色彩 | ナノ



 名前の容態は思いのほか、健康そのものだった。アル・サーメンが力を奪った、といったあの行為、本当に力を奪うだけの行為だったらしい。鼻血や吐血をしたものの、少量であったため何の心配もいらなかったのである。
 静寂がながれる夜、名前は部屋で短剣を研いでいると、扉が二度叩かれた。扉を開けると、クーフィーヤを被らないジャーファルが目の前に立っており、その時、ジャーファルが部屋に来ると言っていた事を思い出し、苦笑いを作りながら、名前は部屋へ招いた。

「短剣を研いでたんですか」
「アル・サーメンに傷、あまり付けられなくて」
「あ。一応は戦ったんですね」
「あの時ジャーファルさんが来てくれなかったらやばかったかもしれないですよね」
「かもじゃありませんよ。やばかったんです」
「……ですよねぇ。まったく、本当に、真正面で対峙するの慣れていなくて……」

 アル・サーメンが言っていた通り、名前は魔力を操作を奪われた。今まで行えていた魔力操作が上手く扱えなくなり、名前は顔には出さないが、心は落ち込んでおり、こうして一人で剣を研いでいる時など、より一層落ち込むのである。
 アル・サーメンによりまず魔法が、次に魔力操作が奪われた。
 奪われた、というのは間違いなのかもしれない。消された、と言った方が、今の名前を表現するに打ってつけだろう。

「アル・サーメンはもういませんし、後処理のことは私にお任せください」
「……あ、そっか…。もうアル・サーメンはいないんですよね…。そうかぁ……。でも、術式くらいは確認しておかないと…どこか欠けている部分があるかもしれない……」
「………。…あまり思い詰めなくてよろしい。あなたはあなたがすることだけを考えて」
「術式を確認すること」
「いいえ。修行に励むことです。魔力操作、ああなってしまったからにはね……」

 確かにそうだった。ジャーファルも目の前で名前の魔力操作を見ていたのだ。
 しかし、術式を確認しなくてよいのか?本当に良いのだろうか?

「それから」

 ジャーファルの声に顔を上げる。

「……あ、いえ、なんでもありません。これはまた別の機会に……」
「え? なんです? 逆に気になります勿体付けないでください」
「べ、べつに勿体付けてなんか……」
「わかります、わたし案外ジャーファルさんのこと、見てるんですよ」

 名前がジャーファルを見つめると、ジャーファルは息を吐きながら名前の隣の椅子を引き腰を下ろし、両肩に手を置いた。

「二人きりの時は?」


 名前とジャーファルには約束がある。いや、決まりと言った方がいいかもしれない。
「二人きりの時は『さん』を付けないこと」
「敬語を使わないこと」
 といった感じである。しかし二人に定着してしまった「敬語」は時と場合にしか抜けないし、名前の「さん」付けだって同じと言えよう。


 名前は少し考えた後、短剣を机に置き突っ伏した。ジャーファルは目を丸くして、名前の背中を揺する。

「ええ、ええ? なんですか」
「ジャーファルのエッチ」
「なんというストレート……」
「エッチな目、してましたけど」
「だっ………。もういいです……」
「ジャーファルさんはぁ〜夜になるとぉ〜〜狼になるんですよね〜〜〜。ムードがないなぁ〜」

 ムッと口を尖らせたジャーファルが名前の胸倉を掴む。驚いた名前は咄嗟に両手を上げ、「ギブアップです」と冷や汗を流しながら呟くと、口を尖らせたままのジャーファルは「許すと思いますか」と睨んだ。
 それは、つまり、その。胸倉を掴まれたままジャーファルにより立ち上がり、後ろのベッドへと後退していく。

「わわ、わたし落ち込んでるんですけどっ」

 唇を震わしながら必死にジャーファルを止めようとするも、ジャーファルは問答無用で名前の服を脱がしていく。名前は慌てて脱がしてくる手を握り、これ以上の進行を許さなかった。

「ジャーファルさん、ムード! ムード!」
「ムード? ……ムード、ねぇ」
「なにその笑み……! ひゃあっ!」

 握られていた手を振り払い、自由になった両手を服、そして額に置いて体重をかけた。
 名前は顔面蒼白になる。

 やばいぞ。この顔のジャーファルさんはやばいぞ。

「お、おおかみっ! ひとおおかみ!」
「それはどうも」
「褒めてない!」

 くわっ……
「くわれるぅ!」


 その夜、名前はジャーファルに食べられたとか。そして満月であった、とか。





 マスルールと短剣の手入れをしていた時だ。南海生物が出たとの報告に名前とマスルールは顔を見合わせる。
 アル・サーメンがいなくなったと思ったら、次は南海生物か……。と。建物の修復はまだ完全ではない。
 アル・サーメンの始末を終えた三日後のことだ。ジャーファルが精を出して処理を進めているが、被害が大きいためになかなか修復ができていないのだ。

「次から次へと……。まぁ、でも謝肉宴だし、皆は案外平気なのかもしれませんよね」
「何がだ?」
「えっと、ほら、南海生物も敵でしょ?」
「………食糧」

 ボソリと呟いたマスルールに名前は笑った。

「あっ……と」
「次はなんだ?」
「いえ、ほんと大した事ないんですけど、今回は、あの、綺麗な格好しようと思って……ほら、女の人皆着飾ってるでしょう?」

 ジャーファルさんとの約束だし。と、呟くと、マスルールが何の反応も示さないため、名前はおかしく思ってマスルールを見上げる。反応が薄いのは通常ではあるが、名前の言葉に反応しないというのは、滅多にない。

