色彩 | ナノ



 何も異常はないようだった。昨日のように苦しくなることもなく、また支配される様子もない。
 手首の包帯を解くと、そこには鮮明に昨日の傷が残っていた。また怪我をしてしまった。今更傷がひとつできようと名前にはどうでもよい事だったのだが、ジャーファルにあのような表情をさせてしまったからなのか、表情は硬い。
 ガチャリとノックをせずに部屋に入って来たのはシンドバッドだった。
 名前は力を入れ、支配される前に止めるべく片手に短剣を持ったが、昨日のようにシンドバッドへ攻撃に移りことはない。
 そしてシンドバッドが近付いてきた今も、攻撃する気配はなかった。

「昨日は申し訳ございません」
「いや、安心しなさい。わかっているよ」

 続いてマスルールが部屋に入る。壁を背に、後ろに手を組んでじっと名前の様子を伺い、その手首の傷に気付いて目を開いた。かすかに血のにおいも混ざっていた理由はこれか、とマスルールは手首の傷だけを見つめた。
 手首の傷に手を乗せた名前は口を開く。

「すみません、今から術式を確認したいのですが」
「あまり無理をするな。傷に響くぞ?」
「大丈夫です。師匠と修行をしてた頃はもっと、これよりも深い傷作りましたから。それにすぐ対処すべき問題でしょう?」
「………わかった。だがまずはヤムライハに体に異常がないか調べさせるが、いいね?」

 シンドバッドは二歩程後ろに下がり、名前はゆっくりと足を地に付ける。
 しいん、と部屋の空気は重い。支配されるかと思っていた名前だったが、支配される様子もなく、歩いてシンドバッドに近付いた。

「シンドリアに侵入したアル・サーメンは一人ですか?」
「いや……被害が多発している様子を見ると一人ではないとジャーファルが言っていて、今街を偵察しているよ。海ではヒナホホとスパルトスに警備に当たらせている。ピスティは上空から、シャルルカンとマスルール、ドラコーンは王宮内、ヤムライハは術式の確認……」
「やはり街の警備を強化すべきですね」
「八人将直属の戦闘部隊を手配しているが……アル・サーメンの有益の情報は入ってこない、か……。鼻のきくマスルールを手配するしかないか」
「それでは王宮ががら空き状態です。相手はアル・サーメンなのですから、王宮の警備は怠れません。わたしが行きます」
「ん?いま何と?」
「わたしが……」
「よーし街の戦闘部隊の数を増やすぞマスルール」
「ええーっ!わたしの話し聞いてましたか!」

 名前には自覚がないだけである。自分がアル・サーメンに常に狙われている存在なのだということを。詳しいことはまた後日話すとして…。
 名前が食客であるということを忘れてはならない。食客である名前がシンドバッドと親しい関係であろうが、食客は食客なのである。王が説得できるのはここまで、後は名前の勝手ができるわけだ。このことを理解できている名前は「はい」などと適当に返事をして、踵を返す。
 シンドバッド、そして一歩先にマスルールが反応し名前に手を伸ばそうとしたが、彼女は現暗殺者、それもかなりの実力を持っていることを忘れてはならない。
 マスルールが名前の腕を掴んだと思われたがその手の中に彼女の腕はない。
 遠くの方にいた名前は暗闇に紛れていった。



 市街地では侵入したアル・サーメンの一人が歩いている。
「はてさて、名前嬢はどこへいるのやら。困ったお方だなぁ」声の若さから、歳は20代ほどだろうか。アル・サーメンに特徴的なマスクに服装といったものは見られず、食客のような格好で歩いている。
 キョロキョロと辺りを見渡すが、もちろん名前の姿は見られない。彼が知っている情報はシンドリアで食客としていると聞いただけであって、どこへ身を寄せているのかも知らないというわけだ。1から探すとなると、この上面倒なことはないと、彼は溜息を吐いた。
 名前は部屋でマントに最低限の武器だけを取り付けて、重さを確認し羽織った。偵察をするだけだ、敵と遭遇する確率も今のところ少ない。それならなるべく動きやすい格好のほうがいいだろうし、途中でできるのならばジャーファルとも合流したいとも考えていた。

