色彩 | ナノ



 師匠がシンドリアへ来て一ヶ月が経った。
 最近師匠は王宮を出る事が多かった。





 わたしは飲み込みが早いと自負している。学ぼうと、覚えようという姿勢がある限り、わたしは一も百も覚えることができるのだ。師匠との修行でも、師匠はわたしの飲み込みの速さを称賛してくれた。つまり、自信を持って良いと言う事なのだろうと思う。
 ジャーファルさんから貸してもらった教本は一日で覚えた。文字ひとつひとつを覚える事ができたし、本でも読もうと部屋を出ようと髪を整えていた時だった。扉が叩かれ寝癖を押さえながら開けると、そこにたくさんの本を持ったジャーファルさんが立っていて、その本をわたしの為に持ってきたというのだ。部屋へ通し、ありがたく机の上に置いてもらい、ジャーファルさんへ向き合った。

「すみませんこんなにたくさん…ありがとうございます」
「………こちらこそすみません少し嫌がらせをしようとたくさん持ってきました」
「ええ!? そっ……ハイ、まあ、大丈夫です。あのそれからこれ、ありがとうございます。文字は覚えたのであとは本を読めばいいかと思っていたので丁度よかったです」
「一晩であれだけの量を?いきなり詰め込んでしまって大丈夫ですか?」
「はい! わたし飲み込みだけは早いので!」
「そうですか……ならばわたしが教えることはありませんね」

 わたしは人の表情に敏感になったつもりはないし覚えもない。でもなぜだろうか、ジャーファルさんを見ていると、少しの表情の変わり方にも気付いてしまうのだ。
 今彼は、寂しいと思っている、ような気がする。

「あの、ジャーファルさん。よかったらこれ、一緒に読んでいただけませんか?」

 一冊の本を手に取りジャーファルさんにそう頼んだ。彼は驚いた顔で本を見て、それからわたしを見た。

「ええ、よろこんで」

 ジャーファルさんが本を手に取ろうとした瞬間だった、師匠が部屋へ入って来たのは。
 そして師匠は仕事の顔をしてわたしの名を呼んだ。ジャーファルさんもわたしも驚いたが、わたしはすぐに頷いてジャーファルさんを避けて師匠の元へ速足で急ぐ。

「まずいことになった。今から指定の場所に口に縫い傷がある男に話をつけてこい。対象を逃した」
「師匠が?珍しいこともあるものですね………、ジャーファルさん、またあとで」
「この紙を渡せ。頼む」
「はい」

 窓の縁に手を付け一気に飛び下りる。慣れた魔力操作で魔力を手足に込めて着地し、師匠から受け取った紙には指定の場所と、「ムツカラニバ」という暗号が書かれていた。指定の場所はここから近い宿である。
 ムツカラニバ、とはなんであろうか。わたしは一晩かけて文字を覚えた。だからこの暗号が読めるのだ。意味はわからないが、興味がそそられ覚えてしまった。
 紙を視覚に4つ折って、短剣の鞘の中へそっと差し込み、宿へ走った。



 宿に着き、足を組んで座っていた金髪の口に縫い傷がある男がこちらに顔を向けた。わたしは顔を俯いてその男に近付き隣に座って鞘に入れた紙を取り出し、太ももの上に手ごと置いて視線を向ける。男は静かに紙を受け取った。わたしは手を引っ込め立ち上がった。

「お待ちなさい」
「………手短に」
「了解した、と伝えていただけるだろうか」
「はい」

 速足でベルトで腰に折り畳んでいたマントを取り出し、人の波に紛れながらマントを羽織る。この国に師匠がいるのならば探せないことはない。路地裏に周り壁を伝って建物の屋上へ腰を下ろした。下を見下ろせば、人、人、人。どこにも師匠は見当たらなかったが、わたしと同じマントを羽織る人間を視界の端に捉える。振り向き、そのマントをじっと見つめ、それが師匠と解るまで数秒も掛からなかった。
 師匠は歩く先に帽子を被る人間が人をかき分けるような形で歩いている。

「(アイツか……)」

 口元を隠し魔力を足に貯め踏み込もうと力を入れた時、後ろから鋭い痛みが走った。これが刀傷だと解るのに数分も掛からなかった。振り返り、回し蹴りを入れるが相手は避ける。

