色彩 | ナノ



 シンドバッドが自分の仕事をほったらかしにして仕事をするのもここのところ頻繁に起こるようになってきて、ジャーファルは書類と向き合いながら溜息を吐いた。これで何度目の溜息だろうか。
 名前の両腕の怪我は全治一ヶ月、と診断されたが、医師も驚くことに、両腕の回復が驚くほど早いのだと言う。体の傷、背中の傷も一週間経った今日、順調に消えていっているのだ。これもすべては、アル・サーメンの仕業か。それとも、彼女自身の能力なのかは、シンドリアにいる誰ひとりもわからない。

 名前と元主は、あれ以降一度として顔を合わせずに、片方は死んでしまった。
 名前が元主の事を殺せなかった理由は簡単だ。彼女はずっと今まで、これからも、元主に支配され続けるのだから。支配されているのだ。殺せるはずがない。名前が元主のことを恨んでいないといったら嘘になるだろう。しかし、彼女の中で元主の存在は大きかったのである。

 そして、ジャーファルと名前が顔を合わせないまま一週間が経ったということだ。
 シンドバッドが言うには、目が濁っているのだという。自分が初めて会った時の目と、同じ目をしているのだそうだ。


「ジャーファル様」

 文官の一人がジャーファルに声を掛けた。

「お疲れ様です。三日三晩寝ずに、本当にお疲れ様です」
「君も二日も寝ていないだろう? 残り少しだから、これは私が」
「……残りのコレは私共が残しておいた仕事でありますから、ジャーファル様は休憩なさってください。これからも仕事はあるのですよ」
「………あり、がとう」

 文官の意図に気付いたジャーファルはクーフィーヤを被り直して部屋を出た。向かうは医務室、名前と、おそらく一緒にいるであろうシンドバッドの元へ。
 名前は今、どんな表情をするようになったろう。
 名前に自分が元主を殺したと言えば、どんな表情をするのだろう。
 これに至っては、名前に伝えるつもりは毛頭もない。しかし、どうなるだろうと遊び心という残酷な感情が邪魔をする。

 周りがジャーファルの緩む口元、緩む目元を凝視する中、ジャーファルは医務室の扉の前に着いた。扉に手を乗せる。
 ふう、と深い息を吐くと、中から口笛が聞こえてきた。そして、鳥の囀りも同時に聞こえてきた。笑い声も聞こえる。

「(……名前か…?)」

 そろりそろりと扉を開けると、ベッドの上には名前、側の机に突っ伏して寝息を立てているシンドバッド、そして、名前の周りに集まっている鳥たち。
 名前は腕を上げ人差し指に小鳥を乗せている。

「………名前…」

 ジャーファルが名前の名を呼ぶと、名前は頬を染め、微笑んだ。

「やっと、来てくれた」


 何が濁っているのだというのだろうか。ジャーファルからみたそれは、とても輝いているのだから。

「……シンは、寝ているのですね」
「はい。昨日からずっと。余程疲れが溜まっていたのだと思います」
「…どうでしょうねぇ……この人、ずっと仕事をしていなかったものですから」
「そうですね。ずっと隣にいてくださったのでわかっています」

 名前の周りにいた鳥たちが窓へ向かって羽ばたいていった。それを見送った名前はジャーファルに視線を戻して、ベッドから立ち上がる。
 驚き、慌てるジャーファルは名前の肩を掴んだ。
 名前は震える腕をジャーファルに伸ばした。


「ありがとう」


 ああ、この子は、わかっているんだ。
 ジャーファルは背中に手を伸ばし、強く抱きしめた。

 名前は笑う。


「生きていてくれて よかった」







 元主に名前の居場所を教えたのはリダーという男。リダーという男はアル・サーメンに繋がっているという情報を得たジャーファルはリダーの居場所をつきとめようとしたが、彼の流浪の者なのでそれは叶わなかった。名前の存在を知っているということは、名前の師匠も彼を知っているのではないかと思い、ジャーファルは名前に尋ねた。もちろん、知っていると言う。
 リダーも同じ道を歩む者、裏切られるのは考えられないことではなかったし、予想の範囲内だった、と名前は言った。ただの友人という存在だった。
 ただ名前は、リダーは自分に執心していることを知らずにいる。つまりそれを知らない名前はジャーファルにも言えないものだから、リダーの話題はここで一旦止まった。

「わたし、そろそろ外に出たいんですけどいいですか?」

 クーフィーヤを整えるジャーファルが顔を左右に振ると、名前は「えー」と不満げに呟き口を尖らせる。

「あなたがああなって、街の皆は動揺しています。しばらくは宮殿内にいてもらわないと。……あ、気にしないとか言ってはいけませんからね。本当にあなたは、警戒心が無い。いいですか、腕も完治していないんです。本来なら一ヶ月も掛かるんです。名前、わかっ」
「わかってます。本当は恥ずかしくて外に歩きたくありません。王から何をされていたのか聞いています」

 ジャーファルはぎょっと目を丸くした。自分達が駆け付けた時、元主に何をされていたかなど、訊きたくもないはずだ。なのに、きっと、名前は訊いたのだ。

 シンドバッドは断固として何をされていたかを言いたくはなかったのだが。名前の真剣な眼に負けて、離してしまったのである。
 普通ならショックを受ける内容であるのに、名前は静かにそれを受け入れていた。

