色彩 | ナノ



「待ちなさい名前!」
「待てって言われて待つ人がいますか!止まったら殺されるのに!」
「何を物騒な事言ってるんですか!」
「その手に持っている武器はなに!?また変な技出して捕まえるつもりですね!?でももうその技は見切りましたからね!あの手この手にはもう引っ掛かりませんよ、ナメないでください!」
「……なら、これならどうですか」
「!? ぎゃっ えっ うわっ……!!」

 足に縄が巻き付かれ視界は一転、ジャーファルさんから青い青い空へと変わった。ぎゃあ!ぐえ!最後は潰れたカエルのような声が出た。
「なにしてるんだ」「えっあっ、マスルールさん」「マスルール、名前を捕まえてなさい」「ひええっ!」がっしりとマスルールさんがわたしの腕を掴んだ。
 ゆっくりゆっくり、ジャーファルさんがこちらに近付いてくる。
 ジャーファルさんの官服にはわたしが間違って零してしまったインクがべったりと付いている。不可抗力だ。それに好きでこんなことになったわけではない……のに。

「お待ちくださいジャーファルさん!わたしはただ好きでインクを零したわけではないのです!おそらく霊的なものに足を掴まれてしまって」
「ほう?では証明していただこうかな?」
「………ウッ、頭が痛い!なんだこれはっ!」
「嘘おっしゃい!!いいですか私が執務を行っている時間は執務室の出入りを禁止します!!」

 えっ
 ええっ

「えええええっ!」



 そんなに気を落とすな。とマスルールさんは言っているようにわたしの背をポンと優しく叩いた。マスルールさんが採ってくれた果物を食べながら、パパゴラスがわたしの側に寄り添いながら、わたしは肩を落とした。

「マスルールさんがわたしのこと捕まえなかったらこんな事にならなかったのにぃ〜!」

 心からの一言を呟くと、背を叩いていたマスルールさんの手が止まる。
 はあ。これから日中はどうしよう。どこで過ごせばいいんだろう。
 はあ。

 ………はあ。
 盛大な溜息にマスルールさんは喉を鳴らしてわたしを立ち上がらせる。

「……?マスルールさん?」

 イラァ。
 マスルールさんの表情を文字にするならば、これ。

「な、なんですか」
「いつまでもうじうじするな。何か食べ物を持っていけばジャーファルさんも機嫌を直す」
「なっ……な、」


 なおらねーよ!!





「わ、私にこれを……?ありがとうございます、丁度小腹が空いてて」
「(き……機嫌なおったー!)お気に召しましたか?」
「ええ。ありがとう名前」

 なにはともあれ、ジャーファルさんが機嫌を直してくれてよかった。アバレヤリイカの燻製と新しい官服を持って執務室へと赴くわたしとマスルールさん。眉間に皺を寄せたジャーファルさんだったが、意を決して「すみません」とその二つを差し出すと、ジャーファルさんは少しだけ間を置き、冒頭へ戻る。
 扉付近にいるマスルールさんへ振り向くと、少しだけ苛立ちを見せるが視線を下に向けた。
 ジャーファルさんから燻製を受け取り、もう一度マスルールさんへ視線を向けるが、マスルールさんは下を向いたままだ。

「よかった、でもちょっと臭くなっちゃいますね」
「ああ……そうですね。マスルール、君もこっちに来て一緒に食べましょう」
「仕事はいいんすか?」
「ええ、少し休憩をと思って」
「俺は、仕事、あるんで」
「え?いえでも君は今日……」

 バタン。
 音を立てて閉じられた扉。
 わたしはマスルールさんの表情が読み取れなかった。
 しかしジャーファルさんは何か気付いた様子で、マスルールさんのいた場所をずっと見つめている。声を掛けようにも、彼が口を固く結んでいるから何となく掛けづらい雰囲気であった。
 何かまずいことでもあっただろうか。でも、これを提案したのはマスルールさんだし、わたしは彼に従っただけ。まさか好ましくない単語を出してしまったか?でも彼はああ見えて大らかである、それはない、と思うのだが。