 アル・サーメンからシンドリアに暮らす人々護りたい。名前はその一心で主であるシンドバッドの元から離れて行ったのだ。居場所を特定するだけ。特定できたらラッキーだし、見つけられなかったとしても時間を見て王宮へ戻ればいい。
 魔力を足に込め、窓から勢いよく飛び出した。



「ここに怪しい人影は無し……」
 ジャーファルが路地裏を抜け中央市へ出た。ジャーファルがいくら探しても、アル・サーメンは特徴的な格好をしていないため探すのは困難である、いや、探せるはずがなかった。
 しかし、あの玉がアル・サーメンのものだとして、名前がそれを再び手にしたということはまた何か起こる前兆であることは確かだろう。つまりここにアル・サーメンはいるのだ。

「早く見つけなくては」

 国のこともそうだが、名前もそう。このまま見つからないままにしてしまったら、国だけでなく名前も危険にさらされてしまう。しかし建物の上から探しても、おかしな輩はどこにもいない。

「……ん?」

 中央市に見慣れた顔つきが一人。


「………名前!?」

 その声に名前は振り向いた。
「ジャーファルさん!」

 ジャーファルは名前に近付き、なぜここにいるのかと問う。名前は起きてから今までの経過を話すと、ジャーファルはうな垂れ、シンドバッドの元へ帰ろうと提案する。
 もちろん名前は首を横に振って、アル・サーメンを探すと言って聞かないのだ。ジャーファルは困った。昨日、シンドバッドは名前が起きたらヤムライハに体を調べさせ安静にさせておくと言っていたので、どの方向から考えても、ここにいることは非常にまずい。

「名前、あなたがもしここで昨日のようなことになってしまったらどうするんですか?」

 考えるように口元を隠したジャーファルが言った一言に、名前はハッとして申し訳なさそうに「ごめんなさい」と詫びた。ジャーファルは王宮に戻るように言うと、名前は頷いてジャーファルに背を向ける。
 せっかくジャーファルに会えたと思ったけれど、ジャーファルの言う事は正しいし、本当にこんな所で昨日のあんなことになってしまったら……。

「ジャーファルはまだ調べるんですか……?」
「そう……ですね。まだ怪しいと思う人物さえ見つかっていないので……。シンにもご報告お願いします。未だに怪しい気配はないと」
「………はい。あの…、ジャーファルさん、頑張って……」
「ええ、頑張りますよ。 そうだ…、今夜あなたの部屋に行ってもいいですか?」
「え? あ、はい」

 ジャーファルが笑い、背を向ける。名前も背を向け、互いに歩き出した。
 こういう時こそ、そばにいてやらなくては、とジャーファルは裾に手を隠し、行き交う人々へと視線を動かす。
 名前は人混みの中に消えて行ったジャーファルの背中を見つめていた。そしてこんなにも人に溢れている中央市からは離れ、建物の上から少しだけ、少しだけ探って行こうと、路地裏へと踵を返した時だった。

 腕が掴まれた。
 名前は咄嗟に振り向いて、その人物を見る。


「いた………!」

「え……?」

 この少年は?

「名前……!」

 この少年は一体?

「……あなた…、誰…?」

 自然と少年が名前の腕を掴む力は強くなっていき、眉を顰めて口を固く閉じ、その表情は名前から見ればツラそう、であった。
 少年は名前の両肩を掴み建物に乱暴に押し付ける。
 名前は何故か抵抗ができなかった。少年は頭を垂らし、上目遣いで名前を睨む。「なんでだよ」少年がかすれる声で呟いた。

「俺まで忘れちまったのかよ、名前」

「俺だよ、名前、俺だ! 思い出せよ!」
「そ、そんな事言われても…っ! わたしはあなたのこと……」

 名前が言うと、少年の力は次第に弱まっていき、肩を掴んでいた手はだらしなく宙へ揺れる。振り子の運動をしてた腕はピタリと止まる。
 少年は名前の胸倉を掴んだ。

「会いたかったんだよ……名前…」

 胸倉を掴まれている腕に名前の手が乗った。
 剥がさなければ、と力を込めた時、少年は言う。


「俺だよ、ジュダルだよ」




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