後ろに腕を組み宿屋の側に立っているのは軽装の名前だった。いつもは重たそうなポーチを腰に付けているが、今日の彼女にはそれらがついていない。しかし、マントは羽織っている。すっきりした膨らみに気が楽なのか、いつもの重たそうな表情は明るい、ようにも見える。しかし表面上はいつもの彼女ではなく、暗殺者の顔である。 あ、名前様だあ。という声に反応した。小さな女の子が名前に近付き手を伸ばすと、名前は躊躇う様子もなく、伸ばされた手を掴んだ。 可愛い、可愛い。と相手をしたいのは山々なんだけれども、今はそれどころではないのだ。 「ほら、お母さんが呼んでいるよ」手を振り、振り返す。 事は昨日の夜に起こった。いつも話しかける鳥の足に暗号の紙が巻きつけられていた事から始まる。師匠のものかと思い指を伸ばしその紙を解いて中身を確認すると、そこには師匠の字ではなく、師匠と過ごしていた時に出会った男の字によるものだった。 その時名前は字を覚えることに興味がなかったため字の形だけを覚えている。 そうか、何年振りだろうか。 「やあ。お久しぶり、名前。大きくなったな」 頬に傷を作る男の名はリダーという。 「お久しぶりリダー。少し老けた?」 「ふうん。言うようになったじゃないか。いやしかし、きみがここにいるとは思わなんだ。僕は仕事の合間にここに立ち寄っているだけなんだが、きみは?」 「わたし?わたしは食客として。リダーはどうしてわたしがここにいるって知っているの?」 「一昨日ムウに偶然出会ってね。きみの話しが出たからついでに居場所を訊いたらここだと聞いたから。きみは少し……太ったね。客人だから食べすぎたのかな?」 「燻製ばかり食べちゃって少し太ったのかも」 「出会ったばかりの頃はあんなに小さくてこんなに細かったのに。歳を感じるよ」 「あなたまだ31よ」 「立派なおじさんだよ。しかしきみは暗殺業はどうするんだい」 「だから食客だもの。衣食住にはあまり困っていないし、国事の事に少しだけ関わっているからお金だって貰っている」 ムウ、とは名前の師匠のことである。正確にはムハンナドというのだが、彼は自分の名をこう呼ばれるのを好まず、ムウと皆に呼ばせていた。ちなみにムウの本当の名を知っている者は彼が心を許した者のみ、そして昔ながらの者達のみである。 リダーは31歳。右頬と左の手の甲にも傷を持っている。マントを羽織り、口元をマントで隠している。 やはり、若干目元が老けたようにも思える。声も少しかすれている。 「それに、きみはあんな表情が出来るようになったんだね」 「あんな表情って?」 「さっき小さな女の子に見せていた表情だよ。女だったぞ」 「やだな、わたしだって女だよ?リダーと初めて会った時と最後に会った時はまだ痩せていたけど、あれからどんどん大きくなっていったんだからね」 「そうかいそうかい。そりゃあよかった。きみの顔を見に来たんだよ。元気そうでなによりだ。精進しなさい」 「ありがとう。リダーはいつまでここに?国を案内しようか」 「いや、きみの顔を見に来ただけさ、そろそろ次の船が来る。その時に発つよ」 「師匠もリダーも行動が早いんだ。もう少し居たらいいのに」 「忙しいのだ」 「わかってる」 また絵を見せて。名前が言うと、リダーは笑って見せた。 リダーは絵を描く事が好きだ。リダーの仕事は暗殺業である。そして仕事を管理し、仕事を探す暗殺者に仕事の提供をしている。リダーは31だが、苦難の数はムウを凌ぐであろう。 リダーの後ろ姿に、またね、と声をかけた。名前はじっとリダーの背中を見つめる。 「よい旅を」 リダーはそう言った。 そして最後に 「すまない」 と言って、人混みの中に隠れていった。 あの最後の意味は一体何だったのだろうか。もう絵を描く事がない、という意図があったのだろうか?それとも、もう会う事もなく、絵も見せることもないということだったのだろうか。 しかし、リダーの本当の意味は違ったのである。名前が考えること何一つ当てはまるものはない。ならばまた会えるから?また絵を描くことができるから? どれも違う。 リダーは絵を描く事が好きだ。特に、裸の絵を描く事が好きなのである。リダーの部屋には貧相な体つきの少女の絵で溢れかえっている。その女はどれも同一人物である。 リダーはいつ頃絵を描くようになったのか?それはムウと、その弟子に出会った時からだ。風景画は案外売れる。リダーに元々の才能があったからだろう。 リダーは1年前、絵を売っていた。思いを募らせる少女の裸の絵を売っていた。簡単に資金が集まる方法の一つである。大きくもなく小さくもない国の中の領地の市場にて、椅子に座って絵を置き腕を組んで人が寄るのを待っていた。しかし売れるのは風景画ばかり、貧相な少女の裸の絵など売れるわけがなかった。 そこで彼は絵を描き始める。もちろん同じ貧相な少女。しかし、立っていたり、座っていたり、しゃがんでいたり、ポーズをとっている絵とはまったく別ものの、ただ佇んで、足枷をし、両手を合わせその手の中にはトウモコロシが数粒入っている、それをかすれた絵の具で塗り、完成した。それをたくさんある絵画の真ん中に置いた。 道行く人はその絵を見た。男は至高を感じ、興奮し、頬を赤らめた。 