色彩 | ナノ



 名前は努力をするようには見えない性格ではあったが、陰で努力を怠る事のない、非常にまじめで、それでいて明るく、謙虚で、無邪気な女性であった。この私、ジャーファルから見ても、彼女の存在は、内に秘められている大切だとか、護りたいだとか、そういうのを無視しても、やはり、一般人の目から見て、同じように、暖かな目で彼女を見つめてしまう。
 彼女はいつだかの私のように、暗殺者の顔を忘れたりはしない。まだ暗殺から身を引いて日が浅いからであろうか。彼女は、ふとした時、暗殺者の顔を見せることがあった。何か思いに耽っている時、よく、あった。同時にとても悲しそうに、生きている心地を見せない眼をすることも、当然解っていた。
 どういう生い立ちであるかも、彼女自身が知らない。当然、私も知らない。どのように幼い頃から、最近まで、奴隷の生活を送って来たかもわからない。
 ただ、そういうのは、私にとって、本当に、二の次であって、今の、名前を、大事にしたいのであって。

 しかし、私は名前のことが大事であるから、名前を苦しめるものすべてが憎らしくて堪らないのに、どこかどうもできないことを悟っているようにも思えるのだ。
 自身が諦めかけている。
 彼女には、手が届かないのではないだろうかと。
 好かれていることもわかっている。十分にわかっている。
 けれど、名前の中の闇を消せるのが、自分であるのかと考えると、そうでない、とも、答えられてしまうものだから、これまた怖くて、どうしもなくて、情けない。

 助けて、と言われたら、助けることはできるのだろうか?
 彼女の闇を消す事をこの私ができるのだろうか?

 私の名を呼ぶ声が、今でも耳元で聞こえてくる。
 返事をして振り向くと、嬉しそうに頬を染めて笑ってくれる。

 好きだと言えば、好きだと、言えば





「しばらくは、俺がみていよう」

 王の申し出に、医師とジャーファルがえっ、と声を漏らした。
 名前の手を握っているシンドバッドは頑として動こうとはせず、医師とジャーファルは顔を見合わせ、頷き、医務室を出た。あのような王を彼らは何度か見た事はあったのだが、それも久方ぶりだったので、思わず身を引いてしまったのだ。
 ジャーファルは痒い思いと、名前飲みを心配する思いを同時に抱えながら、仕事場へ戻って行った。
 街の動揺が予想を遥かに超えている。もちろん、あの場にいた者達は名前の身を心配をした。そして何事かと集まった者は、ただただ驚いていた。
 しばらくは名前を外へ出す事は控えたほうがいいだろう。ジャーファルはそう考えて、名前から贈られた羽ペンを握った。同時に、手で顔を覆った。息を吐いた。
「馬鹿だな」と、呟いた。

 名前の手を握るシンドバッドは、傷だらけの名前の顔を見つめていた。彼は何も考えたくなかったのだ。しかし、名前の存在がある以上、元主の存在を消す事は出来ない。
 どう処遇するかを考える。首をはねて殺すか? それとも、食糧を与えずに弱っていくのをただ見つめるか? それでは生温いか? 名前をこんなふうにしたように、あいつも……。
 名前がジャーファルを止めた一言にシンドバッドは悔むばかりであった。気を失った時、自分は殺せばよかったのだと後悔したのだ。主である自分が殺せば、彼女は何も言えないというのに。
 ジャーファルを止めたあの言葉が深く心を傷つけた。
 謝肉宴が終わってから3時間が経つ。医師からは、名前は一日中、もしくは明日まで掛かって寝ているだろう、と診断された。
 もちろんその方がいいと、シンドバッドも思った。
 今は、休んでほしい。
 いつものように、笑っていてほしい。
 が、しかし、それが到底叶わなくなるのではとも、思っていたしわかってもいた。

