世界の逸話集 | ナノ



「やれ三成、『螢』を飼ったと聞いたが」
「刑部」

 いつ帰って来ていた、と背後に浮く大谷の方へ振り向けば、大谷はヒヒッヒヒッ、と肩を揺らしながら渇いた笑い声を出し「今よ、イマ」と告げる。眉を寄せた三成は次に「螢がどうした」と体を大谷の方へ向けながら、本題に入った。
 大谷が三成、所謂城から離れて十七の夜が過ぎていたので、三成は不満気に大谷の返答を待つと同時にその姿を見つめる。そんな三成の姿に大谷はまた笑い出した。しかし大谷は質問には答えず、「螢」の姿を探す言動に三成の眉は更に一層皺を濃くさせた。螢に対してご執心であることは構わないが、自分の質問に答えないことに不満を持ったのである。

「…あいつは時たまに姿を消すことがある。螢に何の用だ。」
「いやはや、三成、主も大博打に出たものよなぁ」
「なんのことだ」
「『螢』のことよ。主も知らないわけではなかろう、あの『螢』だ。如何せん、我にも対処しきれぬ」
「だから、なんのことだと訊いている。」

 大谷は珍しく目を丸くして三成を見た。三成がこれほどまでに「螢」に信頼を置いているとは、大谷でさえ想像つかなかったことであった。傭兵と言えど、命令に背かないという保証はないうえに、「螢」は忍なのである。大谷は小さく溜め息を吐いて、目の前にいる猫背の三成に「なんでもない」と言って背を向けた。
 「螢」がどうしたか、と三成の頭の中に螢の文字が浮かび上がってくる。傭兵で、金も出した。二食も与えている。裏切る要素もないだろう。それに忠誠を誓ったのである。実力も申し分ない。大谷が不安になることはないだろう、と思ったのだ。
 刑部の姿の後ろ姿を見送り、螢の噂を思い返していた。しかし、三成の「螢」の情報はほんのごく一部のみしか理解していなかった。他人に興味を持たない三成の「螢」の情報など、「傭兵」のみであり、「忍」としての実力や実績など無知に近かったのだ。そして、「螢」に対し、あまり悪くは思っていないと自分でも理解していた。仕えてからの「螢」しか、知らなかったのだ。大谷の言葉に煮え切らない何かを感じながら三成は振り返り自室へ戻った。


 大谷吉継が帰還したと名前の耳にはきちんと入っていた。接触はしていないが、大谷は皆が恐れる業病を抱えているらしく誰も近づこうとはしないために、すぐに姿を確認することができた。卑屈に笑う大谷に、名前は扱いづらい武人だと溜め息を吐く。ああいうのは感情が見えないので扱いが難しいからだ。どうせ顔を合わせることになるだろうと、名前は侍女から茶を奪い、大谷の自室の前へと足を運んだ。

「大谷様」

 顔を向けた大谷を名前は見上げた。大谷は名前の姿を見て、いつもの笑い声を上げたのだ。

「『螢』」
「お初にお目にかかります。螢でございます。」
「どういう気かは知らぬが、茶はそこに置いて去った方が得策よ。よもや、主もまだ死にたくはないであろ」
「…といいますと?」
「『螢』、一体どのようにして三成へ寝返った?」
「何の事だか存じませんが、わたくしの主は石田三成様ただ一人にございます。」
「ヒヒッ、さすがは『螢』…。気は抜けぬ」

 大谷は名前に近づき、数秒見つめ合った。大谷は名前のほうから折れると踏んでいたのだが、大谷の思惑通りにいかない螢である。薄く息を吐いた大谷は手を離し、名前の肩に手を置いた。「主のこれからの奉仕、期待しているぞ」大谷は自分の手を掃うと思い肩に手を置いたのだが、名前はその手を掃おうとはせず、承諾の声を上げた。そっと手を離した大谷は、頭を下げる名前を見下ろし、口を固く結んだ。何故手を掃わない、と大谷は名前に問う。名前は何の事だかわからないように返事を返し、肩に置いた大谷の手を両手で包みこんだ。目を見開いた大谷は慌てて手を掃うと、「螢」は静かに口元を上げる。

