Innocent world | ナノ


 バダップはつい先ほどになって初めて名前の事情を知った。バダップは今まで彼女に対して人間関係や背景を見ようとはしなかったが、事情を知ってからはそれが180度変わることになったのである。自分が彼女に一番近い立場にいることは気付いてはいたが、それを聞くまでの勇気が、彼には備わっていなかった。
 嫌われてしまう、と思ったからだ。この関係を壊したくもなく、けれども近付きたい、だけれどこれ以上干渉しあってしまったらどうなるだろうと、バダップは頭を抱えて悩んだ。だが自分だけが知らなくて、自分より遠い相手に彼女の事が知られるのは腹立たしく、独占欲がどんどん芽生えていく。これを治めるにはやはり彼女と干渉し合わなくてはならない。
 戦場に例えるならば、敵の陣地へ足を踏み入れるような、そんな感覚だ。そこに捕らわれた仲間がいて、それを助けるために銃を持って足を踏み入れる、といったところだ。いくら天才な軍人であろうとこの作戦を決行するには勇気と根性が不可欠である。バダップも軍人であるから、軍人としてのプライドも捨てられないので近々訊こう、と決めた。


「バダップさん、なんでわたしの事好きなんですか?」
「………いきなりどうした」
「え…いやあ、今日ちょっと訓練所で女の子が恋バナというものをしていてですね…なんでバダップさんはわたしの事好きなのかなあって思ったんです。ただそれだけです。」
「質問を質問で返すようで難だが、君はどうして俺の事を好きだと思った?それと同じだ」
「それじゃあわたしのこと、素敵でかっこよくて勇敢で笑った表情がたまらなくて、抱き締めてもらう時の胸の痛みが幸せで一生一緒に居たいって思ってるってことですよね!?」
「…よく恥ずかしい台詞をサラリと言ってのけるな。ちなみに君を『かっこいい』などと一度も思ったことはない。」
「それじゃあ……可愛い?」
「………。」

 名前の不意な質問にバダップは頬を赤く染め、赤い目を泳がせた。名前は口を開き、そして声を出してクスクスと笑ってバダップの手を握る。バダップは名前の手を見やり、そして名前を見た。こうして自分の好いているという感情を表に出すことはできても、その胸の内を話す事を苦手としているバダップにとって、この会話は「苦手」の分類に入る。そして、名前の笑顔もある意味の「苦手」に分類されるのだ。

「バダップさんって、照れ屋さんですよね」

 彼女を前にすると自分の軍人としての立ち位置が一気に下がるような気がして、絶対に逆らえない、と思うバダップであった。こうして女性と触れ合うことが少ないバダップにとって、名前の行動は「苦手」部類に入るが、それを名前がすることにより「苦手」意識がなくなり、逆に嬉しく思うのである。自分が名前の事を、自分が思っているよりも「好き」でいることを気付く胸の痛みがバダップは「銃で撃たれるよりも苦しく痛い」と感じるのであった。



 名前の特異的な能力は重宝された。彼女の能力によって軍の死亡率は昨年よりも飛躍的に改善され、軍事力も上がったのだ。それを知ったバダップは顔を濁らせながら資料に皺ができる程の力で握る。名前の様子は依然と変わらずで、軍人としての向上心が見えてきたところに軍人であるバダップは評価をするわけだが、そう思う一方でそれが悲しくも思えた。
 果たしてこれがいいことなのだろうか。バダップは自分の寮に名前がいることを他の軍人はもちろん、エスカバやミストレにさえ言っていない。それにこれは極秘である。もし軍に敵国のスパイがいれば、名前はもちろん殺されてしまうからだ。

「(こんな感情、捨ててしまえば楽なのに)」

 それをしない自分は女々しく、厭らしい。
 今、軍で名前の存在を知らぬ者はごくわずかだろう。できれば戦場へ行かせたくないと手の甲に額を付けて目を瞑るバダップは、「軍人」としての自分を役割を思うと瞼を開いて名前が戦場にいる景色を想像した。どれが最善なのかと答えをくれるのは神だけだ。
 自分の下で頬を染めている名前の頬をバダップは撫ぜ、深いキスを交わした。

「この頃考え事が多いんですね」
「ああ…、そうだな。悩むことが増えてしまった。俺だけでは解決できない問題が積み重なってしまって、どうすればいいかわからない。どれが最善策なのか、俺にもわからない。きっと…君にも わからない。」
「バダップさんは正しいから、自分がこうだと思ったことをすればいいと思います。…うん、きっとそう。バダップさんは正しい」
「俺は神ではない」
「でもわたしからしたら、バダップさんは神様だけど、」

 バダップの両頬に手を置き、ゆっくりとぼうっとした目で頬を撫でる名前にバダップはもう一度深いキスを交わす。頬に添えられていた手は肩に移動し、バダップがその手首をとり、指が交わるように手を、強く 握った。



 安っぽいクラシックを聴きながらの据銃の構えをし、引き金を引いた。バダップはミストレに勧められたクラシックを耳に入れながら、我ながら他人に勧められたものを聴いているだなんて可笑しなものだと笑い、二発、三発と的を射ていく。自分が神ならば死ぬことはないからこんなことをしなくてもよい、そんなことを思いながらもう一発、二発と的にプリントされている頭部へ弾を撃ち、最後に心臓部分を撃ち抜き、肩の力を抜いた。
 訓練場を退場する際、名前について噂をしている軍人が数人を見かけ、訓練されたスパイ活動を実践するように気配を消し、その人物らに近付いていく。そこで耳にしたものは二度目の名前の事情。なぜ彼らが知っているかというと、それは紛れもなく噂から流れてきたものだった。しかし、彼らと同じように噂から事情を知ったバダップ自身にとって、それは名前の「特別な存在」という位置づけにはならないのである。しかし子どもではないからとバダップは目を瞑って彼らから離れていくも、動揺にもにた悲しみは消えなかったのであった。


It runs out at night.