Innocent world | ナノ


 パリィン、とガラスの破片が飛び散る音にバダップはのっしりと腰を上げて音のする方へ歩いていくと、せっせとガラスの破片を拾っている名前の姿があった。そういえば、名前は自分の寮へ寝泊まりするんだったと本来の目的を思い出し、足元にあった破片を拾えば顔を真っ青にした名前は立ち上がって、体を揺らす。

「あっ」
「動くな」

 あの時と同じだ。かすれた声ではなかったが、動揺して震える声を出す。何に怯えているというのだ。バダップは一瞬だけ世界が止まったように思え、名前が足の裏を抑えて蹲ったところで膝を曲げて彼女を見る。名前がどうして蹲ったのか、その理由は解りきっていたことだったのでなにも言葉は発さなかった。名前は目の前にいる軍人に恐怖を抱いていたので、蹲ってから平気だと言って立ち上がることができずにその場で立ち止った。当然恐怖で手が震え、意識がバダップに集中するものだから治癒さえもできずに顔さえも上げられない。バダップも性格上安心させてあげられるような声はかけられないので、お互い何も言わずにその場に腰を下ろしていた。この状況を打破するのには時間が掛るだろう。
 治癒を始めない名前を不思議に思ったバダップは足の裏を押さえる名前の手をじっと見つめたが、名前はバダップの視線が自分の手の方にあることに気付いて尚更力を出すことができなくなったのであった。

「……今、消毒液とガーゼを持ってくる。それでいいか」

 納得できなかった名前は立ち上がったバダップを見上げて、眉の皺を深めた。

「大丈夫です、自分でできます」

 そう言って名前の足の裏の怪我は治癒された。本当に驚くばかりの能力である。バダップはその光景を見送ったあと、リビングにあるパソコンへと体を向けた。これ以上名前と生活することが一時的であるとはいえ、自分の苦手なタイプだったので何事もなく過ごせていけるのだろうかとバダップは不安になったが、一件のメールが届き、その内容を見て少しばかり心が落ち着いた。送り主はバウゼンからで、内容は名前を訓練所に連れて来い、という内容だった。四六時中名前と一緒にいるわけではないのだと、バダップは自然に力を入れていた肩をホッとおとしてパソコンの前から立ち去った。



 名前が持たされたのは小型ナイフのみ。それを空中に転がせながら遊んでいる名前の目の前に数々の訓練生が現れた。訓練生を一見した名前は軍服を多少着崩してナイフを構える。それを見下ろしているバダップの隣にはバウゼンが平然と立っていて、彼女は戦えないことはないと言うのである。それを聞いているバダップはただ無表情に名前のことを見下ろしていて、その中の感情の名は「心配」であった。
 そしてバダップの心配通りに事は進んでいき、次々と流れ込んでいる訓練生に名前は押し倒され首を掴まれたり、ナイフで腕に傷をつけられたり、はっきり言ってしまえば彼女は戦いに不向きだということだ。だが着実に線の場外へと飛ばしているわけで、戦えないというわけではなさそうだった。
 一人の訓練生が名前を背後から倒して、ナイフを突き立て首に怪我をさせる。そこで終了のサイレンが鳴った。戦うことができなければ戦場にいる資格はないと考えるバダップは「やはり」と思った。ボロボロになっている名前は自分の怪我を治癒する気力も残っていなかった。


「今日のはひどかったな」

 夕食の用意をしていたバダップは立ちぼうけしていた名前に言う。まだ傷を癒していない名前は視線を落として用意されていたサラダのお皿をふたつ机の上に置いた。

「わたしが死んでも、誰も悲しむ人はいませんから。わたしの存在なんて軍事にとったらほんの些細な駒の一つだと思います。その点だとバダップさんのほうがお偉いさんに重宝されると思いますし、バダップさんが死んだら軍事に大きく関わりますよ。この世界はそうやってなりたっているんです。小さい者は死んだって何も変わりはしないんです。」
「そんなことはない。君の体質は特異だ。人の怪我を治す力を持っている人間は見たことがない。君は傷を癒すことができる、大きな駒のひとつだ。俺なんかよりも重宝される」
「ならなんであんなことさせたがるか解りますか?わたしを戦場で戦わせるためなんですよ、バダップさん。」
「違う。君は軍医として戦場に出ることになるんだ」
「いいえ、わたしが軍人として戦場に出ることになるんです。軍医にあんなことさせること自体違反です。」
「君のあんな戦闘で戦えるわけがない」
「バウゼンは知ってます、わたしが手を抜いていることを解っています。だから『出来損ない』と言われるんです。わたしは軍人になりたくてなったわけではないのに、あんな、こと、」

