色彩 | ナノ



 追いかける鞭に怯えて、怖くなって転んだ。背中に鞭が飛ぶ。痛い痛いと叫ぶわたしに鞭は何度も何度も楽しそうに体を叩いていく。鼻水を垂らして泣いた。体を庇って泣いた。赤くなり水膨れになった。血が出た。

 ハッと顔を上げるとわたしを見下ろすジャーファルの姿があった。わたしはどうやら眠っていたらしく膝を抱えて座っていた。ドクドクと心臓の運動が激しくなる。手に落ちた雫にもっと驚いた。顔が青ざめるのもわかった。現実の夢の狭間にいたわたしは段々と現実の世界に帰って行って、心臓がだんだんと落ち着きを取り戻していく時にはもう、この人に弱みを握られてしまったと絶望を感じた。

「どうしたんです?」
「………」
「名前さん」

 こういう時、どうすればいいかわからない。された事もなかったから。ジャーファルは屈んでわたしの顔を覗こうとしている。どうしよう。どうしよう。

「王、とは、お話が済んだのですか」
「まあ一応は…」
「そうですか……」
「…なぜここに?」
「よくわからないので、迷ってしまうと思って」
「なるほど」
「それに迷ってしまったらあなたに負担をかけてしまうでしょう?」
「そうですね。だからここにいたんですか?」
「…………」
「今度はだんまりですか?困った人だ。もうすぐお昼になりますし、少し早目に昼食にしましょうか。そのあと文字の読み書きですよ、名前さん。…聞いてますか?」
「はあ、一応は」

 焦っているのが自分でもハッキリとわかっているから取り返しがつかない。焦って焦って、脳内が支配されている。目の前のジャーファルさんの言った事だってもう忘れてしまっているのだから。

「顔色が悪いですね」
「そうでしょうか。わたしは至って健康ですが」
「朝食は?」
「そりゃもうシンドバッド王は溢れんばかりの食糧を持ってきてくださいましたから」
「おや。そうですか」

 ジャーファルの心にもない台詞にわたしも心にもない台詞で返す。
 いくらか落ち着いてきたところでジャーファルは足を止め、わたしも足を止めた。たくさんの人であふれかえる大きな食堂を目の前に、わたしはあっと声を出した。初めてみるものに隣に人がいるのも忘れてただ素直に感動してしまった。
 人の笑顔がたくさんある。

「時間帯的にはまだ集まらないと思ったんですが…開いている所を探してくるので名前さんはメニューでも見ていてください、そこにありますから」
「あ、はい…」

 ジャーファルが指差した場所へ行き、たくさんあるメニュー表を見て思った。わたしは文字が読めないのである。周りを見てみるとどうも文字が読めない奴らばかりなのだが、慣れているのか、わからないが、たくさんの食糧が目の前にある。喋れればいいのか。きっとそこで大声で喋っている人へメニューを訊けばいいのだ、そこの人が言うように今日のオススメで、と。
 すると背後から小さく走る音が聞こえ、振り返れば少し焦ったような声で「すみません…!」と言うジャーファルがこちらに向かってくる。

「文字、読めないんですよね、忘れていました」
「いえ。別に。大丈夫です。どれがいいんでしょう」
「あまりお腹は空いていないようですし…簡単なもので?お好きな食べ物はありますか?」
「………」
「…持ってこさせましょうか」
「あ、すみません、いえ、大丈夫です、少し気が散ってしまって」
「…そうですか。なら私と同じのにしましょう」
「はい、お願いします」

 後ろに付いていくと、ギャラリー達の声が一瞬消え、またわっと叫び声にも似た大きさで話し始める。内容はジャーファルの後ろにいるのはどちらさんだ、という話題だ。別に大して気にもしないので前を向いていると、ジャーファルは肩を落として肉団子セットを二つを頼んだ。しかも「半肉団子セット」と言って。
 料理人はいやあ、ジャーファル様が半を頼むとは、と笑っている。本来はガッツリ食べるのだろうか。
 席に付く食客や兵士の声が朦朧と聞こえてくる。ジャーファルの真似をするように、出来上がった半肉団子セットのトレーを両手で掴み、その後ろをついていく。辺りが少しだけ静かになった。
 ジャーファルは半肉団子セットを机に置き、椅子に座った。わたしは向かいの席に座ろうと思ったが向かいの席には先客がおり、突っ立っていると、ジャーファルは「ここしか席が取れなかった」と言い、自分の横を指差した。わたしは無言でその隣に座り、三つの肉団子を見つめた。

