色彩 | ナノ





「(シンドバッド王は強かった……)」
 八人将が目立ち、シンドバッドが直接手を下すところを見た事のない名前だが、今回の件でシンドバッドはやはり噂通りの人だということを改めて実感した。自室に戻った名前は椅子に座り明かりを灯し、ポツンと一人でドアを見つめている。
 ドンドン。扉が荒々しく叩かれ、その音を知っているような気がして名前は違和感を覚えながら返事をする。
「……はい?」
 名前は扉に近付き、開けようとした時、いきなり扉が開いて部屋に入って来た人物に目を丸くさせた。

「マスルールさん……?」
 マスルールはなかなか開かない扉に痺れをきかせたのだろう。マスルールを見上げる名前は、ど、どうぞお座りになってください、と机と椅子を指差した。マスルールの雰囲気はいつもと違ったし、こんな時間に部屋に訪れるなど、初めてのことだったのだ。

「ど、どうしたんですか、こんな時間に……」
「……怪我は、してないか」
「え?……あ、はい。王のおかげで、怪我は……」

 していない、のだ。いつも何かと怪我をして王宮に帰る名前にとって珍しいことだ。特に、今回の相手が相手だけあって、名前も再度驚いた。シンドバッド王は強い、それを守護する八人将も、自分よりも遥かに強い。現実を突きつけられ、名前は静かになった。その姿の名前をみて、マスルールは首を傾げた。

「何かあったのか」
「いえ、特には。何も」

 リダーのこと、そしてアル・サーメンのこと。今まで面倒な事や複雑な事、一遍に体験した事だって考えた事だってたくさんあった。だが、今回は違うのだ。
 自分が、マギというものの成り損ないであること。
 ムウが、アル・サーメンであったこと。

「名前?」
「……ごめんなさい」
「え?」
「わたしがいるから、面倒なことばかりがシンドリアに降りかかる……わたしが、いるから、いけないんですよね」

 名前が俯いた。ガタリという音に目だけを向け、目の前にいたマスルールがいないくなった事に驚き、顔を上げた。「あ」視界の端にあるのはマスルールの服と、付きすぎている筋肉である。「え」マスルールの方に振り向いた名前は伸びてくる手に構えを取る。
 伸びた手は名前の頭に乗せられ、手は頭を撫でる。押しつけながら撫でられる頭、名前は驚いてムスッとしたマスルールを見つめた。

「そんな事言うな」
「……、は…はい……」
「誰も、お前のせいだなんて思ってない。それに、面倒なことだとも思っていない。そう思ってるのはお前だけだ」
「………ありがとうございます……、マスルールさん……」

 マスルールが名前の顎を上に向かせ、その顔が良く見えるように前髪を掃った。
「マスルールさん…?」マスルールは耳が良い。名前の部屋の周りに誰もいない事を確認した上で、顔を近付かせ、腕を強く掴んだ。名前が抵抗する暇もないまま、マスルールは名前の唇に噛みつき、首から鎖骨へと移動し噛みついていった。
 慌てる名前はマスルールの名を呼ぶが、マスルールはそれを辞める気配はない。心臓の音が頭に響く名前は冷や汗を流しながら、マスルールの首元を見つめる。
「やっやだ……」
「……ジャーファルさんが怖いからか?」
「こ、怖いんじゃない、わたしはジャーファルさんのことが……」
 好きだから、いやだ。マスルールにも聞こえないだろうと呟いた台詞に、マスルールは顔を上げ、名前から一歩距離を置く。

「ご、ごめんなさい……!」
「……なぜ謝る…」
「だって、マスルールさん……」

 ムウの表情と、そっくりだった。しかし名前はそれを心の奥底に留め、続きは言わずに口を閉じる。

「……怪我がないならそれでいい 俺はもう寝る」
「あっ お、おやすみなさい」

 あの晩を思い出させる、ムウと別れたあの晩を。悲しみを含んだ、無表情の悲しみの目だ。
 扉に手を掛けたまま、半開きの扉はそれ以上が上がることを知らないかのようで、名前は扉に手を掛けるマスルールを見上げた。「マスルールさん……?」この部屋に来たときからそうだ、マスルールの雰囲気はおかしい、名前はそう思った。

