プウコギへようこそ | ナノ


 征十郎からも。テツヤからも。征十郎のお金で買ったこの白い箱を大事に抱えて目指す場所など無く、ひたすら前を見て走り続けた。わたしはペットであり家畜である。征十郎のわたしに向ける「かわいい」は犬や猫のペットの類に向ける「かわいい」と同じだ。子豚に向ける「かわいい」と同じ。わたしはいつしか彼に食べられてしまうのだ。
「名前さん」とわたしの名を呼ぶ、必死になるテツヤを振り切ってひたすら、自分の家の方まで走った。地理の成績が壊滅的だったわたしにとって自殺行為と同じだった。けれど、食べられたくはなかったのだ。

「あうっ…あ、ひぃ、う、くっ」

 白い箱を抱えてうずくまると、白い袋がカサカサと音を鳴らしていった。これを渡さないと征十郎はもっと苦しむ。もしかしたら死んでしまうかもしれない。けど、征十郎はわたしの家族を食べた。数十年一緒にいた、切っても切れない絆を切った。お母さんを食べた。お父さんを食べた。妹を食べた。食べたのだ。食べ残したものは大きな鞄の中に詰め込んで家に持って帰ったのだ。ならそのままでもいいじゃないか。征十郎が悪いんだ。きっとこれは征十郎にとって大事なものなんだ、わたしに使いをさせるほどの、大事なものなんだ。

「名前さん!」

 がっしりと強い力で肩を掴まれ、ぐいぐいと引き寄せられていく。声の主はテツヤであることはわかっている。

「…探し、ました」
「わたしなんてほっといてください、わたし、わたしなんて」

 先程の涙と鼻水、更にまた涙と鼻水がわたしの顔をぐちゃぐちゃにしてくれる。手で顔を覆うと、テツヤの手が頭の上に乗っかって、やさしく左右へ撫でられた。

「せい、征十郎が、苦しんでる…!」






 うっすらと赤と黄色の目を開けた征十郎は「…あ」とわたしの顔を見て声を上げた。「征十郎」征十郎の手を握ると、青ざめた顔はたちまちいつもの顔色に戻り、上半身を起こすと、またも、目の前にいる人物に「あ」と声を上げた。テツヤは軽く会釈して、平気ですか?なんて言った。征十郎は答えなかった。

「では僕はこれで帰ります。赤司くん、お大事に」
「ああ、ありがとう。ちなみに今日は何曜日だ?」
「水曜日ですよ」
「そうか、水曜か。学校に行ってないと曜日感覚がどうも衰えてしまってね」
「そうですか…名前さんも、また、」

 テツヤが靴を履き重そうなスポーツバックを肩にかけて玄関のドアを閉じた。一息吐き、鍵を閉めようと足に力を入れたが、征十郎がわたしの手首を掴む事により折角出した力も無駄になった。ぎゅっとわたしの手首を掴んでいる。再び地に付いたわたしの下半身、おしり、足、足首、ふくらはぎ、太もも。力さえも彼に支配されてしまうのか。

「きみは名前というのか」
「…はい」
「名前」
「……はい」
「名前、僕のこと、好きっていってごらん」
「好き、です」
「なんでテツヤはきみの名前を知っているんだ」
「き、訊かれたからです」

 テツヤの友人に、とは言わなかった。おそらく叩かれるから。

「名前」

 ぽろぽろと零れ落ちる涙は、テツヤの前で見せたものより綺麗だと思う。

「征十郎、わたしは、あなたにとってなんなんですか?」

 答えがほしいわけではなかった。わたしは彼にとってなんなのか知りたくなかった。ペットだと家畜だと言われたくなかった。家族よりも彼を取ってしまったわたしにとってはとても重要な事柄なのだが、本当は訊きたくなかったし、聴きたかった。
 テーブルには白い箱から出したたくさんの丸く白い小さな薬が飲みかけの水と一緒に置きっぱなしにしてある。

「征十郎、わたしは、あなたにとって、」
「…『鬼』は、この薬を飲まないと死んでしまう。週一、それだけでいい、それだけでいいのに飲み忘れると、こうも、死ぬ思いをしてしまう。今日だって僕は死にかけた。喉が渇いて、腹には何かが蠢いて、心臓だって潰される痛みがあるし、頭だって何をしようとも痛くて堪らない。人間を食べなくともなる。ただ『鬼』は人間を食べないと落ち着かなくなってしまう。毎日定期的に微量でもいい、人間を食べないと死んでしまう。『鬼』は食物連鎖の頂点。わかるかい。わかってほしい。名前、わかってくれるかい」




 死んでしまえ、征十郎なんか、死んでしまえ。喉でつっかえた言葉を飲み込んだ。

「ペット、家畜…奴隷と同じなんだよ、今は」


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