さんは何も描かれていない画用紙を見つめた。 一体その白い紙で何を見ているのだろうか。 「うわっ くさっくさっ ゴキブリついてますよー えいっ」 シューーーー 「ムカデだー!コバエだー!お邪魔虫だー!」 シューーーーーーー 「くっさーーい お風呂入ってるのぉ? 息くっさあああ」 シューーーーーーーーーー 白い飛沫が名字さんにかかっている。ピッカピカに光ってもどんなに殺虫剤を掛けられても、名字さんは気にする様子がなくただひたすら画用紙を見つめている。 輪になって囲んでいた女子の一人が画用紙を奪った。 ベチンッッ 画用紙が名字さんの顔面にぶつかった。いやぶつかったんじゃなくって、叩かれた。そして画用紙も窓に投げ捨てられた。 「あーあ……かっわいそう……自分で取りに行くんだよぉー?」 ピッカピカのテッカテカに光った髪の毛を揺らして名字さんは席を立った。昼休みに入っていた。今日は2時間目が少しだけ早く終わってくれて嬉しかったからお昼ご飯も美味しいと思っていたけど、不思議とご飯の味を感じなかった。無味無臭だった。 「コッペパンのカロリーやばーっ!」 名字さんの画用紙を投げ捨てた女子はそんな事を言っていた。 「うっわあやっべえ 部活遅れるのにーっ!」 ドドドドッ ダダダダッ 科学のプリントを出し忘れてしまったおれは階段を上り教室を目指している。これは本当にまずかった。科学の先生は提出期限に厳しく、遅れても容赦がなく平常点をドンドン下げていくと有名なので大地さんは仕方ないなあと眉を下げてプリントを出しに行く事を許してくれた。まだ部活始まってなくてよかった……。 ドドドドドッ ダダダダダッ キーーッ バンッッ 教室のドアを開く。 「あっ」 おれの声に名字さんはこっちに振り返る。 「っ……あ う」 言葉に詰まる。別に話しかけなくてもいいはずなのに、でもひとつだけ訊きたいことがあって、今日の昼からずっと考えていたことがあって、それをどうしても訊きたくて、でも勇気が生まれてこなくて、訊いたら後悔するなって思って、でも どうしても 知りたくて 「名字 さん」 「なあに?」 昼の時と同じ声の高さで返事をする。唇を固く結んで、目を閉じて、名字さんの目の前まで走って拳を作る。 「名字さん、なんで嫌だって言わないの?いじめられてるのに」 「わたしはいじめられてるの?」 「え?」 「わたしはいじめられていると思っていなかったんだけど、わたしいじめられてたの?」 「そっ そうだよ!だからやめてって言わなきゃやめてくんないよ」 「でも別にいやじゃないからいい」 「やじゃ ないの?」 「だっていじめられてるつもりじゃないから いやっていうか どうも思ってない」 「………そ そうなん だ」 何だ?やせ我慢ってやつか?だって いじめられてるのあからさまだよな?誰が見たってわかるし、誰から見てもわかるってことは やっぱしいじめなわけで……。あれをいじめってわからないって、相当なバカ?名字さんってバカ? 「……何描いてんの?」 「窓から見える景色」 「(あれ、普通だ)ほぁ 絵 上手いなぁ」 窓から見える空の風景。風景画っていうんだっけ?とにかく 上手だ。おれじゃ絶対こんなにうまくかけない。でも雲は端っこのほうにしかなくて、中心部分は真っ白のまま すごくシンプル。 えっ えっ? 「なに かいてるの……?」 名字さん なにかいてるの? 「窓にへばりつく包丁を持った黒い通り魔殺人の犯人」 名字さんは皆から「歩く狂気名字さん」と呼ばれている。 いま、納得した。納得したところでどうってこともないけど、ゾワゾワと背中に鳥肌が立って怖くなった。殺されるんじゃないかと思った。 そっか 震える声で返事をしてじゃあと手を振った。本当は手も振りたくない程怖かった。なんでこんなに怖いかって思ってしまうくらい怖かった。ああ コワイヨォ 「(あっ ヤベ プリント忘れてたやべっ やべっ……!)」 グスン ジュル あれ 名字さん |