 マスルールは事の事情をシンドバッド、ジャーファルから教え込まれた。リダーと言う男の存在、元主の存在、そしてこの間襲ってきたアル・サーメンの存在をだった。マスルールには、その三人がどう関わっており共通点があるのかどうかわからなかったが、元主以外の二人は、なにか決まった目的が合って、ここに来て名前を襲ったのではないかと、ジャーファルによって的確に伝わっていった。マスルールのみならず、これには八人将も含む。

「でも、名前はいつも厄介事に巻き込まれる……。だから、そういう時は俺を頼ればいい」

 鍛え上げられた筋肉は、ファナリス故なのか、修行の成果なのか。名前は頷いて、頭を下げたままにした。マスルールはその様子を見て、顔が上がらないのと判断し、部屋を出た。少々強めに閉められたドアの音に、足音を聴きとった名前はやっと顔を上げて、ベッドに腰を下ろし窓の外を見る。

 あの時、名前はリダーはシンドバッドによって殺されていないことを、確かに確認していたのである。何故確認しなかったかというと、名前の慈悲であった。どうにか逃げてくれという、願いであった。シンドバッドに貫かれた心臓は、心臓ではなかった。リダーはシンドバッドの剣を受ける直前僅かに体をずらし、即死を防いだ。
「大量出血で死んでなければいいんだけど……」「なんでリダーが…」「リダーは、今までお世話になった人ではあるけど、それ以前に暗殺者でもあった」名前はぶつぶつと地面に向かい、リダーの思い出を呟いている。
「リダーは、なんでわたしを」


「あーあ やっぱり死んでないか だとは思ったけどよ」








 宮殿内は慌ただしい足音を響かせていた。
 名前が、部屋にいなかったのである。マスルールに名前の私物を渡しにおいを嗅がせたが、二時間かけてシンドリア中を回ったマスルールから出た一言は、宮殿内の皆を不安にさせる一言でしかなかった。

「名前がいなくなった」

 シンドバッドは八人将を集め、名前を捜し出す様に命令を下す。しかしマスルールが二時間も掛けて探したのにも関わらず、見つかることがないのはおかしい、とヒナホホが挙手し、発言をした。ヒナホホと名前はよく一緒に酒を飲んだり、子ども達の世話をしたとか何とかで、とりわけ仲も良かった。父と子、このような代名詞がよく似合っていた。だからこそ、八人将は口を閉じた。
 シンドバッドはどうするべきかと悩んでいる。隣に腰を下ろすジャーファルは目を瞑っている。

「俺は、名前がシンドリアから意味もなくいなくなったりしないと思います」シャルルカンが言う。
「私もそう思う!」ピスティもフォローするかのように発言する。
「いや、それはわかってはいるが」ヒナホホが慌てる。

「私も、名前が簡単にシンドリアから出るとは考えられないですね。というのは、名前はシンドバッド王と主としている。……あの子が、主を裏切ることは決してない」

 それは、あの子の過去の経験から、そして自分の知っている彼女の性格から、それを確信している。
 ジャーファルはシンドバッドへ尋ねる。本当にリダーという者を殺したのかと。シンドバッドは躊躇いもなく頷き、確かに殺したと断言する。となれば、家臣共はこれ以上のことは言えない。

「……俺は名前を探しに行く」シンドバッドは机に体重を掛けながら立ち上がった。
「シンドバッド王、あなたがここを離れてどうなりますか。捜索は私達にお任せください。私情で動けるほど、あなたは軽い立場ではないことくらい、自分でもお分かりのはずでしょう」
「……ジャーファル君、きみはどうしても俺を行かせたくないようだな」
「当然です。あなたは王なのですから……。しかし、お気持ちは、わかりますけど」

 私情。ジャーファルの口から出た言葉はジャーファルにも当てはまっていた。本人自身でもそれを理解しながらの言葉だった。ジャーファルならば、私情で動く事が出来る。
「私が探しに行きます」八人将、シンドバッド、双方、そうくるだろうと思っていた。名前の恋仲であるジャーファルが動かないわけがない。