「なにを驚きになられてますか。この包帯の下を恐れることなどありません。」
「……下がれ。貴様にくれてやる言葉などないわ。」
「御意でございます」

 名前は一歩下がり、一瞬で姿を消した。茶の湯気を見つめる大谷は、自分の強張っていた体に気付き、「ヒヒッ」と笑い、握られた手を見つめた。

「恐ろしい忍よ、『螢』」



 三成に瓦が一枚剥がれたから乗せてこいと命を受けたのは忍の名前である。身軽のために屋根に上る事など朝飯前だが、これが忍のやる仕事とは思えなかった。ましてや「螢」である名前に。お情けといったものは見えない。きっと自分を試しているのだろうと思い、名前は瓦一枚を持って屋根へと飛んだ。瓦が一枚剥がれているところを見つけ持っていた瓦をそっと置き、これで仕事が終わる。忍衣を着ていないためいつもよりは動きづらいのを感じ、小袖の裾を上げ、そのまま山の奥に見える陽を見つめた。下をちらりと見ると鍛錬をしている一兵卒が見える。その中に三成はいないことをわかっていながらも、名前は三成の姿を探した。今日も食べず寝ず、家康への恨みを呟きながら刀を振るうのだろう、と、かわいそうな三成を思う。豊臣秀吉が生きていれば、三成がああなることも、名前がここに仕えることもなかっただろう。
 遠方に、烏が見え、名前の方に飛んできた。名前は腕を出し、烏がそこに止まれるように上げ、烏は足で腕を掴んだ。その烏は名前のものだった。なかなか忠誠心もあり、懐いている。その烏の姿を見つけた一兵卒は、烏の姿を目で追い「螢」を見つける。

「あれ、『螢』じゃ…」
「なら三成様は本当に『螢』を雇ったんだな。」
「ならこの戦、西軍が勝つんじゃないか?」

 一兵卒の話に耳を傾け、自分の姿が公になっていることに気付いて一歩後ろに下がった。それに一兵卒は「『螢』が消えた!」と弾む声で騒ぎ立てた。「まあ、いいか」名前は腰を下ろし、懐に入れていた米粒を掌に乗せて烏の前に差しだした。思い切り突っつく事はないので名前もこうして用心なく手を差し出しているのである。名前の唯一の癒しがこの烏だった。

「美味しい?」

 烏が返事をしないことを十分承知の上での会話だった。米粒は朝餉のものを盗んできたものだ。三成の残したもので、量も少なくはない。

「きみはいいね。わたしもきみのような生き方を真似してるけど、やっぱりできないよ。この戦が終わったらしばらく旅でもしよう」

 烏を背を撫で、顔を名前に向けた烏に微笑むと、後ろで誰がが動く気配がした。烏も後ろの人物に顔を向けた。名前は袖口にある手裏剣を指で挟み、構えを取る。

「何をしている」
「っ、三成様…、えっと」

 なぜ着流しの三成がここにいるのか。名前は自分の報告が遅れたからだと瞬時に悟り腕を振り烏を退かせ、肩膝をつけ頭を下げた。その行為に表情一つ変えない三成は、隣の烏に目をやった。随分なついているものだと感心したのだ。烏のような鳥類がここまで人になつくとは、その人物がどういったものかを表している。

「抜けている部分がわからないと思って自ら梯子を上ってきてやったんだ、ありがたく思え。」
「申し訳ございません、三成様のお手を煩わせてしまって…。…わたしのことを心配して、と解釈してもよろしいのでしょうか。」
「勝手にしろ」
「ありがたき幸せ。瓦の件は済みました。報告が遅れてしまい申し訳ございません。」

 わざわざ梯子まで使ってくるとは正直名前にも予想し得なかったことだった。たった瓦一枚のことで、ここまでする三成が理解できなかった。凶王と謳われる三成がこんなことをするなんて名前にもわからなかったのだ。
 「烏か」名前の隣にいる烏を三成は指摘し、名前は烏に顔を向けて三成を見た。

「戦友にございます」
「その烏がか?」
「馬よりも早く情報をお伝えすることができます。」
「ならばいい。瓦の件は済んだのだろう?茶を入れろ。」
「はい」
「それと、刑部がお前を軍議に出すと言っていた。茶を入れた後着替えて私についてこい。」
「わたしが、軍議にですか?」
「刑部の命令だ。背くのか」
「いえ、滅相もございません。」

 忍が軍議に出ていいのかと耳を疑ったが、三成にそう言われてしまったら断るにも断れなかった。名前の主なのだ。わたしが情報を垂れ流してしまったら、西軍はどうなるかなど、三成や大谷は考えなかったのか、と名前は思わず立ち尽くし、そして信用されていることに気付いた。ここにきて日は浅いのも同然なのに、三成は自分のことを信頼している、と名前は三成を疑った。何故忍であるのに、ここまでのことをしてしまうのかと。
 梯子を下り終えた三成の隣に着地し、裾を戻す。「名前」ふいに上から振ってきた名前に顔を上げた。

「貴様、あのように笑えるのか。」
「え…?」
「烏の時だ。声も、いつものように強張っていなかった」
「…そうですか。そうだったかもしれませんね。」

「忍でなかったら、何時もあのように笑うのか?」

 三成は名前に視線をやった。名前は体が硬直し、三成と見つめ合う形になる。一兵卒の張り声に、名前は我に戻って目を逸らし、曖昧に返事をし、質問をし返した。

「三成様も、秀吉公が生きていれば、笑うのですか?」

 三成は目を大きく開き、拳を作る。「貴様に、何が解る」名前を置いて一人で去って行った三成の姿を女忍は見つめながら溜めていた息を吐き出した。
(やっぱりこういうの、苦手だな)
 上げていた裾を下げた名前は、頭を掻いた。