Innocent world | ナノ


 女は知っていた。
 この世界がどれだけ秩序を大事にしてるということを。その秩序がどれだけの人々を苦しめているかなど、秩序は知らずに現在も人々を見下ろしているのだ。その秩序に背いた女は、特殊な人間だった。人とは違う特別ななにかを持っていて、それに気付いた秩序は女に手を差し伸べた。「その力で救える者がある」と。女は秩序が大嫌いだったが、「救える者がある」と聞いた瞬間に濁っていた目を光らせた。こんなわたしにも救える者があるのかと。
 女は生まれてから今まで、誰一人として隣に人間がいたことがなかったのだ。秩序はそれを知っていて、そして女が自分のことを嫌っていることにも気付いていた。それを逆手に取ったのだ。女は髪を揺らしながら星の輝く夜空を見上げ、屍の上を立ち、これから起こる事など予想もしないで、「救える者」を探している。



 バダップは銃を持って星がたくさん敷き詰められた夜空を見上げていた。昼間の撃ち合いに反吐が出るほど疲れがたまっていたのか、バダップは珍しくも溜め息をついて基地に戻ろうと視線を前方に戻す。すると、林がカサリと動いた。動物か、それとも敵か、どちらかだ。と、バダップは銃を構えて動く方へ近付くと、そこには自分と同じくらいの少女が髪をぼさぼさにしながら座っていたのだ。少女を一見するも、銃もナイフも携帯していない。それに対しバダップは不審に思い「おい」と少女に声を掛けた。自分の姿はもうすでに見つかっていることを頭の中で処理していた少女は諦めたように視線をバダップに向け、その眼は「いつでもわたしを殺してください」という眼であった。
 だが、バダップはその少女の姿を見てピクリとも微動だにもせず、また赤い目も、動かなかった。ハッとした少女は地に付けていた膝を浮かせた。それに気付いたバダップは持っていた銃を少女に向けて、かすれた声で「動くな」と言った。バダップもこんなにもかすれた声が出るとは思わず口を固く閉じた。
 お互い動かず、そしてまた息もかすれかすれだった。

「……怪我をしてるの…?」
「…ああ、これか…」

 バダップは腕の傷に視線を落とすと、少女は立ち上がり、その傷に手を添えた。バダップはその行動の意図が解らなかったし、もし少女が出来だとしたらこの一瞬に生まれた隙がどれだけ自分の生命を脅かすものだということを一瞬のうちに頭の中に流れ込んできたのだが、それを防止しようとしても体が動かなかった。バダップは人生最大の失態だと冷や汗が出そうになり、真っ白な頭をフル稼働し、腕の神経を集中させた。いざ振り払おうと拳を作ると、少女の腕は自分の腕から離れ、添えられた場所の傷を癒えていることに驚きで声も、振り払おうとした腕の力も失い、ただ自分にありあまる眼力だけが少女に向けられている。バダップは少女の能力が人間離れしていることにやっと気付いたのは、少女が自分に背を向けた瞬間からだった。

 人間とは色々な人種がいて、色々な力を持っている人々がいる。その中に自分が数えられている事を誇りに思っているバダップは、あの時の少女のことを思い出しながら軍事訓練に取り組んでいた。一体あの力はなんだったのか。あのような傷を癒す力は見た事がない。それに自分が敵ならば傷など癒さないだろうから、きっと敵ではなく味方なのだからいつか会えるかもしれない、と自分には似つかない思いに苦笑いを浮かべた。
 あんな格好で戦場にいるなんて、どうしたものだろうか。

「バダップ、こちらにおいで」

 顔を上げるとバウゼンが後ろに手を組んで、会議室に繋がる通路の出入り口に立っていた。バダップは周りを眼を動かして見渡したあと、バウゼンの元へ走り、一体なんのようなのかと問うた。バウゼンは、来たら直にわかるだろうと呼びだした理由を語らずバダップの一歩先を歩いていく。
 自分は今回の戦場で失態はしていない。だが褒められるほどのこともしていない。なぜ呼ばれる理由があるのだろうかと理由を探っていると、あっという間に会議室に着いていて、そしてこちらに顔を向けた、あの時の少女が目の前にいるではないか。バダップは眼を大きく開かせた。

「挨拶をしなさい、名前」

 名前と呼ばれた少女はバダップに向かい軽く会釈をし、「名前です」とか細い声で鳴いた。バダップは瞬きを二度し、「バダップ・スリード」と声を低くして言う。少女は視線を床に戻し、バウゼンの声を耳に入れる態勢をつくる。しかしバウゼンは名前の聞きいれる態勢が気に食わなかったのか、バダップよりも声を低くしいらついた声調で名前に言った。

「出来損ないが」

 バダップは悲しそうに眉を下げる名前の表情がどこかつっかかる。バウゼンを見るが、何も反論できないバダップは未だ口を閉じたままだった。

「この少女の能力は把握しています。傷を癒す能力、」
「なんだ、知っていたのか。なら話は早い。」


 この少女の面倒を見てはくれないか。と、バウゼンはバダップに言い放った。「え」思わず声を零したバダップに、名前はムッとした表情を床に見せ、後ろに組んでいた手を握る手を強くする。
 名前はバダップと常に行動を共にするということは、彼の寮、そして彼と戦場に足を踏み入れるということだ。さすがのバダップも驚いたようで、バウゼンにその理由を聞くも、バダップは内心わけは解っていた。これは自分の地位と能力に相応して彼女が側に置かれるのだと。それは名前も十分承知の上だった。自分がどのような能力を持っているか、それがいかにどういう風に活用されるのかも、自分が望んでいたことだから文句はいえない立場なのである。バウゼンは早速バダップに寮に案内をしろと命令し、訓練途中ではあったがつまらない訓練に飽き飽きしていたところなので、「了解」といつものように返事をして名前と寮に繋がる道へと案内した。
 名前の視線はバダップの足に向けられていて、向けられている視線に歯がゆさを感じながらも、バダップはただ口を閉じて名前の表情に気に食わなさを覚えた。

Please wait until thick shadows come.