 もう、彼女に悲しい思いはさせたくない。
 ジャーファルの願いだ。

「ならば、ピスティ、マスルールを共に動かそう」
「はじめからそのつもりでした」

 空からピスティ、地上からはマスルール、指令を出すのはジャーファル。鼻のきくマスルールが探せなかったのならば、空からも探せば良いし、そこに更なる知能が加わればそれに越した事はないし、名前が見つかる可能性も上がるのは必然といえよう。
「ピスティ、マスルール、行きますよ。移動しながら作戦を立てます。一分でも一秒でも、時間が惜しいです」
 二人は立ち上がり、ジャーファルの後ろに続いた。




「………、………リダー……」
 名前の両手首は拘束されており、見上げれば徹のようなものが洞窟内に刺さっており、そこから縄が吊るされていた。前を見ればリダーがパンを食べながら外を見下ろしている。
「リダー」名前は再度、リダーの名を呼んだ。しかしリダーは名前の声を耳に入れながら、無視を決め込む。
「おい、リダー、聞けよッ!!」金切り声を上げた名前は前に一歩踏み出すと、手首から血が流れ髪と肩を濡らしていった。しかし名前はそれを気にする様子もない。「リダー!この縄を解け!」
 いっそならば、手首をこのまま切っても、

「名前、大きな声を出すんじゃない」やっと、リダーは口を開き名前の方へ振り向いた。
「お前はわたしの慈悲で生き延びたんだ、わたしはあの時殺せたんだ、シンドバッド王へ言えばお前は死んでいたんだ!でもそれをしなかったのは、リダーが、」
「暗殺者に甘さなんて必要ないよ。………さて、もう少し待っていなさい。帰ってくるぞ、僕の依頼主様がね」
「殺されたくなかったら、この縄を解け……!」
「…………。君ね、誰に向かってそんな口を聞いていると思っているのかな」

 名前の手首から血が噴き出した。腹部を蹴られた名前は膝を折り頭部を垂らした。ポタポタと口からも血が地を濡らしていく。リダーの靴には刃が隠れており、空気を切ると、その隠れていた刃が出てくるといった構造なのだが、それが今発揮された。じんわりと徐々に名前の腹部から血が染みわたり、力なく頭を上げた名前の視界にはリダーの顔が広がっていた。
 小さく息をする名前を見て、リダーは微笑んだ。

「ッ……ぐっ」
 リダーの拳が腹部の傷に入り、捩じられた。「あっあっあっ、あっ……!」痛みに名前は耐えきれず声を漏らした。腹部の傷は名前も傷を作った本人であるリダーも、思ったよりも深いものだった。
「結構深くいってしまった 大丈夫かい名前」
 リダーは名前の傷が自然治癒することを理解している。だから今何も心配していないのだ。

「僕はきみのその目が大好きなんだ……初めて会った時のような、品定めをする、怯えた目が、大好きなんだよ。ムウが羨ましいと初めてあの時思った、しかし、今回の任務を成功させれば僕はきみを手に入れることができる。堕転をさせて」
「…………」
「堕転、僕にはよくわからないが……、きみの言うアル・サーメンもよくわからないが、きみが手に入るのならばそんなものどうでもいい、どうなったっていい、これから僕ときみの二人だけの生活が始まるんだよ」
「……縄を、解けよ」
「まだ言うのか」
「縄を、解けよ……解けって言ってんだろ!!」

 名前は脚を上げ、リダーの腹部を蹴った。後ろへ飛んだリダーは受け身を取り、外投げ出されずに済んだが、リダーは名前を睨みあげる。
「奴隷が……誰が喋っていいと言った」
 名前は怯えた。その目が、表情が、元主と同じものだったからだ。
「支配欲……、力のあるきみを支配したいと思うのは僕だけじゃないはずだ 現に、ムウだって」
 声が出なくなった名前は、近付いてくるリダーに来るなとも近付くなとも、何も言えなかった。リダーは名前の首を掴み、強く握った。

「何してんだよ お前」


 リダーの右腕が地面に落ちた。次に左腕が落ちる。リダーの肩から下が地面に落ち、赤い液体が広がっていく。体格の良いリダーに隠れ、その後ろにいる人物が見えない不安と、期待に名前は脚をピクリと動かした。
「誰が、殺していいっつったよ」

―――師匠

「ムウ……!」
「堕転させろっつったろうがッ!」
「貴様…!誰に向かって、そんな口を叩いてる、わかってるのか、ああ!?」
「黙れ!脚が無くなりたくないなら、お前が黙れ、俺にそんな口叩いてんじゃねえぞリダー!」