「ジャーファルさん、わたしと同業者だったんじゃ?」
「……あなたは食客ではありますが暗殺者なんですよ。教えると思いますか」
「いえ、まあ、思ってないですけど。あなたがシンドバッド王を心から信頼してるからこそ、なぜだろうと思ったまでです」
「言ってもわからないくせに?」

 最初は美味しいと思っていた肉団子だが、ジャーファルと話をしていたら段々と味がなくなっていってしまった。あの頃のご飯ととても似ている。皿を置いて溜息を吐いた。ジャーファルがわたしの方を見ているのがわかる。

「…ごめんなさい。ありがとう。読み書きはいいです。王にはテキトーにごまかしてください。わたしは字など読めなくていい」

 席を立った。ジャーファルは追いかけてこなかった。






 わたしの顔を鏡でみたらきっとムスッとしていると思う。太い木の枝を股で葉の間から零れる太陽の光を見つめていた。わたしはこの空間が大好きだった。木は嘘をつかない。木は正直ものだ。木はいい。葉はいい。わたしを裏切らないから。気持ちがいい。
 ジャーファルと別れて小一時間が経ったろうか。きっとそれくらい経っている。
 お金を貰って平々凡々な生活も悪くないかも。かるーい仕事して生きていくのも、いいかもしれないなあ。

 別にいいか、弱みを握られても、シンドバッドじゃないから。シンドバッドならそれにつけこんできそうだけどジャーファルはしなそうだし…。うん、うん、大丈夫だと思う。少し町の方へ行ってみようかな。天気もいいし。今は昼間だし。
 ざくざくと雑草を踏む音が聞こえ下へ目を向けてい見ると大男が立っていた。「…どーも」「……どーも」わたしから声をかけてやったのになんだその表情は!

「マスルールいいところに!あの、名前さんを見かけませんでしたか!」
「…名前さんならここに」
「うげっ」
「…探しましたよ。さあ早くこちらにいらしてください」
「ちょっとなんですか、わたしは勉強なんてしたくないです離してください」
「いいえこれも私の仕事なので」
「ちょっ…」

 無理矢理に服の袖を引っ張るジャーファルに、わかった、わかりましたから服を離してくださいと声を上げるとパッと袖が離され振動で後ろに反った。
 まったくシンドバッドの周りには面倒くさいやつらばかりじゃないか。くそ。




「ああ、もうここ違うって何度言ったらわかるんですか!」
「あーもううるさいなあうるさいですよジャーファルさん!黙ってろ!」
「んだとテメェもう一回言ってみろ」
「黙れ白髪!」
「殺す!」
「あー!なにやってんだお前ら!落ち着け、落ち着けってば!」

 わたしとジャーファルの喧嘩の仲裁に入ったシンドバッドは大きな息を吐いて、もうちょっとでいいから仲良くしないかという提案にわたしとジャーファルは顔を背けた。「ふん!」別にジャーファルを敬えってわけじゃないんだからいいでしょう?わたしはここに暗殺に来ているのだから地位とかそんなの関係ないから!

