色彩 | ナノ



 名前の入る牢屋に5つになる男の子が入った。男の子は泣いており、誰も手を差し出そうとしなかったので名前は手を握ってやり、抱きしめてやった。それにいつも名前を可愛がってくれる、20後半の女性も加わることにより、牢の中の雰囲気が少しだけ馴染んでいく。
 小さな男の子は言葉を理解して話す事もできた。傷だらけの女性の側に寄り添って、頭を撫でてやったりしていた。
 男の子が言うには、家族と別れてしまい、そこから意識が飛んで気付いたらここにいたと言う。随分と口は達者だが、文字は書けないことがわかった。あまり、育ちが良くない。牢の中の皆は貧しい街で育ったこと、貧しい環境で育ったことをすぐに理解した。

「名前、呼んでるぞ。そこのガキもだ」

 名前と、5つの男の子が呼ばれた。



 主は二人にブドウ酒を買ってくるように言った。ブドウ酒に関しては名前はよく買いに行かされるので、外の空気も吸わせることができるから名前は男の子の手を引いて屋敷を出た。

「きみはまだ5つだから一人で買いに行かされることはないけど、勉強するんだよ」
「うん」
「1本だけ持ってね?あとはわたしが持っていくからね」
「うん」

 ブドウ酒を買った名前は1本だけ男の子にブドウ酒を持たせた。
 ブドウ酒を買うのに慣れた名前からすればお手のものだったが、男の子は奴隷になってからすべてが初めてだった。お金を見るのも初めてだったし、ブドウ酒を見るのも、においを嗅ぐのも、重さを感じるのも、何もかもが初めてだったのである。
 少し嬉しそうに頬を緩ませる男の子に、名前も同じように頬を緩ませた。
 奴隷になって初めて自分よりも遥かに小さい子と触れ合い、そして懐かれている。それが名前にとって嬉しいことだったのだ。

「奴隷になったのは初めてでしょう?あまり主様を怒らせてはいけないからね」
「がんばる」
「ただひたすら耐えて耐えて、耐えるしかないよ。そうしたらいつか、誰かが救ってくれる。あなたのお父さんやお母さんが現れるかもしれない。わたしは何人か奴隷から解放された人を見た事があるの」
「どうして解放されたんだろうねえ?僕も早く解放されたいなあ」
「きみはまだ小さいし、大人たちの影に隠れていたらいいよ。みんなきみの事気に入っているみたいだからね」
「おねえさんは?」
「わたしがなに?」
「まだまだ解放されない?」
「わたしはまだまだだよ。主様をよく怒らせてしまうから……」
「いい人なのに?」
「わたしはいい人ではないよ」
「僕はおねえさんのこと、大好き。ねえ、戻ったらたくさんお話しようね。みんなとも」
「うん、そうだね。たくさん、きみのこと教えてね?」
「もちろんさ!僕は今日お姉さんが渡したお金のことについてたくさん聞きたいんだ!どうやって払うか、とか、そういうのを!」
「わたしは、アルのこと全部が知りたいなあ。教えてくれる?」
「全部ぅ?おねえさんは欲張りだなあ」

 勉強するんだよ、とは言ったが、実際名前は読み書きもできなければお金の計算だって出来ない。年上として見栄をはりたかっただけ、しかし名前は初めて母性というものを感じた。両手でブドウ酒の桶を掴む男の子を見下ろし、フッと笑った。
 そして、同時に奴隷であることにを思い出し、笑みが消えた。


 屋敷に着き、調理場へブドウ酒を届けにいった。また明日もだよ、という使用人に対し「はい」と返事をした名前を見て、男の子も「はい」と返した。
 調理場を出た二人は牢屋へ続く道に侍女と共に歩いている。
「きみ、なんていうお名前なの?」
「ぼくはアルダスだよ。皆からはアルって呼ばれてた」
「そう、アルっていうの。今更だけどよろしくねアル」
「うん、おねえさんもよろしく」
 おねえさん、と呼ばれたことに名前は頬を赤くして、うん、と返事をした。比較的綺麗な服のアルと汚れた服の名前の明暗の差はハッキリと使用人の目に移っていたし、なにより身長が違う。使用人は名前が嬉しそうに笑っている姿をこの時初めて見た。

