愛するひだり | ナノ


 早速夏候覇に頼る、のはわたしには出来なかった。陸遜のクラスが移動教室のとき、陸遜がわたしを見ることに気付いたし、昼休みに陸遜のクラスの前にあるトイレに行くとき、たまたまトイレの前にいた陸遜にじっと見られたことにも気付いた。
 いつもなら自分から絡みに声をかけるし、陸遜のほうからも声をかける。だが今日はそれが一切なかったためか、友人は「一体どうしたの」と驚きの声をあげたのだ。仕舞には「喧嘩でもした?二人が話してないと調子狂うよ」とまで言ったのだ。これには当然わたしも驚く。そんなにおかしいかと聞くと、友人はヘラヘラと笑って「だって名前元気ないから。名前の元気を出せる人って陸遜くんしかいないんだもの」と言った。開いた口が閉じず、曖昧な返事をして、放課後を迎える。
 今日一日はずっと放心状態だったように思う。もちろん陸遜のことを考えて、だ。夏候覇からは「ぼーっとして大丈夫か?」と。鍾会からは「ついに脳ミソが溶けたか」と言われ「その呆けた面をどうにかしろ」と締めくくり、あの勝ち誇ったような顔を見せつけられた。そんなだらしのない顔をしていたのだろうか…、と考えながら部活に向かおうと鞄を持って階段を下りていくと、ちょうど一階についたときに、階段の手すりに背中を預けている鍾会の姿が視界に広がる。きっと夏候覇を待っているのだろうと一声かけてそのまま部活へ向かおうと決め、階段を下り、鍾会に「先行ってるよ」と言おうと口を開いたとき、鍾会は
「おそい」
 といってわたしの前を歩きだした。
「…つまりどういうこと」
「私を煩わせるな!一日中その呆けた面でいられたらこっちも困るからね、少しは手を貸してやってもいいかなと思っただけ、」
「そんな…鍾会が手を貸さなきゃだめってほど、わたし呆けた面してたの?」
 それを言い終わったあと、鍾会とわたしの間にはしばらくの沈黙が生まれ、鍾会は顔を真っ赤に染め上げ、舌打ちをし、わたしに背を向けて歩き出した。私は鍾会の考えがすべてわかるわけではないので、一体鍾会がどんな意味を込めてその台詞を言ったのかがわからない。
 このままのろのろと歩いていては部活に遅れてしまう、それに副部長のあとにヘラヘラとして部活にいくのもなんとなく気が引ける、ので、走って鍾会の隣に着く。
「名前」
「なに?」
「その呆けた面を見れるのは私の特権だと思っている。それに手を貸すのも、この私の特権だ。」
「…えっ…と……、うん。」
 鍾会が立ち止り、わたしも三歩先へ歩いて立ち止った。「鍾会?」振り向くと、そこにはなぜか億劫そうにわたしを見つめている瞳がある。そんな瞳にさせたのはおそらくわたし、いや、完璧にわたしである。
 鍾会はもう億劫な瞳をこちらに向けている。
「お前の好意はちっとも迷惑だとは思わない。」

 それからわたしは頭の中が真っ白になって部活に向かい、着替え、一心不乱に的を射た。調子はいつも通り良くも悪くもなく、後から来た鍾会に意識を向けると何もできなくなるので目線の先にある的だけをじっと見つめていた。時々友人と会話をして、また的を見る。鍾会に目線を向けるだなんて、今のわたしには自殺行為に等しい。視線をこちらに向けているか、とか、そんなのを考えていたら頭がおかしくなりそうだ。
 鍾会のあの言葉がわたしに向ける告白、とまではいかないが、悪く思われてはいないということだろうし、むしろわたしに好意を向けているような台詞だった。
 ああ、そうだ陸遜に、と陸遜を頭の中に現したのだが、陸遜の告白を思い出して、火照っていた頬の熱が冷めていくのを感じた。
 なぜ今言うのだろう、と少しだけ思ったのである。鍾会のことを好きだと気づく前に言ってくれていたら、どうなっていたのだろうか、と考えることはしたのだが、まったく想像がつかなかった。陸遜とわたしは近すぎる存在だからだ。
 部活が終わって一目散に夏候覇がいる剣道部へ走る。陸遜がいることはわかっているが、夏候覇だけを誘って抜け出せば大丈夫だと確信したからだ。夏候覇は着替えがとても早いので待つこともないだろう、この時間に丁度剣道部が終わるから。
体育館のドアの前に立ち、ドアを開けてそっと中を覗こうと上半身を動かすと、目の前から「うわっ」と驚きの声が聞こえ、わたしも目の前の人物に驚いて身を引いた。