「……でも、皆から菓子折りを貰っているのも事実。わたしを心配してくれて……、あの小さな男の子から綺麗な貝殻を、それに、手紙も。早く元気な姿で、外に出たい。『早く元気になってください』と、覚えたての字を一生懸命に書いて、わたしにくれました。嬉しかったんです、とても」

 名前の枕元には真珠のように光る貝殻が置かれていた。ジャーファルはそれに気付き、名前を見る。



「……ダメです。一ヶ月は静かに過ごしてもらいますからね。わたしの仕事を手伝ってください」
「………。はぁい」

 シンドバッドはまだ机に突っ伏したままであるが、二人は気にしていない様子だ。
「んごっ」シンドバッドの肩が揺れ、二人は視線を鼻ちょうちんを作る彼に向けられる。

「……ん、あれ、ジャーファルくん…?」
「おはようございます王よ。お迎えに上がりました。さあ、溜まりに溜まった報告書に目を通してくださいますよう!」
「………んんん? え? ……なんだって!?」
「しらばっくれるおつもりですか! まったく、あなたという人は!」
「勘弁してくれジャー………ああ、おはよう、名前」
「はい。おはようございます主様」
「………うん、いい響きだ。とてもいい。鳥の囀りのようだ。…気分も悪くないから、何枚かに目を通してくるかな……」
「そんなちんけな数じゃありませんよ。さあ、王よ。早く、こちらに!」

 ジャーファルがシンドバッドの胸倉を掴み、扉の方へと引っ張って行く。その姿を名前はベッドに座りながらじっと見つめていた。
 いつもの光景。
 いつもの会話。
 いつもと変わりない日常。
 こんな些細な事が、とても素晴らしいものと感じるとは。

 シンドバッドが振り返る。

「名前、また、その、なんだ、いつものきみに戻ってくれて、俺は嬉しい」

 ジャーファルがシンドバッドを見つめる。
 名前がシンドバッドを見つめる。
 それではな、と片腕を上げてジャーファルに連れられるままに部屋を出て行ったシンドバッドとジャーファルの後姿を見つめる。


「いつもの、わたしかぁ……なんだろう、わたしって、どんな人なんだろう」

 布団を掴みながらボソリと呟く。
 今まで気にした事もなかったかもしれない。奴隷から解放され暗殺者として道を歩んできたつもりだ。だから自分が「暗殺者」であることくらいしか知らなかった。それに、自分で自分のことくらいしか分析できなかった、相手にどう思われているかなど考えたこともなかった。

「ジャーファルさんは、わたしのことどんな風に思ってるんだろう……」

 好き、だとか嫌いだとかではなくて、どんな風に見えているのだろう。そう考えるのは人間だれでも思う事である。


「別にどーも思ってねんじゃねーの?」
「……! あっ」

 名前の向ける指の先には、窓際に座るジュダルの姿があった。

「よぉ、名前。見てたぜ」
「え? あ……、そ、そう……。でも、ここ、窓、どうやって?」
「魔法でちょちょいのちょいだぜ? こんなん朝飯前だって。で? 回復したのか?」
「んん……? 腕のこと…?」
「そ、腕のことだよ。大分回復したみてえだし、とっとと俺の国にいくぜぇ」
「……く、国? あなた、国主様なの? そんなに若いのに? あ、いやでもわたし、ここの食客だから……」
「ここの食客の前に、お前はアル・サーメンの『人形』だろうが!」

 ………え? 時が止まる名前に近付いたジュダルは、名前を横抱きにして持ち上げた。案外筋肉質なのである。

「ちょっと!」
「ぐおっ」

 名前の蹴りがジュダルの顔に入る。
 今、ここに武器はない。太刀打ちできるのは安定しない魔力操作のみである。それにジュダルは魔法を使うことがわかったから、名前も迂闊には手を出せないのだ。
 ジュダルが手を離した事で床に転がる名前。態勢を整え、ジュダルから数歩距離を取った。

「おいおい幼馴染にそりゃないぜ」
「幼馴染? わ、わたしあなたの記憶なんてひとつも……」
「記憶消されたから覚えてねえだけで、俺はお前との記憶しっかり覚えてんだよ! それに、お前がここにいるからアル・サーメンはここに侵入できるようになってんだ。つまりなぁ、お前は俺らをここに侵入させることのできる魔法陣ってわけ、わかるか? わかったら行くぞ」
「わっかんない! わたしは行かない!」
「行くんだよ!」
「行かない!」
「っ……、こういう会話も、昔と変わりねぇんだよ!」

 ジュダルは杖を手に取った。名前の表情が強張り、拳を作る。

「……ま、いいや」

 杖は下ろされ、ジュダルは姿勢を崩した。拳を作った名前も、それにつられて肩に入った力が抜け、手を解く。

「どうせ俺らからは逃げられねぇんだ……。急ぐ必要もねぇ。 シンドバッドに言っとけよ、面白いもん見せてもらった。大事なものを奪うからなって」
「……どこに行くの? 帰るの?」
「………じゃあな名前」
「あっ、ちょっと、ジュ、ジュダルっ!」

 窓を蹴ったジュダルに名前は手を伸ばした。ジュダルは宙を飛んで、青い空へと向かっていく。名前は口をあんぐりと開けてその光景を見つめていた。

「昔の、わたし……」


「わたしって、なんだろう」




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