 名前の腕や首にできたナイフの傷が痛々しくバダップの眼に入った。レトルトのシチューの湯気と香りがリビングを覆うなか、二人の間にはひとつの何かが生まれていた。バダップはシチューの入ったお皿を持ってリビングの机に移動し、シチューと親指と人差し指に挟んでいたスプーンを机に置いた。
 か弱い人間のくせに軍人になれるわけがない。そして心がこんなにも繊細なのに戦場に立てるはずがない。それなのに名前の瞳に映る炎はれっきとして戦う人間のものだった。バダップは奥の棚から消毒液とガーゼを持ってきて、名前をソファーに座らせたあと、小さくあった頬の傷に消毒液をかける。

「毒でも塗られていたら命に関わる」
「傷も、放っておけば痕になる。乱雑に切られたから確実に痕が残るだろう」
「戦いたくなければ戦わなくていい。」

 バダップがそっと頬の傷に触れると、名前は落としていた視線をバダップの両目に移動させた。そして名前は自分の頬に触れているバダップの手を握って、「あなたも…」とガラスの破片で切っていた傷を癒す。

「他人の傷なんかよりもまず自分の傷を治すのが先決だ」
「…話で聞いていた人と違う、あなたはもっと優しくて、良い人」

 そんなことを言われたことがないバダップはどう反応すればいいかわからず、赤目を泳がせた。なにもストレートに言わずともいいだろうに、とバダップは頬をほんの少しだけ赤く染めると、名前はその頬の赤みをみて目を細めて笑った。
 二人の距離が少しだけ近付いた瞬間だった。





 バダップは医療テントに向かう足を早くしていた。自分の傷よりもまず名前の事が心配だったからである。戦場であるからいくつかの心配事が重なった。一つは敵にやられていないか、二つめは人手が足りなく困ってはいないか、三つめは強姦されていないか、だった。戦場であるから男達の性欲は普段よりも数倍、理性を抑えることができなくなる。それで強姦に走る軍人はたくさんいるのだ。バダップもその光景を何度か見ている為に名前の身の安全を願った。
 名前のいる医療テントの前にやってきて、男性の怯える声がテントの隣の部屋に響き渡った。バダップはその声に敵だと思って反応し、銃を構えてドアを開けると、そこには医務服を脱がせられた女性と、ナイフを構える名前と、怪我をした軍人がいた。その軍人は他の隊に居たのを知っていたのでまず敵ではなかったことにホッと息を吐き、そしてまた目を鋭くさせて軍人を見下ろした。名前の持っているナイフには血ひとつ着いていない。きっと脅しで差し向けたのだろうとバダップは確認し、名前の後ろにいる軍医に状況が大体把握し、口を開いた。

「一体何があった」
「……なんでも、ありません。今包帯を巻こうとしたら、この方が台から落ちてしまった、それだけのことです。なにもありませんでした。」

「……そうか、無事でよかった。」

 心からの一言だったが、名前はそれを拾わずに軍人の腕を引っ張って台に乗せ、腕の血まみれの怪我に白い包帯を巻いていった。そこでバダップが見たのは名前の軍服が血まみに汚れていたことと、破けていることに気付いて、名前にその服の血はなんだと問いかけると包帯を巻いていた腕を止めて、「敵が基地内に入ってきたので、少し」と言ったあと、また包帯を巻く手を動かした。

「怪我は」
「敵はどうした」
「怪我をしていたら自分の生命も危ない、その包帯を巻く前に自分の傷を処理したほうがいい。」

 バダップは名前の腕を取る。名前の表情は苦虫でも潰したかのように歪んでいて、今にも涙が溢れだしてしまいそうだった。

「大丈夫なんです、本当に」

 その言葉にバダップの腕は下ろされ、「そうか」と一言告げ部屋を後にした。今日でこの戦場ともおさらば出来ることの嬉しさと名前が生きていたことと、名前の悲しげな表情にバダップは目を瞑った。

Please teach the meaning of the kiss.