「あのなぁジャーファル…、まあ気持ちはわからなくもないがここはもっと…穏やかにいこうではないか」
「大体シンがこの人を食客として迎い入れようなどバカ気たことを言わなければこんなことにはならなかったんですよ!」
「ふん!」
「…似た者同士だと思って大丈夫だと思ったんだがなあ」

 どこが!
 綺麗にハモった台詞にわたしとジャーファルは睨みあった。

「ははは!喧嘩するほど仲がいいとは言うがな!」
「隙あり!」
「っとお!」
「シン!」

 くそ、外したか。腕に付けている仕込み刀で首を跳ねようとしたが間一髪のところで避けられてしまった。シンドバッドを庇うようにわたしの前に立ちふさがるジャーファル。落ちた包帯を拾ってジャーファルに指をさした。

「ジャーファルさん。わたしと今から一対一の真剣勝負をしようじゃないの」
「ほう、一対一と…。その表情かなりの自信があるようですね。しかしその表情もあと数分のうちに泣き顔にかわるのを想像したら、ああなんと笑える」
「はっ…そのすました童顔に無数に傷を付けるって考えただけでぞくぞくしちゃうわぁ。現役暗殺者と元暗殺者どっちが強いか勝負!」
「望むところ!」
「おーい…」



 短剣をジャーファルが持ってはいるがわたしの武器は短剣だけではない。服の中の脇についている袋にはヒョウが入っているのだ。それに右腕の仕込み刀は晒してしまったが左腕にも仕込み刀はあるし両足にも仕込み刀がある。手の内をほとんど晒すことにはなってしまうが、今ここでジャーファルを殺せばシンドバッド暗殺に一歩近づく。
 ジャーファルには申し訳ないが、対象ではないにしろ、シンドバッドを守るというのであれば全くの別問題だ。

 そして、腰につけているケースの中にあるのはわたしの一番武器のチャクラム。ふ、勝ったな。ここまで仕掛けているとは思わないだろう…。

「そうだ、賭けをしませんか?」
「賭け?」
「ええ、負けた方が勝った方の言う事をきく、というのは。しかも一週間」
「(おお…もし殺せなくともジャーファルにシンドバッドを殺すから手を出すなと言えば手を出さないし仲間を呼ぶなと言えば呼ばない…)よし乗った!!」

 先手必勝とはこのことである。ジャーファルが戦闘態勢に入るよりも先にわたしが動いた。右腕を向けるとジャーファルも戦闘態勢に入り腕を振るった。腕に縄を巻き付けており、わたしへ向かう刃を見ればヒョウ。わたしのとは形状が違ってしっかりしているようである。足元に飛んできたヒョウを飛んでかわし、ピンと張っている縄を伝ってジャーファルとの距離を一気に縮める。縄を引いてヒョウを地面から抜いたが足元の糸を掴んでジャーファルの元へ飛んでいき右腕を振る。避けられるが、もう片方の腕を振った。

「!」
「(取った…!)」

 避けられないよう胸倉を掴み宙に浮く右足を腹へ、そして左足を思い切り振っていく。音を立てて仕込んだ刀が出てきた時にはジャーファルは驚いたがもう遅かった。
 よし、勝った、勝ったぞ!

「かっ…!」
「なかなかやりますね」

 左足は防がれた。あっ、と声を出すと同時にわたしも胸倉を掴まれて、右手で左足を、左手で胸倉を掴まれた事に気付いてしまった。だがまだ終わってはいない。右手を離して腰のケースからチャクラムを指に二つ通し宙に投げ、手に魔力を込めた。
 師匠が教えてくれたわたしの魔力を使った戦い方が、これだ。手を握って宙に放った二つのチャクラムはピタリと止まり、そして腕を振れば止まっていたチャクラムはジャーファルを目掛けて落下してくる。

「魔法か!?」

 シンドバッドが声を上げた。
 重力魔法だ。

「待て、待て待てストーップ!!」
「死ね!」
「勝負ありましたね」
「なにをいっ…ぅむっ!」

 左足を押され、そしてジャーファルの指がわたしの口を目掛けてきたと思ったら、その指はそのまま口内の中に入り舌に当たり、さっとひと撫でし、そして指は出された。

「…え…?」

 急に体中がビリビリと痺れてきたのか、急に動作も思考も停止してしまう。言葉を発したくとも口が回らない。

「な、ん…こ れ」
「痺れ薬です。あなたは接近タイプかと思って前もって準備しておいたんですよ。でも遠距離でも戦えるとは思いませんでしたが…」
「クソ…」
「それでは一週間、よろしくお願いしますね」


 なんだその笑みは…お前は……魔王か…。




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