色彩 | ナノ



 何故私が名前のことを好きになったのか。
 それは名前が奴隷だったということを知った日の夜の事だ。私はそれまで名前のことを、当然王を狙う暗殺者として敵視していた。見た目は普通の女性、しかし王に向ける視線だけは「暗殺者」としての顔を見せていた。
 そんな中、名前が口や鼻から血を流し倒れたあの日から彼女へ向ける気持ちが変わっていったのである。彼女は気を失い、目を覚めた途端に怯えきった表情で、腕や手、そして声を震わせ何度も何度も頭を垂れた。この時からだった。彼女のことを知りたくなったのは。
 そして、彼女の手を取った瞬間に、変わりつつあった私の世界は、変わったのであった。

 一緒に市場に出て、食べ物等を贈ったが別に大して意味はなかった。今思えば、それさえ嬉しい事だっただが。




「デート……?」
「はい! わたしはプランを考えたのでデートに行きませんか!? 情報では今日は仕事の量が少ないんだとか!」
「え……あ、まあ…少ないとは思いますが……」
「どうしたんですか?」
「恥ずかしながら、私はこの官服くらいしか持っていないんですよ」
「私服ないんですか?」
「宮中に籠りっきりなので」

 名前は目を輝かせてジャーファルの手を取り、ぜひ服を買いに行きませんか、と言ったのである。しかし困ったことに、傷のこともあるし、その誘いにはあまり承諾する気が起きなかった。
 それをやんわりと断り、あなたと一緒に市場に出るのは久しぶりだから、きちんと話をしたいとこ伝えると、彼女は嬉しそうに頭を振って、頬を赤くして、わかりました、と言う。
 ジャーファルにとって、名前はとても可愛かった。




「それでは、みなさん後の事は頼みましたよ」
「ジャーファルさんッッ!!私達はッッ!!この日を待ち望んでおりましたッッ!!存分に楽しまれよッッ!!」
「!? え、ええ……ありがとうございます……」

 何だこの気迫は。
 このような気迫を執務に向けてくれたらいいのだが、今その気迫を少しではあるが書類に向けているからいいのだろう……。いつもの官服のまま執務室を出て、王が庭師と話しこんでいる光景を横目に、緑射塔へと足を進める、
 執務が終わるのがいつごろかわからないから部屋で待っていてくれと言ったため、待ち合わせ場所は名前の部屋。文官達が思いのほか本気で打ち込んでくれたため予定よりも早く上がることができたのだ。
 まあ、きっと名前もいつもの服装だと思うし、少し急いでみるか。と、歩くスピードを早くしてジャーファルは名前の部屋の前に立つ。
 トントン、と扉を二度叩く。「あ、はあい、どうぞ」
 少し急いでいる様子の声だった。部屋の片付けでもしていたのかと思いながら扉を開くと、いつもの服装でない名前が「早かったですね」と立っている。

「か、かわいい………」

 ジャーファルの心からの一言だった。
 名前は頬を赤らめ、俯きながら礼を言う。恥ずかしそうに服を握りながら、もじもじとしている。

「し、私服をお持ちだったんですね……」
「ピスティと……デートに行った時に……」

 え?ピスティとデート?

「に、似合いますか……?」

 殺す気か!
 可愛いに決まってるじゃないか!

「もちろん、可愛いです」
「………あ、あり、ありがとう……」


 殺す気だ!!



***



 王に無理矢理付き合わされた名前との買い物とはまた別であった。女性とこうして恋仲という立場で市場を歩いたことがなかったから、一体何を話したらいいのか、まずどうやって話を切り出そうかとなるべく名前に気付かれないように作戦を練っていると、彼女はそれをいとも簡単にやってのけたのである。

「ジャーファルさんの好きな女性のタイプってなんですか」

 今すぐ地面に頭をぶつけたかった。
 何を訊こうかと悩みすぎて目の前がチカチカとしていた自分とは反対に彼女は無垢な笑顔で訊いてくるではないか。ジャーファルはこめかみの汗を気付かれないように拭きながら、
「名前ですかね」
 と、言う。
 名前は顔をボッと効果音を付けて赤らめ、胸の前に両手を握って、
「わたしも、ジャーファルさんが好きな男性のタイプです」
 と言うと、ジャーファルはついに歩みを止めた。名前は不思議に思って数歩歩みを進めていたけれども、ジャーファルの方を振り返ってどうしたのかと問うと、ジャーファルは遂に名前の手を握った。そして近付いて、小さな声で言う。

