Innocent world | ナノ


バダップの異変に気付き始めたエスカバはバダップに片手を上げて「よお、最近元気ねえじゃん」と話しかけるのだが当のバダップはライフルを腕に抱えたまま上の空だった。まずここは戦場なのに、どうしてバダップはこんなになってしまったのか、「女に決まってるだろう?」ミストレは意地悪い顔でライフルでバダップの肩を叩くと彼はゆっくりとミストレに視線を移した。

「お熱いのはいいことだけど、ここは戦場ってこと忘れてないだろうねバダップ」
「ああ、もちろんだ。当然エスカバとミストレの会話を耳に入れながら空を見ていた」
「俺の話完全無視かよッ!」
「戦場を見てなくちゃね」

 ミストレがバダップに告げる一言一言は的確だったのだが、バダップにはそんなものは関係がないようで、目の前のことよりもまず医療テントに居る少女のことが気にかかっていた。そんなんじゃいけないと言われてしまうだろうが、今回の戦闘はいつもよりも激しいものであったから尚更のこと思う。この戦闘で死んでもおかしくないようなレベルだったので、ミストレの手の甲が撃たれたぐらいなどここの戦場ではかすり傷に分類される傷なのである。前線で戦うバダップ、エスカバ、ミストレの三人はどうにか命を繋げているのであった。
 小型通信機に無線が入り、作戦は一旦退く事で中止となった。こちらの被害が予想以上のものだったらしくこのまま続けたら朝までには片付いてしまう、とのこと。応援を呼んでまた再開しよう、ということだった。三人はホッと胸をなでおろし、エスカバに至っては銃を投げ捨て仰向けになって寝転がる。ミストレは手に巻いた布の血の匂いに顔を歪ませる。バダップはライフルも肩にかけ立ちあがった。まだ敵がいないと言いきれないので、完全に集中が切れたエスカバとミストレはいい的になるからだ。

「やっべカートリッジ落とした」
「ばか」

 だがバダップの用心は虚しく敵の気配はまったくない。立ちあがったバダップはやっと息を吐いて銃から手を離した。バダップは空を見上げると星が輝いていること忘れてしまうほどに青い空が広がっていた。
 近くではエスカバが食べたい食材をずらずらと並べる横でミストレは苦笑いを浮かべながら傷のある方の手でエスカバの肩をぽんぽんと叩く。そのミストレの傷を名前に治せるだろうかと考えながら基地へと繋がる道へ足を運んで行った。その途中では死人や怪我人が道端に転がっていたが、これらを全員基地に運んで行けるほどの時間も力もない。名前がいればすぐに治せるのでは、とバダップは思った後、自分の彼女をこんな戦場に出すような考えに顔を青くした。あんな弱い名前にこんな景色を見せるなど、絶対にしたくないと思ったのだ。

「ねえバダップ、基地のどこに名前チャンいるんだい?」
「……ミストレ、名前のことを知ってるのか?」
「ああ…この前訓練所で見かけて、女があそこにいるのって珍しいから声かけたんだ。話してたら彼女が君の知り合いだってことが解って、おれがバダップの友人だってこと伝えたら目の色変えて質問責めにあったよ。」
「へーえ、名前チャンね、名前チャン。可愛いじゃねーかよ」

 ミストレの笑う顔にエスカバの笑う顔はどこか同じ意図があるように感じたバダップは自分も知らない名前の居場所を教えられるはずがなく、それに二人に名前と関わってほしいと思っていなかったため二人の会話を聞いていないふりをする。エスカバが「こいつシカトしてるぜ」と肩を揺らして笑うがバダップは気にせず倒れている人間を避けて進んで行った。




 自分に着いてしまった血をお湯に浸したタオルで拭い、長時間梳かさなかった髪の毛を櫛で梳かして窓の外を眺めると、ゾロゾロと怪我をして血まみれになった軍人が基地に近付いてくる。一人の伝令兵により作戦が中止になったことを伝えられ、この状況に納得がいって空いているベッドを並べていると、一人の老兵に「朝からずっと休まずなんだから、休んでいいのよ」と名前に言った。今からが勝負なのに、休んでもいいのだろうかと行き場の無くした手を空中に浮かせていると、老兵はふんわりと笑って小さな肩に手を乗せる。
 名前は医療室の中にある一室の長椅子に座りぼうっと枯れた草を見つめた。まるで自分のようだと思って親近感が湧くと、今日水が手に入ったらこの草に少しだけ分けてあげようと決めたのだった。戦場になれていない名前は、この戦争の激しさに体がついていけなかったのでいつもよりも倍に疲労を感じでいた。肩に感じた重みに手を乗せようとすると名前の手よりもまず先に誰かの手が置かれ、名前の手はその上に重なった。

「随分お疲れのようだな」
「あ バダップさん」

 名前が後ろに振り向くと銃を肩に下げて少しだけ口角を上げるバダップの姿があった。名前に背を向けて長椅子に座ったバダップだったが名前がバダップの隣にくることにより、バダップがこの場面が誰にも気付かれないように工夫して作った状況がいとも簡単に破られた。バダップは名前の方に顔を少し傾けると、名前は嬉しそうに笑いかけた。

「バダップさんも疲れた顔してますよ?怪我はしてませんか?治せるところはありますか?」
「生憎だが怪我はしていない」
「あ、本当ですか?でも怪我がないのが何よりですね!」

 行き交う軍人はバダップの存在はもちろん、名前の存在までも知っていたのであの二人はどんな関係なのかと軍人のまた軍人へ噂は広まって行った。それを一番嫌うのがバダップである。変な噂を立てられてしまったらこっちの身が危ない。この地位にいれることを誇りに思っているバダップにとってそれがどれだけ都合の悪いことだろう。だがもしその噂がその通りであるならばバダップも口を出せないのである。
 赤い目が揺らぐ。




 バダップが耳にしたことは視界が白くなるほど衝撃の一言であり、自分の気持ちはそんなものではないと心の中で否定するもそれが言葉となって出ないのだから意味がない。唇を強く噛んだバダップにバウゼンは声をかけ、バダップの小さい「了解」にいやらしく笑う。
 バウゼンが言ったことはバダップの中で奥底でぐるぐると渦巻く。寮に戻ったバダップは名前の姿を見て目を伏せた。

「名前の気持ちをいかにコントロールできるか、これで名前が戦場で『生きたい』と思わせるかだ。噂は聞いたよ、名前を取り込んでいるらしいではないか」
「バダップさんどうしたの?疲れ、取れないんですか?これバダップさん好きでしょう?」

 名前がバダップの好物を見せると、バダップは笑って頷き「ああ」と明るい声で返事をした。これではまるでバウゼンのレールに敷かれているような気がしてバダップは一瞬迷ったのだが、やはり名前の姿を見ると軍人ではなく一人の人間としての感情が強くなる。名前の用意した夕食が机に置かれ、バダップは手を引かれるままに椅子に座った。「食欲、ありませんか?」「いいや」「でも顔色、あまりよくありませんよ?」「心配することはない。」「レトルトだからですか?」「毎日レトルトだろう」名前が眉を下げて質問するがバダップの顔色は晴れぬままだったので、名前は口を閉ざしてこれ以上何か質問するのはやめようとスプーンを握った。バダップの方を見る勇気もなかったので、レトルトのカレーをスプーンで掬い一口、また一口と喉に通していくが、口が動いているのは名前のみで、バダップはカレーをスプーンに掬ったまま一口も食べていなかった。「…バダップさん、食べないんですか?」

「俺は 君以外いらない」


It laughs in the bottom in the sea.