「………」
「すばしっこい女だ」

 師匠の依頼人が剣を片手に佇んでおり、その剣からはわたしの血が滴り落ちている。

「マントの中の武器に助けられたな。上部だけで済んだぞ?」

 グルだったのか?師匠を殺すために?ならばこいつらも暗殺者か何かだろうか。
「あなたは相手を間違えた」わたしは続ける。「師匠を殺すなど、到底不可能だ」わたしならわからないが。「わたしは師匠の対象に気を取られていた。だから傷が出来た。でも師匠なら傷など付けない…付けられない」短剣を構える。金髪の縫い傷の男は笑っていた口角を下にさげ、わたしを睨んだ。
 「ほう」男が続け、言うには、師匠の対象は自分よりも遥かに強いという。そして、この町から奴隷に出来る男、女、子どもを連れ去る予定でいるらしい。そしてその対象にわたしも入っている。ならば師匠は殺すというのだろうか?……無理だろう。

「暗殺者が奴隷狩りとは」
「依頼だと言ったら?」
「いや わたしはどうでもいい。だってあなたは今ここで死ぬのだから」
「……言うねえ。そうかい。ならば、戦おう。そして負けたら奴隷にするさ、あんたをね」

 この人がこの程度なら、師匠が追いかける人物もさほどではないだろう。

「アンタのその澄ました顔が一気に歪む瞬間を見たいものだよ」

 塗り傷の男はクツクツと笑った。下衆な男は嫌いだ。わたしを馬鹿にする。だからこういう奴も大嫌いだ。
 わたしは一歩踏み出し、男に近付いた。男は武器を構える動作がなく、ただ笑っているだけである。一歩、また一歩と近づいていくが、男は動かないでいる。なにか魔法でもしかけたのかと辺りを見渡すが、自分が魔法を一切使えなくなった事を思い出し、見渡すのをやめ男と向き合い、立ち止まった。あと三歩で男に短剣が刺せる距離となった。
 きみは奴隷だったそうだね。
 男が言う。
 わたしはその眼をじっと見つめた。
 わたしは笑った、男のように。そして視線を逸らし、再び合わせる。

 ぱっちりと目が合った瞬間が勝負時であった。脇腹に蹴りを入れ、もう片方の蹴りで武器を持つ手に攻撃を仕掛け、宙に浮く体を支えるべく両手を地に付け反転させる。その拍子に脇腹にやった足を顔面に入れ足に魔力を込めて踏み込む。
 短剣で首を斬った。

 むかついちゃったから、仕方ない。





 小一時間師匠の姿を探したが、人が多くなってきた為探すのは困難だと判断し王宮に戻った。壁を伝って部屋に戻り、短剣を机の上に置く。まだ血が付いているのでなにか布でも思ったが、わたしは私物を持っていないことに気付いて探すのをやめる。
 ピスティと一緒に選んだ服で拭くなど、選択肢にない。

 しかし、あの男は一体なんだったのか。早く師匠へ報告しないとまずいだろう。紙をねじり、窓に腰かけて一羽の鳥を口笛を拭いて呼びつけた。小鳥がわたしの指に止まり、膝に移し足にねじった紙を巻き付けてもう一度口笛を吹く。
 師匠に習った鳥と会話する術。だがわたしは鳥と会話するまでには至らないのだ。どうしてもこれだけは会得できない。師匠は口笛を吹いて鳥と会話することができるのである。だからよく鳥と会話しているし、師匠の情報源は主に鳥なのだ。

 シンドリアで殺しをするのはいけない事だったかもしれない。きっとわたしを見かけた人がいると思う。でも奴隷狩りを殺したと言えば、皆はホッと胸を撫で下ろすに違いない。

「………」

 机の上の短剣に目をやった。鮮やかなあかが光っている。



 師匠が王宮に戻ったのはそれから三十分後の事だった。わたしは一通り事情を説明し、師匠の部屋へ足を運び、師匠からと依頼人の男と対象の男の正体の考察を一通り話す。そして一致したのが、「彼らがアル・サーメンでは」である。アル・サーメンを殺すと、高確率で人形がその場に落ちるという。わたしの時は落ちなかったが、それはアル・サーメンに利用されている人物なのだと師匠は言った。実質、アル・サーメンに利用されている人間がたくさんいるのだそうだ。
 縫い傷の男の持っていた武器。それで斬りつけられたものの、自身の心臓へは突き刺していなかったのが幸いだったと師匠は言い、その理由を訊いた。
「豹変する」とだけいう師匠に、頷いて納得した。