「あるじさま」

 シンドバッドは顔を上げる。いつの間にか、俯いていたのだった。

「名前……?」

 シンドバッドは名前と目が合う。名前は笑い、シンドバッドは握る手を震わせた。

「いい、いいんだ。今は寝ていなさい。たくさん、体を休めなさい」
「主様は?」
「え?」
「主様は、どこに?」
「……なぜ」

 握る手を強めた。名前は顔を背けるように笑って、折れている両腕など動かせるはずもないのに、動かそうと身を振った。

「夢を見ていたんです。皆が、彼を殺してくれと。今まで彼に殺されていったわたしの友人たちが、彼を殺してくれと、頼んだんです。わたしにはもうそんな力がでないかもしれない。けれど、王は、彼を、殺してはいないのでしょう? だから 殺そうと 思うんです」

 名前の表情に、シンドバッドは驚くよりも怖いと感じた。まるで生きている心地がしないのである。今まで、たくさんの表情を見てきたシンドバッドだが、名前のこのような表情を見るのはこの時が初めてだったのだ。

「死んだみんなは帰ってこない。死んでしまったら、もう、終わりなんです。王もそれはおわかりでしょう? だから殺すんです。殺したいんです。 わたしはもう、いやなんです もう苦しい思いをするのはいやなんです。 王よ 王よ、シンドバッド王よ わたしは 間違っていますか」

 シンドバッドは名前の手を両手で包み、額に当て、こみ上げる涙を抑え、強く握った。

 間違ってなどいるものか。
 名前は、優しいのだ。本当に、この人間は、優しいのだ。
 この言葉は本心から出てきたものではない。 本当は殺したくなどないのである。 本心は、あの時ジャーファルを止めた時の言葉である。

「名前、俺は、きみを、幸せにしたいんだ」

 どうしたらいいだろうか?
 どうしたらきみを救えるのだろうか?

「笑っていてほしいんだ」

 生気のない目がシンドバッドに向けられる。


「痛いんです  心が 痛いんです」



 名前は夢を見た。
 たくさんの友人が自分を取り囲み、頭を撫で、傷を撫で、笑っていた。
 もう平気だ、無理をするな、と言って。

 名前は痛いんだと友人らに伝えた。
 それは体なのか、心なのかと友人らは尋ねた。
 名前は心だと答えた。
 友人らは名前の手を握り、悲しいのかと尋ねた。
 「悲しい」という気持ちを忘れていた名前はその気持ちを思い出して、今まで匿っていた「悲しい」思いを流した。
 名前、お前は優しい。
 名前、お前は強い。
 名前、お前は 生きてほしい。
 彼女のことを思う者達の心からの言葉だった。

「みんなは生きれなかったのに。わたしだけ生きるだなんてできっこない。みんなだって生きていいはずだったのに」

 友人らは笑った。苦笑いを浮かべた。
「名前、きみは、優しすぎて忘れている。きみは、主を、殺してもいいのだ。私らの変わりに殺したって、罪に問われることはない。きみにはもう、優しい主がいるではないか」と、友人は名前に伝えた。
「名前の笑っている顔を見るのは初めてだった。とても嬉しかった。ずっと笑っていてほしいと思った。きみは、望んでいいのだから 幸せを、望んでいいのだから」
「生きていいのだから」



「わたしは、生きたい」

 それが皆の望みであるならば。
 生きれなかった、笑う事の出来なかった皆の望みであるならば。

「みんなの分も、生きたいの」

 止めどなく溢れる涙をシンドバッドはただ見つめ、頷いた。

「でも、主様は殺したくない。殺せない。殺せないの、殺したいのに、殺せない……」

 元主を殺すことで皆の気持ちを受け止めるということになるわけではない。友人らが望むから殺す、けれど、名前本人の意思ではない。
 わかっていた。
 主を殺しても、皆が帰ってこないことはわかっていた。

「わたしだって、殺したい。今までの痛みや悲しみを、あいつにぶつけてやりたい。 でも、でも、できないの。 殺す事が、できない」
「ならば殺す必要はない。処分は、こちらにまかせてもらおう」

 シンドバッドの返事に名前は視線を向ける。え? という声に、シンドバッドは微笑んだ。

「復讐にとりつかれることもない。あの時、ジャーファルを止めたあの時の言葉がきみの本当の心だと俺はわかっている。だから、あの者の処分はこちらで済まそう。……俺の、きみを救う最後の仕事だ」


「生きなさい。 世界はきみを待っているぞ」




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