Innocent world | ナノ


 彼女が突然ピクニックに行きたいと言い出したのは丁度一週間前のことだった。ピクニック自体行った事がない俺はピクニックを調べることにした。調べた結果、恋人同士で行くところではないことと、そもそもピクニックできる広い土地があればそこはもう戦場として使われているということが、調べた結果だ。よほど行きたいのでないならば、個人的にピクニックに行くよりも動物園や遊園地に行った方が何倍にも楽しめるはずと考えるが、この考えは胸の奥底にしまって、彼女には、「また今度、落ち着いたらすぐにでも行こう」と言ってしまった。彼女は、人との繋がりというものをひどく尊重していた。
 キスがしたいだとか、セックスがしたいだとか、フェラをさせてだとか、彼女はそういうことを俺に言った事は一度もない。自分から人の域に踏み寄る事をしなかったために、俺自身で彼女の域へと踏み寄るしかなかった。だからなのか、俺は自然というか、義務のように、彼女との繋がりを求め、心が通う瞬間を求めていたのだろう。奥場を噛みしめるような、気付かなければ感じない痛みを俺は気付かずに受けていたのだと、今ならそう思えるのだが、それがどうかしたのか、ひどく心が暖かくなる。これは、俺が彼女に対する想いが強いからなのかどうかはわからない。だが、確かに言えることは、俺の中には彼女がまだ生き続けている。



「バダップさん、前髪を切ってみたの、どう?」
「あまりわからないな」
「あ…そう?わからない、かあ。もうちょっと切ろうかな」
「そう切る必要もないだろう」
「最近ね、前髪を短くするのが流行ってるみたい」

 流行りと取り入れようと彼女はハサミを片手に俺の前に現れて、「どのくらいがいいですか」と、丁度良い前髪の長さを要求してきた。その姿がとても可愛らしく思えたので、適当に長さを答えたあとに彼女の腕を掴んで、気付かれないようにその腕を撫でた。以前、エスカバに「バダップはむっつりだろ」と言われたことがあり、この光景を重ね合わせると、それも納得いくような気もした。確かにエスカバのいう「むっつり」なのだろう。

「バダップさんはエッチなのに髪の長さは変わらないんですね」

 そう言って太陽のように眩しく笑う彼女は、可愛い。

 残酷で悲しい物語を読んでも、心の中にはイマイチその内容が入ってこないのも問題である。文章の構成や、表現などが嫌いであってもなくとも、心が乏しいからか、物語が心に、頭に、入ってこないのだ。内容を理解しようと努力しても、内容を理解するだけで物語自体は理解できないのでは小説を読んだ意味がなくなる。彼女に渡したところ、彼女は涙を流し、所謂号泣というもので、紙を濡らしながら読んでいた。感受性が豊かである彼女が時に羨ましく、妬ましくもあった。俺にも感受性というものがもう少し優れた形で備わっていたら、また少しずつ世界観も変わっていったのだろう。
 彼女の手の甲に触れると、そこには涙の粒が落ちていた。


 彼女はやはり 人とは少しだけ違っていた。俺が出会ってきた中で一番、違う人間だった。人間だったの だろうか。人間という表現は違うのかもしれない。彼女は 別の生き物だった。あの綺麗な物体は 俺のようなドブ水が濡らしていいような物体ではなく、あの綺麗な物体はどんな色にでも染まってしまうため、綺麗なもの以外触れてはいけなかったのだ。ああ ああ 俺が先に見つけておけば、汚くなる心配もなかったのに。いつ あの綺麗な物体はけがれてしまったのだろうか。綺麗な色をしたあの腕を 誰が始めに手を取ったのだろう。あの暖かい 腕を。


「こうして裸で抱き締めあってると、すごく 安心 します。ずっとこうしていたい」そう動いた口はもう汚いものだった。俺の頬に添える指先はボロボロだった。俺に向ける瞳は濁っていた。それに気付けずにいる 俺がいた。
 俺がすべて悪いのだ。彼女を救えなかった 俺が、すべて 悪かった。今更謝ったって彼女が隣に戻ってくるわけでもない。再会を果たしたところで彼女には死が訪れる。
 もう彼女に会う事はない。
 あの、残酷で悲しい物語を思い出すと、きっと主人公はこんな風なことを思って悲しんでいたんだろう。こうして俺の人間染みた生活が終わった。彼女から離れれば、もう死を恐れることはないだろう、基地に戻って彼女の後ろ姿を見る事も、寮に帰って彼女がテレビの前で再放送のドラマを見ることも、ないだろう。そう、これでよかった。このほうがよかった。俺が密かに望んでいたことだった。





 名前がバダップの元から離れて数ヶ月が経った。バダップは名前に出会う前のバダップになっていて、今までバダップをバカにしていた者達はもうバダップの後ろ姿に指を差してこそこそと小さい声で話す事は遂になくなった。
 そして名前の目撃情報が飛び交うのは昨日の昼からだ。ミストレが戦場で名前らしき人物を見かけたらしく、その時の名前は銃を持って茂みに隠れていたらしいのだが、バダップはそれを聞いて「あの臆病な名前が戦場に」とうっすらと笑みを浮かべたのだが、ここでバダップはハッとして目を開けた。
 初めて出会った時、彼女は戦場にいた。

「あの時戦場で出会った、そしてその後、どうしてここにやってきた」スパイなんじゃなくて、もしかして名前は、自分を。


 目を開けると、バダップの眼に入ってきたのは名前だった。一瞬驚いたバダップだったが、これは夢だとすぐに判断できたのは景色が真っ白く輝いていたからである。良く見ると、輝いてみえるものは灰で、一面の銀世界となっていた。それを綺麗だと思うよりも先に、目の前の名前に目がいく。これは夢であるとバダップは目を閉じて夢から覚めようと現実世界とリンクを試みる。
 だが、名前がバダップの名を呼ぶ声に集中が途切れてしまって、それも敵わなくなった。自分自身が名前を求めているのだ。

「名前…」

 弱々しく、蚊のように鳴くバダップは目の前にいる彼女に手を伸ばす。触れた頬の冷たさに酷く胸を苦しくさせ、力強く名前の事を抱き締めると、背中に手が回ったのを感じて、バダップは更に抱き締める力を強くした。
「俺は自分を偽って君と一緒にいたかったらしい。君と一緒にいれるならと、そう思って、作った自分でいたらしい。今もこうして、きみの前では自分ではなくなっている気がする。君を失いたくないと、そう思う。会いたいと思えば思うほど、胸が苦しくなる。もう、君には会えないのか」
 本音という本音をぶつけられたのかはバダップにしかわからないだろう。名前にとってこれがバダップの本音であると解釈すれば、の話だが。名前は優しくバダップの髪を撫で、ゆっくりと口を開く。
 バダップは涙を流した。「もう、さよならだ」「これから、ずっと」「本当の自分になるその時、君を忘れるだろうな」バダップは名前を離したりはしなかった。夢が終わるまでこのままでいようと、いたいと、そう願ったのである。その願いは誰が叶えてくれたのだろう、永遠と二人はそばに寄り添い、互いを感じあう。


「わたしにとって、バダップさんは世界一大好きな神様です。」



Please murmur the moment when you feel happiness.