「その、私はこうして女性と歩いた事がありませんからどうしていいかわからず……。不快にさせてしまったらすみません」

 ジャーファルの言葉に名前はアハハと声を上げて笑い、握られた手の上に自分の手を重ねた。ジャーファルは頭を抱えたくなった。もちろんこうして名前が触れてくれるのはこの上ない幸せだが、この状態をよく分析してみると、なぜか女性である名前にリードを許しているということに気付いてしまったのだ。
 名前は恋愛経験が豊富な方でないし、ジャーファルよりかは恋愛の数を重ねているだろうが修業に明け暮れる日々だったので異性を好きになったとしてもそれは一時的なものだったし、修行を行えばすぐに恋をしているという感情が消えていった。
 恋愛経験が豊富でない、ということをジャーファルはよく知っていた。執務中に少ない会話であるがこういう話しをしたことがあるからだ。

「(ここは格好が良いところを見せなくては……)」
「ジャーファルさん、まずはこっちですよ!」
「え、ええっ……ハイハイ」

 いや、よく考えてみろ。
 デートプランを考えたと言われた時点で私の敗北は決定していたのだ。

 ジャーファルは謎の敗北感を抱え、名前に引っ張られるがままに果物を潰したジュースを出す店の前にやってくる。

 名前はこの日の為にピスティと念入りにデートプランなるものを考えてきたのである。10日間を経て、遂にジャーファルの仕事が落ち着き、完璧なるまでのデートプランを……考えたつもりだったのだが、ピスティの考えるデートプランがどういうことが最後には絶対に一緒にベッドに入り朝を迎えるとなっていたので、半分は採用し、もう半分はすべて名前が考えたプランとなるのだが……。

 ジャーファルは悩んでいた。このまま名前の考えてくれたデートプランに従うか、それともそれを壊してまで自分のいいところを見せようかと。名前のことだ、寝る間も惜しんでデートプランを考えてくれたに違いない、しかし初めてのデートで言われるがまま、されるがままで良いのだろうか?


いや


だめだ
なにをすれば


アピール……
そうだ、

アピれ!!


「うわぁ…どれも美味しそうだなあ……ジャーファルさんは何にしますか? オススメはマンゴーなんですって! マンゴーにしましょう! すみませんマンゴー二つおねがいしまーす!」

 そんなまさかすぎる!!


 ジャーファルの思惑は一瞬のうちに散っていった。アピる余裕さえ、現役暗殺者である名前は与えなかったのだ。さすがと言えよう。
 これだけは、と財布を出したジャーファルだが、目の前の名前がすでに支払いを済ませており、ジャーファルは海に飛び込みたくなった。

 ここは格好よく、何気なくオススメを訊き、サラッと名前に何を飲むか尋ね、迷っていたらこのオススメにし、風のように支払う。と、数秒前のジャーファルは一瞬のうちに場面の構成を完成させた。のだが……。
 恐ろしい暗殺者である、名前。付け入る隙も無し。

「ジャーファルさん、そこに座りましょう!」
「ハイ」
「美味しいですね、ジャーファルさん!」
「ハイ」
「……ジャーファルさん、どうしたんですか? お腹痛いんですか?」
「いいえ。快調です。きちんと朝に出してます」
「ヤ、ヤメテッ! そういう便の状態とか聞きたくないんですけど! 今お食事中です!」
「ハイ」

 ストローを吸いながら、ジャーファルを見上げる名前は目の前に手を振ってみせた。しかしそれをいつもなら邪魔だと退けるのに、今回ばかりはそれをせず、溜息まで吐いた。名前は驚いて手を引っ込め、ジャーファルのジュースが一向に減らないこともそうだが、それよりもまず、このデートに乗り気ではなかったのでないかと思い、俯いた。

 ジャーファルさんは疲れている。
 でも恋人の誘いには断れない。
 つまり、わたしが原因でジャーファルさんは……!

「……ジャーファルさん」
「なんですか?」

「帰りましょうか」

 その名前の言葉に、ジャーファルは段々と意識を取り戻していった。
そして完全に意識を取り戻し終えると、目の前にいる名前の表情がどこかツラそうに涙をこらえているではないか。
 ジャーファルは立ち上がり、名前の隣へ移動する。

「どうしたんです名前……まさか、傷が痛むのか……?」
「…ジャーファルさん……ごめんなさい…」
「え?」
「ジャーファルさん、疲れているのに、我がまま言ってしまって、ごめんなさい……」

 伏せ目に落ち込む名前。ジャーファルはハッとして名前の肩を抱いた。
 自分が不安にさせてしまったと勘違いする名前をどうにかして落ち着かせようと、いつも通りに肩を抱いたのである。ちなみにここか公共の場であるということを忘れ、恥ずかしみもなく。

「すみません……私がいけないんです。男であるにも関わらず、どうも情けないと思ってしまって……一瞬意識が飛んでいたようです」
「……もう、戻りましたか…?」
「ええ。もうばっちりです。今から私にシンドリアを案内させていただけませんか?まだシンドリアには観光名所がたくさんあるんです。この後、ぜひ。 私も、あなたに格好いいところを見せたいので」

 みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げていく名前に、ふんわりと微笑むジャーファル。
 そして、建物の陰でガッツポーズをしている文官達。
 彼らの未来は明るいだろう。




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