 侍女が歩みを止め、後ろにいた名前とアルも止まった。

 主である。
 主は大股で侍女らに近付き、侍女は身構え、後ろの奴隷は身構えなかった。
 そして主は名前の腹を蹴った。

「ぐっ……!」

 名前は腹を抱え、苦しみに声を漏らしている。アルは顔面を青くして主と名前を交互に見た。
 主はアルに目もくれないまま、名前に近付き馬乗りになり、髪の毛を掴んで頬を思い切り殴った。

 バキッ
 バキッ
 バキッ
 バキッ

 主の腕は止まらない。周りにいた使用人たちは壁に背を這わせその光景を青ざめた顔をして見ていた。
 名前は吐血、鼻血を出して、目が腫れ、髪を引かれ、思い切り床に後頭部を押しつけられる。そして主は歳のわりに力が強く、腕を掴んで何度も何度も強く床に叩きつけて、名前の左腕は折れた。
 名前は声のない叫びで左手を庇うと、主はそれでも左手を床に何度も叩きつける。

「やめてよ!」

 アルが叫び、主の体に体当たりをした。使用人はアルが怯えながら主へ走って行く時、止めようと思ったのだが、主が名前にする事なす事に呆気を取られ反応が遅れてしまったのだ。
 名前は左腕の痛みを一瞬忘れた。

 アルが、

「あぁ?なんだコイツ。……ああ、あれ買いに行かせたガキか……おい、剣」
「やっ…、やめてください、主様……!どうかこの子にご慈悲を……っ」

 即座に名前は反応する。主はアルに向けた視線を名前に戻した。

「うるせーよ、ゴミムシ」



 名前は髪を掴まれたまま立ち上がらせられ、床に擦れて地につかない足、引きずられてすぐそばにあった部屋に連れられた。主は剣を使用人から受け取り、名前の左腕を深く抉るように切ると、名前は高く大きな声で叫んだ。しかし主はそれを気にする様子もなく、服を剥いで素肌に刃先を向け、切り刻んだ。
 痛い、と言えないのが奴隷。
 やめて、と頼めないのが奴隷。

「あっ、あっ ぐっ」
「ゴミムシめ、俺に指図するなんて、わきまえろ。虫が人間に、指図するんじゃねえ」
「ひっあっ」
「このまま死ね。死ね。死ね。死んじまえ。クズのくせに、生きてる価値もないゴミムシ奴隷が。俺が潰してやる」

 主は名前の目を殴る。名前は痛みに耐えかね右手で目を押さえると、その腹に主の蹴りは入った。宙に浮き、地面に叩きつけられた名前は必死に息をしようと肩を上げ肺を動かすが、主は胸に足を乗せ、踏み続ける。

「ゴミの分際で、声なんて出してんじゃねえよ!」
 胸を踏み続けていた足は、腹へと移動していった。

「どうせ一生奴隷のままなんだ、子どもなんて産めない体にしてやる!」
「ああ、いや間違えた。どうせ産めないんだから俺の地団駄の練習台になれ!」

 名前は口を固く閉じて耐えた。
涙が出そうになるのを必死に抑えて、主のされるがままに、終わるのをただひたすら耐えて待ち続けた。

 痛い。

 痛いよ。


 誰か、助けて。





 名前が牢屋に帰るまで、どのくらい経ったろうか。奴隷はほとんどが労働による疲れで寝てしまう時刻であった。

 体中に切り傷を付け、吐血、鼻血の痕、そして折れたままの左腕と、深く抉られた左腕をこさえて牢屋に戻ってきた名前。主に背中を切られ、なだれ込むように転がり、牢屋に入り、施錠された。
 一人の女性が気付き、名前を抱きしめる。
 名前は段々と人のあたたかみに気付き、意識を取り戻し、息を吸い始めた。
 一筋の涙が零れる。
「名前、名前……なんてことに…。かわいそうに……こんなになって、ああ、名前、痛いでしょう? いい子、いい子ね名前………」
 辛うじて動かせる右手で女性の服を掴んだ名前は大粒の涙をこぼし、大声で泣き叫んだ。周りの奴隷は驚いて飛びあがり、声の主へ視線を向ける。名前の姿をみた奴隷は驚いた。こんなになるまでにされたのは過去一度としてなかったからである。
 体中から血が流れ、目は腫れている。そして左腕に肉片が少し見えている深い傷、そして折れている骨。
 女性も同じように涙を零した。

 アルはその日、主の命令により殺された。
 奴隷達の餌になった。




prev next