「名前?」目の前にいたのは陸遜だった。のど先まで出てきた声を抑えて、出来るだけ声のトーンを落とし、顔を見ないようにして、
「夏候覇いる?」
「彼ならもう用事があるとかなんとか言って帰りましたよ」
「そ、そう、…それじゃ」
「それじゃ、じゃないですよ。一緒に帰ってもらいますからね」
 そこで待っててください。と陸遜はわたしの服装を確認してから言い、体育館の中に入って行った。
「(タイミングわるう…)」なにも陸遜のことが嫌いだと言っているわけじゃない。
 ドアを背もたれにして携帯をいじっていると、体育館から出てきた夏候惇先生が持っていた竹刀で頭を叩かれ「お前のせいで今日は散々だった」と言い校舎に向かって歩いていく。
「(何なんだ今の…)」
 軽く叩かれたとはいえ、腕力のある先生なのだから痛いのは確かだ。叩かれた部分をさすって言葉にせず夏候惇先生に罵声を浴びせていると、額に汗がうっすらと見える陸遜が体育館から飛び出して校舎のほう(昇降口)のほうへ小走りで移動し始めようとするところで声をかけた。
「陸遜!」
 数歩走った陸遜はハッとしてわたしのほうに振り向き、ほっと息を吐いて、眉を八の字に曲げて「もう帰ったのかと思いました」と言った。
「そんな…、わたしそんなひどい人じゃありません。約束は守りますけど」
「そうですか?…でも、帰っていなくてよかった」
「…うん」
「今日はたくさん愚痴があるのでストレスが溜まっていたんです。早速ストレス処理機になってください」
「えー!ふざけんな!」
 そんなことで呼び止めたのかよ!
 というのはやめておいた。まだわたしは距離を感じているし、陸遜だって同じはずだ。
いつも通りの帰り道を歩くのが、こんなにも久しぶりに感じるのは、なぜだろう。朝一緒に行かなかっただけ、なのか、それとも、わたし達の距離が変わってしまったから、なのだろうか。
「では早速、今日、たるんでるとかなんとかで夏候惇先生からお叱りをいただきました」
「はいはい」
「それから、夏候覇殿に言われました。本気でいかないとそろそろヤバイ、と」
「本気?」
「…ええ、そうです。それで、そのことを考えていたらいつの間にか部活が終わってしまいました。一時間を無駄に過ごしてしまい、ストレスが溜まっています。その一時間で少しでも剣の腕が上達もできれば、今日教わった数学の公式も復習できたというのに」
「陸遜はそんなことしなくたって大丈夫だよ」
「でも時間を無駄に過ごすのは嫌なんですよ。」
「無駄なこと考えてたってことでしょう?自業自得じゃん」
「……ええ……、そう、…まあ…そうでしょうね、あなたのことを考えるだなんて」
 鞄の紐を掴む力が強くなる。
 まただ。
 頭が苦しくなるような気がする。
 胸ではなく、頭が苦しくなって、なにも考えられずに逃げ場を失う。
「いえ、嫌味で言っているわけではなく。私もわかっていた事ですから、新しい恋に向けて前進しようと決めました」
「え?」
 陸遜を見上げ、陸遜は不思議そうにわたしを見る。お互いに、この状況がわかっていないような、そんな雰囲気を出している。ただ陸遜は、わたしの返事を不思議に思っているのだろう。わたしは、なんだろう。
「どうしたんですか?そんな顔して」
「か、かお、」
「さみしい、そんな顔をなさってますよ」
 左の頬を陸遜の親指が擦る。「しっしてない」顔を逸らして歩き出せば、陸遜は間隔をあけて歩いた。今まではこんな間隔もなかったので、少しだけ「さみしい」と思った。
 これは、夏候覇に相談するしかない、と思ったのだが、尻軽女だと思われたくないから、言うことを躊躇いそうだ。そして、やはり言わないだろう。
「よく、わからない。だって…わたし鍾会の事が好きだから」
「まだ鍾会殿にこういうことをされていないから、私にされて、そう顔を赤くするんです、きっと。いや、そうだと確信できます。…もうすぐですよ。夏候覇殿も言っていました。後はあなたが彼を待つだけだ」
 そういった陸遜は悲しそうに、今にも泣きそうに笑った。涙なんて見えないし、涙目にもなっていない、けれど、笑った顔が、泣きそうだった。
 またわたしは陸遜を悲しませてしまった。
「はい、愚痴は終わりです。」