この絵が認められている。 この絵を誰もが見ている。 この絵の少女を誰もが見ている。 この女の絵を描く俺を羨望の目で見ている。 「この絵、いくらだよ」 リダーは声の主の顔を射抜くかの如く見つめる。黒髪がよく似合う青年だった。しかし更によく顔つきを見ると、まだ少年であった。リダーはその少年にひとつ約束をして、それを無償にて差し出した。 ――その少女の絵で自慰をする事。 少年は眉を顰め、口角を上げ、リダーに悪趣味だなあ。と言い絵画を脇に抱えて去って行った。 リダーはあれだけでは物足りなく、もう一つの絵を完成させた。 足枷をし、正座をして、まるで主人の命令を待っている奴隷のような絵を描いた。 通行人はついに絵を見なくなった。左右を見れば奴隷がいるのにも関わらず、奴隷のような絵を描き、それを品として出す意味が理解できなかったのである。見るのは庶民、ほう、と目を向けてくるのは貴族たち。 そして、ある男が店の前に立つ。随分と生意気そうな顔で、立ち方もどうも生意気である。よく見れば身なりが貴族と同様に綺麗な生地の布を身にまとっていた。 男は貴族だった。 そして領主だった。 「商人、この女をどこで」 男の目は獣の如く。獲物を狙って離さないその眼を絵とリダーに交互に向けていた。 「知り合いでございます。今や、このような格好は致しておりませんが、以前奴隷だと言っていたのを思い出し、想像ばかりでございますが描かせていただきました」 「そうか、ならば空想ではないのだな。この女の名はなんと言う」 「名前でございます」 「………商人、金を出そう、いくらでも出そう。この女の居場所をつきとめてくれないか?」 リダーはその男の名を聞いた。ここの領主の名であり、そして確信する。 この男は名前を買った男である、と。 「それでは月に一度、またここに店を開きます。この時間帯に来てくだされば、何かしら掴んだ情報をお伝えしましょう。この少女をこんなに素敵に育てた領主様に敬意を表します」 少女の絵を買った、いや、受け取ったのは黒髪の少年と、ここの領主。少年はなぜあの絵を受け取ったのだろうか?しかし、それは構わないことだ。 簡単に少女を領主に渡していいのだろうか。答えは否。リダーはそう易々と少女の情報を渡そうなど考えていなかった。ただ時期が来れば、リダーはいつでも少女の情報を渡すであろう。 情報を渡す時、それはリダーが普通の貧相な少女の絵を描き飽きてしまった時である。 「おはよう名前」 「おはようございます、王様」 「聞いてくれ……今日…!やっと!禁酒令が!解けたんだ!」 両手は拳、力む筋肉、解放された喜びに浸る王、シンドバッド。名前は王宮に帰り、すぐに出くわしたのがジャーファルによる禁酒令が解けたシンドバッド王だった。様子をみるに名前の姿を探していたようである。 シンドバッドは名前の姿を見ていないかと家臣、使用人に訊いて回っていた。理由は当然、彼女と酒を飲み交わすためだ。そして使用人の中に一人、名前の居場所を知るものがいた。 毎朝一番に顔を見せる使用人のアミナだ。 「名前様ですか?名前様は知り合いに会うだとかなんとか……起きて身支度を整えてすぐに出て行ってしまいました。朝食も食べていませんのに……」 アミナは箒を脇に抱えて頬に手を乗せる。困った表情のアミナにシンドバッドは礼を言い、料理人らに朝食を用意するように言った。シンドバッドはすでに朝食を済ませていたから、その朝食は名前のためのものであろう。 「よかったですね。一昨日は本当に死にそうな顔してましたもんね?」 「えっ そんな顔してないぞ」 「してましたよぉ。思い出すだけで笑っちゃう……!マスルールさんだって少し笑ってました。執務室から出て二人で面白かったって言ってましたもん」 「おいおいこんないい男の顔を笑いものにするなんて……」 「だって、ねえ、面白かったんですもん」 「こりゃ禁酒令出たら毎日顔を見に来るな?」 「面白い顔してくれるなら何度でも! あ……、でもジャーファルさんに怒られるかも」 「はは 違いない」 シンドバッドは自然的に名前の背に手を置き、自分の部屋に足を運ばせるように優しく押した。途中名前が気付くも、主であるシンドバッドの命令は絶対、と考えているのである、どこに行くのか訊いたのとしても嫌だと意思表示は叶わないだろう。 曇った表情にシンドバッドは気付き、にこりと笑う。 「朝食を用意してあるよ」 「………。ああっ! わたし食べてないでした!」 「まったく名前あわてんぼさんだなっ! もうっ!」 「…………」 「え、ちょっと、なにその顔、王傷付いたよ……」 「29でそれは、まずいと思います」 「王、心に深い傷を負った!!」 「精神に100のダメージを食らった! 機能停止!」 「機能停止!? 名前は俺を何だと思ってる!?」 そんな会話が王宮内で交わされる。 場所を変えて船の上。リダーは空を見上げて、その空を描き始める。虚ろな目でうっとりと絵に視線を戻し、貧相な少女を書き殴り、その絵を抱えた。 もう描けなくなった。 リダーは呟いた。 あんな子になってしまっては、もう描けない。 リダーは悔む。 あの子を描きたい。 そしてリダーは新しい少女を見つけたのである。 領主との約束は忘れずに。 |