Innocent world | ナノ


 人を殺すという行為を、少なくとも正義だとは思わない。それを綺麗だとか、使命だとか、そういうものに捕らわれればその行為はできなくなる。なにも考えず、ただ無になるのだ。
 基地に急ぐバダップを先頭にエスカバ、ミストレ、そして負傷した軍人達が今にも倒れそうになりながらも足を動かしている。バダップは名前のことを考えていられないほどに疲労を感じていた。後ろにいるエスカバやミストレも同様、目を伏せて木くずを踏みながら手をだらんと垂らしながら自分の持っている銃を力強く持っていた。

 ふと、バダップは顔を上げた。そろそろ基地に近くなってきたことを後ろにいるエスカバとミストレに告げようと思ったのだ。しかしバダップはそう云わずとも、二人は十分にそれを承知していたようで、先程よりも生気の宿った眼をしている。バダップは微かに口角を上げ、先の基地へと進んで行った。


 だが、その基地には名前がいなかった。目を大きくして呆然と立っているバダップに、ミストレは肩を叩いて「さっき」と話を切り出した。バダップは平常心を見せるように「なんだ」と答える。ミストレはそんなバダップの姿に眉の皺を深めた。

「苗字名前は、スパイだったらしい」




 まだ、そう遠くには行ってはいないだろうとエスカバはミストレと敵国のスパイだと知らされた名前を探していた。
 バダップは、真実を聞かされたあと「そうか」と、その場を立ち去った。ミストレはいくらバダップであっても名前を探し出し、逃げてしまうのではと考えたが、エスカバは腕を組んでそれを否定したのだが、ミストレがあまりにもエスカバの否定に喰いついてくるものだから基地を抜け出して名前を探していた。慈悲ではなく、こちらの情報が外に洩れてしまうことと、バダップがもしかしたら寝返ってしまうのではと、それから彼女の能力が今の自分たちにとってどれほど必要なものかを考えてからの行動だった。
 疲れた体であるが、名前を引きずってまでも基地に連れてくる価値はある。これまで彼女はいくつもの戦場へ出入りしていた。その時は軍人、軍医としてとても貴重な人材だった。それがいきなり無くなってしまえば、今まで考えてきた作戦も、期待してきた人材も、すべてがボロボロに崩れてしまう。上にはまだ連絡していないという報告をもらったミストレだったが、バレるのも時間の問題だろうと、失態を犯した事実を上に報告されてしまえば自分の身に何が起きるか。それが恐ろしかった。

 30分間探し続けたが、名前の姿はどこにもいない。報告に寄れば、30分前には「先程逃げ出した」と聞いたので遠くには逃げていないと思ったのだが、もうどこに逃げたのかも検討がつかない。ミストレは諦めがはいり、動かしていた下半身を止めた。

「バダップなら探し出せたのかもな」
「ま、バダップがあれじゃ探す探さない以前の問題だと思うね。それにバダップは彼女を追うとすれば、理由は好きな女だから…、だろう。これじゃ示しがつかない。基地で待機していたほうが全然いいさ」
「そりゃそうだな。しかし、あのバダップがあれじゃ、あの女も相当なもん持ってたんだな。俺も一度でいいからしてみたかったぜ」
「キミみたいな野蛮な男のほうが好きかもね、彼女。騙しやすいから」
「よーし頭かせ。ぶち抜いてやる」





「怖いの。わたしが好きでも、相手がわたしの事好きじゃなくて、わたしだけが好きだったら。わたしが楽しくて、相手が楽しくなくて、わたしだけが楽しいのが。人と対峙することが怖いの、わたしだけが一人取り残される。いつもそうだから、わたし怖い。だがら一人でいたい。でもそれが一番怖い。あの人の隣にいることが一番怖い。いつわたしのことを知るのか、拒まれるのか、それが怖くて怖くて仕方がなかった。」



 バダップは窓の外を覗く。腕の傷の手当てを終えていた。
 この傷を、彼女に治してもらいたかった。毎回傷を作ってくれば、彼女が傷を癒してくれていたはずだったのに。「バダップさん、バダップさん」と自分の元に走ってきて、傷を見つけるとすぐに手を当て、癒してくれる。あの暖かさは、確かに名前のものだった、偽りのない彼女の心そのものだった。
 だが、今はどうだ。彼女の優しさを見失いかけてきているのは、どういうことだろうか。バダップは腕の傷を押さえ、腕に頬を当て、静かに目を閉じた。

「バダップさん」

 バダップは名前の声が隣から聞こえ、目を開き勢いよく顔を上げて声の方へ顔を向けると、その声の主はエスカバであった。上がっていた肩を下ろし、

「エスカバか」

 と、低い声で声を出すが、エスカバにはバダップの目を見れば、何を期待したのかわかったのだが、それにはあえて反応せず、名前の姿はどこにもなかったことを伝えた。




「でも、バダップさんはわたしを受け入れてくれる。静かに、優しく、鮮明に、繊細に、わたしを、好きだって、伝えてくれる。だからわたし、バダップさんは信じられる。それがすっごく嬉しくて、たまらないくらい幸せを感じるの。ありがとう、バダップさん。バダップさんはバダップさん。わたしは、わたし。でもいつか、そんなことも忘れてしまうのかと思うと、それも怖い。やっぱり人間でいることは、怖い。でもわたし、バダップさんと隣にいたいです。」


「残念だが、あいつはスパイで間違いない。超貴重な重要機密の書類を盗んで行きやがった。こりゃうまく騙されたぜ。お前もなんか盗まれてんじゃねえか?あとで調べておけよ。…俺のハートだとか言ったらまじで爆笑してやるからぜってえ言うなよ。…って、ことで確かに伝えたからな。」

 バダップは次の瞬間拳を作り隣の窓をその拳で叩き割った。周りにいた軍人、軍医たちは驚いた声を上げたり、肩を上げたりしてバダップのほうを見る。バダップは今にも暴れ出してしまうのでは、と誰もが思うくらいに怒りに満ちた表情を浮かべていた。




「そうか、なら、俺はお前を守ってあげよう。誰にも縛られないように、俺が名前を守っていこう。それなら、キミはもう恐れることはないし、俺の隣にいることができる。それがイヤになったなら、それはそれで話は別になるだろうが、俺は守る。けれど、それが嫌になったのなら、言ってほしい。きっと、俺が悲しむだけだろうから。」
「(なにを、していた。こうなることをなぜ予想していなかった。十分あり得ることだった。なぜあんなにも信用していた。反軍人思考であったのに、なぜ、俺は、警戒しなかった。俺が悪い、俺の失態、俺の罪だ。なのに、なんでだ。俺は、あんなに信用していた。なぜ、)」

「水を差すようで悪いけどねバダップ、キミの立場であったなら、彼女をどうすることにもできたはずだ。それができなかったのはキミの失態だ。逃げ出したのはここに残った軍人や軍医が指摘されるだろうけどね、きっと最後にはキミに指がさされるよ。まあバダップが騙されたということは、相手も相当な腕があったってことだろうけれど」


 名前は自分をここまで追い込もうとしていたのだろうか。バダップは新たにできた傷を見つめながら、名前の姿を思い浮かべ、傷に手を当てる暖かさを、いないはずなのに、ひどく悲しく、苦しく、幸せに、そこに名前がいるかのように、感じた。

please do not believe,but please love.