「何か、まずい事でも言ってしまったのでしょうか。マスルールさんと一緒に出かけたのは初めてであまり会話もなかったし、会話と言った会話は食べ物やパパゴラスの話だけです」
「……はあ そうですか」
「マスルールさん、一体どうしたのでしょうか」
「…あなたがその様子なら、きっとずっとわからないでしょうね」

 肩を竦めて笑うジャーファルさんはアバレヤリイカの燻製の封を閉じた。アバレイカより少しだけ高級な子の燻製はシンドリアの名物なのだ。

「そうなのですか?どうすればわかりますか?」
「わからなくていいと思いますよ」
「なぜですか」
「だってあなたは私の事が好きなんでしょう」

 ひんやりとした空気に背筋が凍る、ような気がした。
 さすが元暗殺者だ、わたしも彼の心の内が読みにくい。自然と冷や汗が垂れ、気付かれないように髪を弄るふりをして汗を拭う。

 まてまてまて、なんだかこの空気、よろしくないぞ。

「す、好きです」
「つまり、私とあなたは両想いといことですよね」
「そうです、その通りでございます」
「好いている女性が目の前で他の男を気に掛ける姿を見るのはあまりいただけませんね」
「ま、待ってください!マスルールさんは八人将で、友人です!わたしの中では!」
「では私がピスティと一緒にお茶をしていたらどうです?」
「いっいやです!」
「それと同じ。確かにマスルールは八人将で、私の大事な同志です。しかしその前に彼も男なんですからね」
「……はい、えっと その、」

 コホン、ジャーファルさんの咳払いに肩を上げる。

「ですからね」
「はい」
「ですから、あのですね……、あなたの性格は多少なりに理解しているつもりなのですが」
「それはありがたいです」

「セッ」
「セッ?」


「セックス、しませんか」


 ………。

 …………。

 え?



「ジャ、ジャーファルさん…ムードなさすぎです!いくら女性との交友関係を持っていないからって、これじゃムードもクソもないじゃないですか!そういう台詞はベッドの上で言うものです!」
「!? ちょっと待ちなさいそんな情報どこで得たんですか!」
「ピスティです!」
「ピスティィィイイイ!!!」
「ジャーファルさんはムードというものを勉強してください!そっ、こっ、こんなっ ところで……!ば……ばか!」
「ええ すみませんねえ!今まで女性とこういう関係をもった事がないので」
「え?ジャーファルさん童貞?」


 ジャーファルさんの持っていた燻製が無残にも散っていく。


「いいえ」


 次はわたしの燻製が散っていった。


「そ、そうです、よね。ジャーファルさんだってもう大人ですしね……」
「そんな死にそうな顔しないでください。童貞の方がよかったんですか」
「………五分五分です」
「あなたという人は」
「だ、だってわたし達キスは済みましたけど、ディープはしたことないじゃないですか。まずそこからですって、いきなりセックスとか、ちょっと、あの、いけないと思います」
「あなたはそんなに純情だったのですね。さあこちらにいらっしゃい」
「!? いえ、今わたしは身の危険を感じたのでいきません!」

 じりじりと向かってくるジャーファルさんに側にあった羽ペンを投げるが見事にキャッチされ、ポイッと宙に放り投げられた。さすがである。わたしは結構本気で投げたのだが、魔力操作を使わなかったからだろうか。



***



「ジャーファルさんってセックスする時服脱がないらしいよ?」
「え?どうして?………待ってピスティなんでそんな事知ってるの!?ま、まさか、もしかして……!」
「大丈夫だよー、私死んでもジャーファルさんとやらないし!昔聞いた噂なんだけどね?見事名前の恋が実った記念に昔聞いたジャーファルさんのあれこれを教えてあげようと思って!」
「いらないよそんなの!」
「知りたくないの?」