「えっ………」


 マスルールの顔が、赤いのである。
 その髪に負けず劣らずの、まっかっかなのである。

「(な、なにかおかしな事言ってしまったのだろうか……。なにこの空気重いよぉ……)」
「………すまん」
「え!? あ、いえいえ。………なにが……ですか…?」
「……今回は」

 赤みを帯びた顔と、輝く目が名前に向けられる。

「花、くれるのか」

 ああ! 名前は手の平に拳をあてた。そういうことだったのか! マスルールの恥ずかしがり屋という意外な一面を見つけたと勘違いした名前はマスルールの背中を叩く。
「もちろんです!」
 ちなみに、マスルールの顔の赤みはそれで赤くなっているわけではない。


 マスルールと宮殿に戻り、急いで南海生物の元に向かった。八人将は王と、名前は離れた場所でその光景を見つめていた。今回はマスルールが南海生物を相手にするらしい。
 いつもよりはりきっているマスルールに、八人将と王、そして民たちがその姿をみて口を開けた。
 豪快である。ただ豪快である。そして無理矢理である。力任せである。
 ファナリスの力を改めて見せつけられた一同は、マスルールには逆らわないでおこうと、必然的に思った。
 そして名前はふと、ジュダルと呼ばれた少年を思い出す。あの子は一体どこにいるのだろうか、と考えるが、またあんな事をされたら面倒であるから、あまり考えないでおこうと、少年の存在を記憶の片隅に追いやった。




 なにも恥ずかしがることではない。と、自分に言い聞かせた名前はアミナの元へと向かっている。左腕の傷、恐らくは誰もが目に止まってしまう傷。不完全に完治してしまった傷。ジャーファルは気にする様子もなかったが、やはり傷のある本人は気にしてしまうものである。
 しかし、以前名前に送った言葉を思い出すと、せずにはいられないのだ。

「あら、名前様?」
「…アッ、アミナ……わ、わたしも……」

 引かれるのではないだろうか。傷を見て、皆は遠退いてしまうのではないだろうか。
 テントに着いた名前は中へ入り、やはり綺麗に着飾るアミナがそこにいた。アミナは驚いて名前を見上げ、ハッとして花を手に取る。

「ああ、ううんと、ちがくて……わたしも、着ようと思うんだ」

 不器用な会話であるが、素直な会話でもあった。
 アミナの様子を伺ってみれば、アミナは口を開けて目を輝かせ、花を持つ手が震えている。

「もちろん……! さぁ名前様こちらに!」
「あのさ……。その、わたし、綺麗な体ではないから。見ても幻滅しないでね?」
「……ええ。もちろん。当たり前です」

 アミナは発言通り、名前の左腕の傷を気にすることはなかった。髪を上げ、専用の髪留めでまとめた髪と留める。
 名前の体は綺麗な体とはいえなかった。所々薄く傷が残っている箇所がある。幸いにも薄く、凝視しないと見つけられないほど薄いものであった。しかし、左腕の傷は腕を出す限り目立つ。名前は左腕の傷を手で覆い隠した。
 前髪を綺麗に分けられ、櫛でとかされる。初めての経験に名前は頬を赤く染めた。

「お花、10個くれる?」
「ええ、いいですけれど。多くはないですか?」
「ううん、多くないよ。ジャーファルさんにあげる分が入ってるから」

 それを聞いたアミナは嬉しそうに微笑んだ。

「はい。かしこまりました。とお、用意しましょう」

 アミナは綺麗で可愛くて、素敵な人だなぁ。と思った事は心の中で留めておこう、と名前は思った。アミナの笑う顔を見ていると、とても嬉しくなって口が開けなくなるのだ。

「ありがとう、アミナ。すごく、嬉しい。着てよかった」

 震える声で出たのは、不器用で素直な言葉であった。
 アミナは口元を押さえて笑って、名前の左腕の傷を覆い隠す手を取って、背中を押し、姿勢を正しくさせた。

「あなたの綺麗なお姿を、ジャーファル様にお見せになってきて」

 そうしたら、私も嬉しい。
 アミナの言葉に、名前は笑った。




 仮面を持って、花をもって、ジャーファルら八人将と王の姿を探す名前。人の波に飲まれながら、花が崩れないように護るのに気を使うのは案外大変である、と溜息を吐いてやっと人の波から抜け出した。早く皆の元へ向かわなくては。護った花を抱きながら人を避けて速足で歩く。

「(ジャーファルさん、喜ぶかなぁ……)」

 きっと喜ぶはず。以前、見たいと言ってたもの。きっと、綺麗ですって、言ってくれる。
 ああ、名前さんだぁ。名前様綺麗ー!と人の波から声が聞こえ手を振って答える。ただ立ち止まることはしなかった。
 早く会いたかったからだ。
 早く、花と自分を贈りたかったからだ。

「(ジャーファルさん、ジャーファルさん)」








「よお、久しぶり、名前。ほんとに」


 名前は立ち止まる。


 音が消える。
 人間が消える。

「私も成長したつもりではいたんだが…。名前を前にすると、昔の記憶が戻っちまって……こう、おさまらねえんだよなぁ……。もちろん、俺の顔、覚えてるだろ? なぁ、名前」




「うそ………」

 男が名前の腕を掴んだ。
「おら、こっち、こっちだよ!」強引に腕を引き、人混みを離れた入り組む建物の影に隠れた。特にここは、人が寄り付かないほどに暗い。人の目は向けられない。



「あるじ……さま……」




prev next