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 ゴトンと鈍い音を出して落ちた銃に目を覚まし、うつ伏せになっていた体を起してぼうっとする風景に息を潜めた。
 昨日、仕事を終えて机に座ったまま寝てしまったのだろう。部屋は薄暗く、窓の外を見ると灰色の厚みのある雲が空を覆っており、通りかかった近所のおばさんが寒そうに肩を狭めてゴミ袋を両手に持って歩いていた。時刻は7時。丁度起きる時間だった。しかし学校へ行く気分にもなれない。適当に理由を付けて休もうか、と思ったけれど、赤司と話したいこともあったので重い腰を上げて洗面所へ向かった。

 昨日、わたしが相手をしたのはホムンクルスの幹部だった。彼が話すには、幹部をまとめるリーダーなのだそうだ。白い髪に薄黒い肌で幼さが残る、わたし達と同じくらいの青年だった。久しぶりに異性に頬を殴られてしまい、殴られた頬が腫れている。仕方なく、溜息をオプションで付けながら医療用の棚を開けてガーゼとテープ、はさみを持ち出して、洗面台にわざとらしく大きな割れる音でその二つを置き、ガーゼをはさみで丁度いい大きさに切っていき、テープで固定していく。
「キミ、もしかしてニルヴァーナの子?」跳ねるテープをなぞる。「噂は聞いてるよ。小学生から仕込まれたんだってね、そりゃもうすごい腕前なんだろう?ちょっと僕と相手してよ」白い髪は跳ね、あどけない笑顔で彼はわたしの頬を殴った。正直、殴るだなんて予想していなかったので素直にただ驚いて殴られてしまったわけだ。幸い、殴られただけで死んではいない。
 もちろん、ボスには伝えていない。そして赤司にもまだこの事を話しておらず、メールをしようにも長文は苦手だし、どうせ電話して合う事になるだろう、なら学校へ行って放課後この事を話した方がいい。そう判断して制服を取りに二階へ上がった。



「…もしかしたら猫と呼ばれる男かもしれない」

 電子辞書を操作している赤司は顔を上げ、画面をこちらに向けた。画面には昨日の彼が映っている。「ああ、うん、この人」赤司は苦い顔をして画面を自分の方へ向けて小さなキーボードを叩いた。
 猫と呼ばれたこの青年はやはり、あどけない笑顔でいる写真が多く、この仕事ではなかなかお目にかかれないもので、彼の性格が十分に写しだされていた。彼は殺すことも、死ぬことも恐れていない、この仕事の世界を楽観視しているからこその、まるで生きているようで生きていない瞳。
 わたしと赤司の間には沈黙が生まれた。どちらもこの空気を追い払うことはない。わたしま空を、赤司は画面を見つめている。

「……これからは僕と行動しよう。帰りも…なるべく一人に、真太郎と二人きりで帰らない方がいい。危険すぎる。いくら自転車で帰ると言ったって、もし向こうが車だとしたら…どうにもならない」
「それは…そうかもしれないけど」
「真太郎が巻き込まれることは予想しているのか?」
「…、赤司」

 わたしは赤司のほうへ振り向いた。オレンジ色の夕日の光と、カーテンの陰の黒が彼を染めている。

「猫、殺そうか」

 赤司はゆっくりと、目を大きく開けた。薄く口が開き、手に乗せていた頬を上げて、驚いた表情をわたしにだけ向けている。
 冗談だよ、と言って彼に笑みを向けると、赤司は眉を顰めて電子辞書を閉じた。わたしは立ち上がって、帰るよ、と赤司に背を向けると、背の後ろで赤司はわたしに真太郎と帰るのかと訊いてきた。元々わたしの私情で真太郎が絡まれる事を避ける事がうまいわたしには赤司の言葉は無に等しい。問題ないよと言えばその一言で片付けられるのだ。
 真太郎と一緒に帰る気はない。わたしは本当に猫を殺してもいい。それくらいに気分を上げていた。猫と今ここで出会うことになっても構わないほどに、わたしの心は躍っていた。猫と同じ瞳をしているのかもしれない。が、構わなかった。それが一体どうしたと言うのか。もて遊んでやったっていい。

「また明日ね、赤司」



 赤く染まった紅葉がわたしの足の裏でパラパラと線が入り風に乗って散っていく。鞄の紐を片手で支えて冷たい風に当たりながら、猫の事を考えた。きっと戦闘になることは避けられないだろうし、早めに手をうっとく事に越したことはないのだろうが、如何せん相手はホムンクルスの幹部なのである。あの赤司の頬に傷を負わせた、幹部をまとめる人物なのだ。
 やはりボスにホムンクルスと接触した事を話した方がいいのかもしれない。だが、片方の頬にもう一発くるのだろうし、それだけじゃ終わらないのかもしれないと想像してしまっては、ボスの所へ行く勇気も生まれない。音が鳴る足元は秋の季節を感じさせてくれた。
 負けなしのバスケ部はいつも練習量が半端ではないことを知っている。赤司に負担をかけさせるわけにもいかない。あの後赤司は主将として部活へ向かっただろう。早めに事を片付けるようにしよう、と一人勝手に思う事を何度も何度も経験した。赤司に負担をかけさせないように。真太郎に不思議がられないように、変な奴らに目を付けられないように、と。

「おい名前」
「…ボス」

 振り返るとそこには紫煙を靡かせるボスの姿があり、わたしは時が止まったように足を硬直させ息を止めた。
 ボスの目には、わたしへの怒りしか、映っていなかった。