 ピスティが擦り寄り、わたしは「知りたいです」と蚊の鳴くような声で答える。

「よーし、まずはね!」

 話の4分の3はどうでもいいことだったが、ジャーファルさんは女性と恋をしたことがないこと、それから昔酒のせいで起きたらいつの間にか朝になって女性の隣にいた事。そして、服を脱がずにセックスをすること。酒で溺れても、服だけは決して脱ぐことはなかったという。
 丈の長い官服も、なにか理由が合ってのことだろうか。ジャーファルさんは私服がないそうだが、毎日あの官服を着ている、というのも疑い深い。何着か私服を持っているはずだ。しかし執務ばかり行っているし……。

「ねっ、ねっ、キスはしたの?!」
「そんなこと訊かないでよっ……!」
「どんなキスだった?!ねえねえ舌は入れたの?!」
「やめてピスティ!もう訊かないでキスはしました!」
「キャーー!!」



***



「名前?」
「……あっ、すみません、ちょっと、思い出してて」
「………それは…」
「違うんです、えっと、その、噂を思い出してて」
「うわさ?」

 言おうか、言うまいか、どちらが正解だろうか。
 それでもわたしの心は素直なままだった、制止の手を伸ばそうにも、わたしの心はそれよりも先に先へと走って行く。


「ジャーファルさんは服を着たままセックスをする、って」


 遂にジャーファルさんは豆鉄砲を食らったような表情。そして、落ち着き、椅子に座った。

「服を着たままでは不満ですか?」
「いいえ。特に不満はないです。でも…、単純にどうしてかな、って」

 ジャーファルさんは少しだけ頭を悩ませ、そうですね、どうしましょうかと弱々しく呟いた。
 わたしが奴隷の頃を思い出している時のか細い、弱い、悲しい声に似ている。
 彼は太ももの部分の官服を握って、ぎゅっと、唇を結んだ。

 そして、顔を上げ、裾を上げた。


「あっ」

 縫い傷だ。
 これか、ジャーファルさんが服を着たままの理由は。

「あなたの前では、尚更ですね。こんな傷を晒してまで裸になろうと思いません」
「どうしてですか?」
「え?」
「なぜですか?」

 近付き傷へ手を伸ばすと、ジャーファルさんは焦る顔で手首を掴み、やめなさい、と強く消え入る声で言った。

「なぜって、恥ずかしいでしょう」

 恥ずかしいと思う事がたくさんあるように、恥ずかしいと思うものだってたくさんある。わたしには、わかる、少しだけだが、骨の真髄にまで、その気持ちが伝わってくる。

「わたしにも傷はあります。ジャーファルさん程のものではないですけど。今は包帯で隠していますが、元主につけられた傷です。縫う事もできなくて、傷が残ってしまいましたが。わたしもこの傷は恥ずかしいと思います。少しだけならあなたの気持ちが理解できると……、思っています」
「傷を……?」

 ジャーファルさんの力が弱まったところで、わたしは縫い傷へと手を伸ばし、ゆっくりと触れた。ジャーファルさんは驚いて腰を少しだけ浮かし、慌ててわたしの名を呼んだ。

「いい子」
「痛かったろうに……。いい子、いい子」


 わたしがこの傷を付けられた時、元主はわたしを投げ捨てた。そして即座に拾ってくれたのは、骨ばかりになった女性だった。優しく、震える腕と声で、わたしを抱いて頭を優しく撫でてくれた。
 いい子、いい子、いい子、と、ずっとこればかりを繰り返した。わたしは大声を上げて泣いて、その女性にしがみついた。わたしがまだ14の時だった。
 痛いだろう、痛かったろう、かわいそうに、わたしがそれを受ければよかったのに。女性はそればかりを繰り返し、次の日の朝に死んだ。


 ジャーファルさんの目から涙が零れた。
 わたしは膝に座って頭を抱き、髪をゆっくりと撫でていく。

「無理をして見せなくてよかったのに、ばかな人」

 彼の腕は腰に回る。
 小さな嗚咽が部屋の隅へと木霊する。

「あなたは、いい子」




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