愛するひだり | ナノ


 なんだか今日は調子が悪いようだ。鐘会の矢はいつもの場所を外している。「私が中心を射抜けないとでも言うのか」とドヤ顔で言った鐘会をよく見て見ると焦りの文字が見える。確かに、矢は中心からずれている。いつもの鐘会ならばこんなことはあまりないのに、とぼんやりと後ろ姿を見ていると、振り返った鐘会とバッチリ目が合った。額の汗は焦りの汗なのか、それとも疲れの汗なのか。しかし、本当に綺麗な顔をしているのが憎いばかりだ。わたしもそんな白い肌と綺麗なすべすべした肌がほしい。肌に張り付いている髪もなんでか羨ましい。
「おい、そんなに私の醜い姿が面白いのか…!?」
「……えっ!?」
 もしかして笑っていたのだろうか…。自然と鐘会を見ていてにやついていただなんて、まさかの失態すぎる。だが幸いに今は部活中でしかも鐘会がヘマをした場面、場面に救われたのだ。
 座って鐘会を見ていたからなのか気が緩んだ、という事にしておこう。ずいずいと大股でわたしに近づいてきた鐘会を見上げていたので、先程よりも首を上に曲げることになる。ということは、だ。もちろん鐘会も近くなる。じんわりと汗が滲み出ているのもよく見える。
「え?ううん、いやあ、なんでもないよ?」
「ならばその笑みを消せ。不愉快すぎる。」
 そのまま鐘会はわたしの隣に腰を下ろし、袖で額を拭いた。
「焦ってるでしょ?見ててわかるよ?皆もきっと解ってるよ」
「黙れ。今日は少し調子が悪いだけだ。」
「いつも調子いいからっ…」
 ザアアア、という雨の音でわたしと鐘会は前を向いた。「お、雨だぞ雨」「やべー傘持ってきてねーよ俺!」
「…雨…」
「…まさかまた傘を忘れたのか?この前に続き今日もか…凡愚だな」
「口調移ってますよ鐘会殿。あー、どうしよう、陸遜いるかなあ、まだ剣道部ってやってるかなあ…」
「………」
「…な、なに?なんでこっち見てるの?」
 そうだ、この間までは鐘会のことが好きではなかったのだから、こうして見つめられてもどうもしなかったのだ。動揺だってしなかった。しかしこう意識してしまったからには、意識しない、ということはできなくなる。
 部活も終わりになる時間になった。調子が悪い鐘会は前に出ていくらか話をしてすぐに身を引き部長に主導権を渡す。今日のが心にきたのだろうか、部活が終わる頃には疲れて、どこか悲しそうな表情をしていた。雨が地面を痛いくらいに叩きつけていて、制服に着替えて昇降口に向かう頃には辺りが見えなくなるくらいにまでなっていた。お母さんに電話をしても繋がらず、また昇降口で外の景色を見つめることになった。また鐘会が傘に入れてくれたらどんなに幸せなことか、と思いながら溜まっていた息を吐くと、肩にちょん、と後ろから指先が当てられて、振り向こうとすると腕が掴まれて外に出てしまい、同時に傘を開く音が鳴った。隣には鐘会。傘は透明のビニール傘だ。
「や、やあ鐘会くん……またいれてくれるの?」
「どうせまた雨の中を傘もささずに帰ろうとしていたんだろう?剣道部はとっくに部活が終わっていたからそうだろうと思った。まったく、毎日天気予報くらいみて家を出たらどうだ?」
「…でも鐘会、これ購買の傘だよね?ということは、鐘会も天気予報見なかったってことだよね?」
「……」
「…ほんとに調子悪いんだね、というか、占い何位だった?」
「12位、だが」
「……わたし4位だった」
「へらへら笑うな!たまたま傘を忘れただけだ!そんなに私との差を見せつけたいのか、この下衆め!」
「はいはい。じゃあ帰ろうか」
 部活で疲れてるでしょうし、と鐘会の腕を掴んで一歩先に行くと、鐘会は腕を振ってわたしの手を振りほどいた。思わずなんとなく掴んでしまった手を見つめ、図々しい事をしてしまったのを後悔し、機嫌の悪い鐘会の隣でげっそりと、そして溜め息を吐く。「最近、溜め息の数が多いんじゃないか」ぼそりと呟いた鐘会を見ると、「溜め息が目障りなだけだ」と言う。そうだろう、わたしは別に期待などしていないのだから。
「あの、しょうかっ……」
 途中コンビニに寄りたい、と言いたかった。しかしその言葉は突然のことで途切れてしまった。憐れ、と思ったわけではなく、本当に驚きで。鐘会も目を大きくさせて呆然と立っていて、今の状況を鐘会の良い脳みそで理解するのが困難のようではある。
 さて、鐘会はトラックにはねられた水を体半分に受けてしまったのだ。
「…これまだ使ってないから、どうぞ」
「……う、占いのせいだ」
「大丈夫、わかってるよ。ちなみに顔真っ赤だよ。でもわかってるよ。うん。使いなよ。」