「…大体のことはわかりました。今後アル・サーメン側の人間と接触した際には注意します。それより、なぜアル・サーメンはシンドリアへ?縫い傷の男の台詞から、まるでわたしを知っているようでした」
「狙いはお前だ」
「わたしですか?一体なぜ」
「お前がアル・サーメン側の人間だからだ。……まあ、側と言っても、アル・サーメンで生まれたからと付け加えておく。お前の役割はアル・サーメンの魔法陣のようなものだ。お前がここにいる限りアル・サーメンは何度も出入りが可能なわけだよ。魔導士ならば。スパイというわけだ」

 なるほど。

「でも、お前がここを出ていく必要はない」
「え?」
「俺は今からシンドバッド王へ結界の魔法に陣を付け加えてもらうように話をしてくる。実際お前と修行中はその結界で護っていたからな。だが名前、お前は強くならなくてはならない。わかるな」
「はい。十分に承知しております。その結界を破るアル・サーメンが現れた時、」


 殺せと、仰るんですよね。
 師匠は頷き部屋を出た。血の付いた短剣は机の上に放置したままだ。きっと血の表面が乾いているだろう。
 魔法が使えなくなった今、結界魔法を覚えることは不可能である。師匠のいない部屋を見渡し、わたしと同じ部屋の雰囲気に笑みが零れた。頭を掻いて、血の痕がつく床を見つめ、痕を手で擦る。

 師匠の後始末はわたしがする事が多くなった、最後の修行の時期。「お前もう一人前だわ。じゃ、俺は旅すっからお前は仕事しろ」と言って去って行ったあの日と、今日が、ひどく似ている。
 わたしは立ち上がって師匠の後を追うべくシンドバッド王のいる室へと走って行った。


 扉を開け、目の前にあったマスルールさんの背中とぶつかった。「名前…」と零れるマスルールさんを無視し、振り返ってわたしを見る師匠へ頭を下げた。
 周りにはジャーファルさん、ヤムライハさん、ヒナホホさんがいる。

「もう行ってしまわれるのでしょうか、師匠」
「これが終わったらな」
「まだ、教えていただきたい事が山ほどあるのです」
「お前は一人前だ。もう誰かに自分の術を教える程の腕になったんだ。いつまでも甘ったれてる事言ってんじゃねーぞ」
「ですが、わたしは、」
「ヤムライハさん。この術式を加えておいてくれ。ほとんどのアル・サーメンの侵入を防ぐ。ただ日を追うごとに効果が薄れてくるから、その時期にまたここにきて加えに此処に来るよ。もっと結界魔法の勉強してさ」
「……ええ、わかったわ」
「いつ発つのですか」
「夜かな」
「早すぎます師匠。せめて明日に」
「俺も、色々と知りたいことがたくさんあるんだよ。お前を救う方法をさ」
「ならばわたしも……!」

 そう言って一瞬後悔することになる。師匠と一緒に行くということはシンドリアから離れるということだ。
 唇を噛み、師匠の持つ杖に目を向け、服を握る。

「名前、背中の怪我、皆驚くんだから早く手当てしてもらってこい」

 傷はもちろん痛い。じんじんと痛い。それでも首を左右に振って、大声で「いやです!」と叫んだ。ジャーファルさんがわたしの名を呼ぶが、それを無視して師匠と視線を合わす。

「いつまでもここに世話になるわけにはいかねーだろ?一ヶ月もいたんだ。……なあ名前、お前はもう、立派な暗殺者。そんで、ここの食客。俺は客人。お前の師匠であろうと客人。お前はもう自立してんだ」