 名前がムウの名を呼ぼうとした瞬間に、リダーの左脚は血の海へと流れる。重心がずれ、体を傾かせたリダーにはもう、成す術がなくなり、ムウに殺気を向けることしかできなくなった。

「そのまま死ね」

 ムウは転がったリダーの腕を踏み名前に近付いた。

「お前はホント、不幸な女だな名前」
「ししょう」
「……いや、マギの成り損ないっていうのがまず、不幸だよな。不完全体なお前が生きれる道は限られてるもんな、名前?」
「…………ハッ、ハッ ハッ……し、しょう……?」
「かわいそうに 生きてる価値がどこにもない、本当にかわいそうだ」
「やだ……やめて……わたしは…」

「お前を奴隷にしたのは俺だよ」

「うそ、うそだよ うそ、うそ、うそ、うそだよ、うそ、うそだよぉ……いや、やだ…うそ、うそ、うそつき……」
「嘘じゃねえよ。俺がお前をアル・サーメンから引き取って、奴隷にしたんだ」
「今までそんな、ことっ言わなかっ た……」
「当たり前だろ 言うわけねえだろ? 怪我は大丈夫か?」

 魔法を使い縄を解いたムウの胸に名前が倒れ込んだ。ムウは躊躇いながらその背に腕を回し、腰を下ろす。


「俺は前々から言ってるじゃねえか お前は幸せになれないって……わかってんだろ?お前もな、俺と一緒なんだよ。ずっと縛られ続けて生きる運命なんだ。なあ、そうだよな 俺達に自由なんてもん存在しねえんだ。縛り続けられたまま、好きな人ひとり救えずに、求めるだけで終わる、ずっとひとりぼっち。 生きる価値のない、見離された、生命体なんだ」

「生きる事、何が楽しい つらい事しかないんだよ 名前、お前は特にそうだ。悲しいな、お前の事を誰もわかっちゃくれない」

「憎らしい。生きてるもの全てが 笑顔を振りまくもの全てが、幸せな奴らが、憎らしくて仕方がない、皆死ねばいい」

「俺はお前の事が大嫌いだ」




「わたしは、大好きです」


 ムウは目を見開いた。名前はムウの胸に顔を預けたまま、行動に移る事はなかった。ムウは背に回していた手を、自分の頬に移す。涙を拭った手を見下ろした。

「わたしは、師匠のことを、愛してるよ……」

 ムウは名前の背中と頭を強く抱いた。息をするのがつらくなるくらいに強く、強く、強く抱く。
 名前はムウの背中に腕を弱々しく回す。


「ごめ…ごめん、ごめん、ごめん、ごめん名前、ごめん……ごめん…ごめん………ごめん、ごめんな、ごめん、俺は、俺は、嘘だ、嘘だよ……お前の事嫌いだなんて嘘なんだ……ごめん、ごめん、名前、ごめ……」

 ムウはアル・サーメンより、名前を堕転させろという命を下された。あの後、名前と別れた後、アル・サーメンの元へ帰ったムウは数日間の拷問により、何とかして生き延び、アル・サーメンへ命を捧げるという形で、生きることが出来ている。リダーを使い名前を誘い出す、その作戦をムウは思いつき実践させた。自分が直接手を下さずとも、名前を堕転されば、自分は一生白のままでいられると判断したからだ。しかし、リダーは思いのほかムウにとって使えなかった。私情ばかりを優先させたからである。
 ムウが直接手を下す、それにムウは悩んだが、それでも名前と居られるならという自分の幸福のために動いた。名前の幸福を願うムウには苦渋の選択でもあったが、自分を優先させたのである。私情で動いた。
 名前を連れ攫ったのはムウである。名前がムウだと判断する前に気を失わせ、こうして洞窟へ身を潜め名前を拘束した。死にかけのリダーを魔法で治療し、見張らせたのだ。「堕転させろ」と再度依頼をして。

 なんとしても堕転をさせる、ムウは自分を殺した。
 殺したはずだった、のに。


「アル・サーメンの言う通り……師匠は、アル・サーメンなん…です、ね……」
「……ああ、そうだ」
「………いいや……、師匠が、わたしの事を好きなら、何でもいい……何を、されたって、いい」

 下唇を噛んだ。ムウは涙を流す。

 名前は堕転をしなかった。




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