 鐘会は唇をぎゅっと強く噛んでわたしのタオルを受け取った。泥水がかかったことが悔しいのか、それともわたしのタオルを受け取らざるを得ないことに悔しいのか、どちらかはわからないが、どちらともという回答にもなるかもしれない。「顔から拭きなよ?」「…洗って返す」いや、こんな姿を見られたことが屈辱なのかもしれない。
「首も、髪も、制服、ワイシャツなんだから少しでも拭いたほうがいいよ。」
「うるさい!それくらいわかってる!」
「ああ!違うってば洋服のは吸収するようにするの!」
「うるさい!わかってると言っただろう!」
「名前?」
 はっとしてわたしと鐘会、二人同時に後ろに振り向くと、赤い傘をさしている陸遜が頭にクエスチョンマークを浮かべながらこちらを窺うようにして立っていた。鐘会の服を見た陸遜は、ああ、と状況を把握した目をしてこちらに近づいてきて、「タオルでも貸しましょうか」と鐘会に言う。すると鐘会は目を鋭くさせて
「もう私はいらないな」
 と言って鐘会はわたし達に背を向けて歩き出した。呆気を取られているわたしに、陸遜はクスクスと笑い出し、わたしを見る。もちろん、鐘会と帰れると思ったわたしの機嫌は悪い。陸遜を軽く睨むと、「そんなに睨まないでください」と傘を差し出してきて、身を引くと陸遜の方から近付いてくる。
「よかったじゃないですか。私のアドバイスなんていらないくらい、脈あり、ですよ」
「え?いきなりなに?」
「だってほら、鐘会殿の家は反対方向だってことですよ。向こうは駅、名前の家とは反対方向。…ね?」
「『ね?』じゃないし!せっかく一緒に帰れると思ったのにっ……」
「私と一緒に帰るのはお嫌いですか?」
「嫌いじゃないけど!…あーもー!」
 濡れた鐘会は今とても恥ずかしい思いをしているだろう。隣に誰かいれば少しは恥ずかしさを解消できるのだろうけれど、それは普通の人の意見であって、鐘会はまるで違う。鐘会の去った後を眼で追うと、大丈夫ですよ、と隣から声がする。
 どこからそんな自信が生まれてくるんだ、と問い質してみたくなるくらい、自身に満ちた表情の陸遜。
「きっと鐘会殿があなたのタオルを返してくると思いますから、その時、あの時はごめんね、陸遜が、と言えばいいのですよ。私だったらそれを聞くと好感が持てます。鐘会殿も何かしら反応するでしょうし、それを夏候覇殿が端で見ているのが予想できます。その光景に近づくか近づかないか。近づけば鐘会殿は恥ずかしさのあまり、からかってくる夏候覇殿に手を加えますね。近付かなくても夏候覇殿のほうへ走って行きます。」
「おお…さすが陸遜様!完璧な智略でございます!…え、あ、いや、でも鐘会の事だから泥水ぶっかけられた事なんて『もう忘れましたが?』なんて言いそう。」
「え?」
「え…?」
「……いえ、そう、はい、そうですか。わかりました。あなたのそういう性格も視野に広げなくてはならないことを忘れていました。つまりですね、私が言いたい恥ずかしさというのは……」
「うん」
「………なんでも、ありません」
「えー?そこまで言っといてそれぇ?」
「では、帰りましょうか。残念ながら私の傘で。」
「ほんとだよもう」
「ちなみに鐘会殿は傘を持ってきていましたよ。夏候覇殿に傘を渡して購買にビニール傘を買いに走っている光景を目にしましたが」
「うん?つまりどういうこと?」
「あなたの為に傘を買った、ということです。」
「……なんで?」
「私が思うに、夏候覇殿に傘を貸して、名前と一緒に入る傘を買いに行った。それに、意外にあなたは行動が早いですから、この雨の中帰ってしまうかも、と考えたのかもしれません。」
「考えすぎじゃないの?」
「鐘会殿と夏候覇殿は毎朝同じ電車で通学、つまり、一緒に帰ればいいということです。たまたま耳にしたんですが、鐘会殿は夏候覇殿に『用事を思い出したから先に帰ってくれていい。傘は貸しておく』、と。傘は夏候覇殿の目晦まし、本来の目的は名前と一緒に帰る事」
「頭痛くなってきたよ。男同士で相合傘するのは気が引けたんじゃない?」
「おや、そうですか?いつもの二人ならば相合傘をすると思いますけど?」
 自信に満ちた陸遜の表情は一向に変わらず。陸遜の言葉を借りるならば、つまり、どういうことですか?だ。それを言えば、陸遜はつまりはそういうことです。と返すだろう。陸遜の言いたいことがあまりよく理解できず、やはり、つまりどういうことだ。と訊きたくなる。
「でも私の意見からすると、あまり期待を持たないほうが良いと思いますよ。今のは一般的な考えを述べたまでです。」
 ほーら、陸遜はそうやってわたしを絶望のどん底へ落とすのが好きなんだ。