 師匠は優しく声を掛けてくれるが、わたしには何の意味も成さなかった。小さな涙の粒が上品な絨毯へ落ちていく。汚い涙をごめんなさい、と心の中で謝った。
 シンドリアが嫌いなわけでは決してないし、シンドバッド王も、ジャーファルさんも、ピスティも、マスルールさんも、皆大好きだ。この国の住民が大好きだ。だけど、だけど………。

「お前はここにいた方が安全だ。ここで力をつけろ。強くなって、知らないものを知ればいい。お前はまだ、知らないことが多すぎる。だから強くなって、知識を得るんだ」

 師匠、と口を開いた時、師匠は思い切りわたしの頭を叩く。驚いて反動のまま床に転げ落ち頭を抱えると、師匠はわたしの背中を踏んで部屋を出ていく。
「名前、早く傷の手当てを」と、ジャーファルさんは屈んでわたしの背に手を乗せるが、わたしはそれどころではなかった。最後の最後で師匠と一緒に入れないなど、あの日と同じではないか。一言言い残して去って行ってしまった、あの日と。

「許さない」
「え……?」
「絶対にさようなら言うんだから…!」
「あっ ちょっ 名前!手当を…………」

 起きあがり師匠を追いかける。あの日のようにさようならも言わないで別れるのはもうごめんだ。師匠はおそらく部屋へ戻っているはずだ。全速力で追いかければきっと追いつく。彼は歩いているのだから。わたしのすばしっこさも師匠譲り、術も、何もかも、師匠譲りなのだ。
 使用人の掛け声にも耳を向けずにひたすら走り、追いついた師匠の手を掴んだ。

「名前」
「さよならを言わないで別れるなんて……、悲しいじゃないですか」

 ハァ、と師匠の溜息が零れ、わたしの手を握り返し部屋へ連れ込む。そしてもう一度、「名前」とわたしの名を呼んだ。「はい」と返すと、師匠は息を吸う。そして口を開いた。


「お前は幸せになれない」




 目を開けた時、わたしの目の前には汚い男が寝そべっていた。涎を垂らし、ぐうぐうと寝息を立てて。起きればわたしの周りにはたくさんの汚い、わたしと同じ体を持つ人間がたくさんいた。わたしは裸だった。わたしは両肩を抱いて男から離れていった。
 ここはどこだ、と身を縮み込ませ、カタカタと震えた。

 わたしの生まれた瞬間は、この記憶しかない。人は生まれた瞬間の記憶はあるのだろうか?
 わたしは奴隷から解放されて初めて赤子が産まれる瞬間を見て、普通の人間とは違うのだと理解した。
 わたしが始めに発した言葉は泣き声だった。
 わたしは、



「いいえ。師匠がわたしを拾ってくれた日から、わたしは幸せでした。わたしはあの日から変わっていったんです。あなたがいたから……」
「…………うし!久々にセックスしようぜ! 半年もご無沙汰じゃねーかよ 俺とお前」
「……し、師匠………」
「あぁん?もしかして思い出したからトラウマか?」
「そ…そんなことは……。でも」
「発つのは夜にするって決めたしな。それまでな」

 師匠はわたしの手を引き、肩を抱いて寝台へ腰を下ろし、わたしも腰を下ろした。
 セックスがしたいわけじゃないのだ。ただずっと、師匠の側にいたいだけで。でも、そうしたらシンドリアから離れなければならなくて、でも、師匠ととは一緒にいたい。でも、ここから離れることはできない。主がここにいる限りは。

「名前、俺は、お前が好きだよ」

 耳に髪を掛ける師匠がそう呟く。

「だから幸せにしてやりたいって思うし、護りたいとも思う。だから俺はアル・サーメンの知識を得ようと思う。本格的に敵さんと真正面向いてやり合うと決めたからにはもう後戻りはできねえよな」
「わたしがアル・サーメンと接触していなかったら、」
「後戻りはできねえし、死ぬかもしれないだろ」
「師匠っ」
「でもやっぱし、お前は幸せにはなれないんだと思うんだよ。だってお前始まりがアル・サーメンで、奴隷になったんだぜ?無理無理、お前は一生幸せになんてなれねえよ!」

 師匠は笑う。
 ジャーファルさんとは違う笑みを浮かべて。
 視界が揺れる。


「だから、今からお前を一生分愛そうと思う」




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