プウコギへようこそ | ナノ


 彼はよく食べたしよく寝た。そしてちゃんとわたしの分の仕事までこなしていくから、わたしは部屋の隅っこに固まって彼の顔をじいっと見つめ、時に彼がこちらに振り向いて微笑むものだからわたしは視線を床へと落とした。
 一昨日、彼がテレビを付けるとニュース番組に「鬼」の事について特集が組まれていた。「鬼」のウイルスを作ったのは外国の政府だと言い、彼は食パンをかじりながら虚ろな目をテレビ画面に向けて口だけを動かし目の下に出来た隈を擦ってイチゴジャムを残り少ない白い部分へと塗りたくった。
 そして昨日は彼が美味しそうに人間を食べるものだからそれが気持ち悪くなって何度か吐いた。今日も昨日の出来事が鮮明に脳内で流れるので一切食欲もわかないのである。
 彼はペットを愛しそうに撫でるようにわたしを撫でた。お風呂では体から頭まで丹念に洗ってもらった。完全にペットとしての扱いだった。
 もう涙は出ない。出るのは嗚咽と、胃酸臭いゲロと、血と、精液と、喘ぎと、一時許される甘えの言葉のみ。

 そんな毎日を過ごしていたが、今日は朝起きて彼を見上げると学校の制服に身を包んで鞄に辞書と筆箱を詰めていて、恐る恐る声をかけてみると「今日は行こうと思って」と言い、「そろそろ」と付け加えた。体育座りをして彼を見上げていると、気恥ずかしそうに笑って「それじゃあ行ってくる」と頭を撫でられた。
 首輪はしていない。拘束なんてもの一つもされていない。それなのにわたしはこの家から一歩も出ていく事ができない理由があった。
「きみの家族は鬼避けをしていなかった。この近辺に鬼がいることは発表されていなかったからね。おかげで人間のにおいがぷんぷんして、それはとてもいいにおいだったからすぐに見つかったんだ。きみは臭いけれど僕のにおいが付いてしまっているから外に出ればすぐに鬼に食べられてしまうだろう。そこは頭の片隅にでも入れておくといい」と、彼の家に連れてこられての第一声がこれだった。
 わたしはまだ死にたくない。死ぬけれども。でもまだ、今は、彼が生かしてくれているうちは、どんなことがあっても生きていこうと思っていた。単に死ぬのが怖いだけなのだが。

 彼のいない部屋はどうもガランと空洞になった気がしてつまらなかった。外に出る事も許されない状況に人間の一部が入っている冷蔵庫を開けない決心と耐え、外の空気を吸う為の換気を行わない決心と耐えとで一気に重荷を背負った気がして、寝室のベッドの上に寝転がって目を閉じた。

「あーあ、家族食べられちゃったよ」

 映画や漫画のような世界。しかし、生物が生きられる地球事態が映画や漫画のような世界なのかもしれない、と思う。
 わたしの独り言もちっぽけな世界では拾ってくれないのだろう。あーあ。わたしも食べられちゃうのか。結構楽しい人生だったと思う。処女は彼に無理矢理な形で奪われてしまったし、彼はわたしの処女を奪ってもどうも思っていない様子だったしわたしももう今更そんなのどうでもいいし、恋も片手で数えるほどだが出来た事も、家族で最後に北海道へ旅行行った事も鮮明に覚えている。きっと死ぬ人はこうして何かを思い出しながら死ぬんだろうと目を開けた。
 太陽の光が寝室を照らしている。

「(あれ、なんか、もう死んでもいいかも)」
「ただいま。寝てたのか?起こした?」
「あっ…征十郎」
「今日もささみでいいかな。僕そんなに料理できないから同じようなメニューになって…料理、できる?」
「わたしも…あまり……できない」
「そうか…明日本屋で料理の本でも買ってくるか。一緒に作るぞ」
「…はい。…あの、学校は?まだ2時なのに」
「早退した。ついでに部活を辞めてきた」
「そう…ですか」

 彼の行くスーパーへ行ってみたい。彼の行こうとしている本屋へ行ってみたい。外に出たい。学校に行きたい。
 けれど最近「鬼」になる人間が増えていると聞いた。「鬼」は「鬼」となるウイルスのにおいを感じ取ることができるからかウイルスが入った食材や添加物などがわかるらしいが一般人にはそれさえ感じ取れないから、「鬼」になる人間が増えるらしい。「鬼」になる人間は数に限りがある。なれた者は幸福なのか不幸なのか、それは本人が決めることだろう。
 昨日彼に殴られた腕を押さえた。ぶるぶると震えている。彼はわたしと腕を見てスーパーの袋を持って台所へ立って食器棚からサラダ用の大き目のお皿を机に置いた。またサラダだ、鶏のささみを乗せてドレッシングを手渡される。

「征十郎。わたしはまだ生きてていいんですか」

 彼はゆっくり振り返る。何をバカげたことを言っているんだ、そう言っているような目でわたしを見つめる。彼は答えずに顔をレタスへと戻し、丁寧にレタスの芯を取って千切り、鍋の火を確認して手元に置いてあるささみを熱くなったお湯の中へと入れていく。

「これ、見ててくれるかい。僕はレタスを千切らなくてはならないからね」

 はい。かすれたわたしの声に彼は満足そうに笑って手招きをした。痛む腕と赤く腫れている脚を動かして彼の隣に立ち、お湯の中に入っているささみを見つめた。誰かもこうして食べられるのかと思うと同時にわたしも生きているものをこうして食べているという現実に改めて直面したような気がした。


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