世界の逸話集 | ナノ



 忍の誰もがやるような仕事を名前にさせる気はなかった。「螢」と称される女忍である名前の手を借りずとも、人出は足りていたのだ。名前は三成から渡された召し物に着替え、三成の側で膝を折り座っていた。三成の零す言葉を拾い、茶を出すだけの仕事をして五日経ち、今日も一日が過ぎようとしていた。
 三成は必要以上に言葉を発したりはせず、時に聞こえる家臣らの足跡や噂話を耳に入れ、鼻で笑いながら家臣らを小馬鹿にする。それに名前は頷くだけであった。佐和山城がとても静かなのは、この城の主がこのような人間だからだろうと名前は依然雇われた武人を思い出し、比較した。だが、冷たさは持っていようとも、あの毛利元就と違うのは、やはり心があるからだろう。

「紅葉が綺麗だ」

 三成の言葉を拾い、そうでございますね、と答えたのは、やはり側に居た忍だった。


 家臣や侍女達は三成が「螢」を知らぬ間に雇い、側に置き、藤色の召し物を着させていると、このような噂でもちきりだった。大半の者達が徳川へ対抗するべく雇ったのだろうと考察する者もいれば、他愛のない話をしているところを見るとそれだけではないようだと考察する者もいた。戦を控えているわけでないので、この城に野暮用で出掛けている大谷吉継はいない。その間に「螢」を雇うのはどうかと、心配する者もいた。姫であれば三成様も大層喜んでいただろうと顎髭を擦る者もいた。そんな家臣、侍女の噂話を耳にしていない名前ではない。三成が自分を狙うとは怪しんではいないが、家臣らはどうだろうか、と用心は怠らなかった。
 名前は豊臣を討った徳川家康に三成は酷く恨んでいると聞いていた。三成は毎日一回は家康に向かって二度三度、必ず暴言を吐く。「死ね」、だの「首を斬る」だの、そんなものを聞かされるのは決まって名前である。三成は食事と睡眠を十分に取らなかったから、名前もそれに関しては必死で説得をしていた。腹を満たさなければ戦もなにもないし、睡眠を取らなければ疲れは一向に溜まっていくばかりだ。しかしそれさえも拒む三成の性格に、名前は初めての経験だったので冷や汗を流していた。豊臣秀吉が三成にとってどれだけの存在だったのかを窺わせる。
 白湯の湯気を立てながら、三成は満月を見上げていた。

「三成様、そろそろ、」
「いい。睡眠の時間さえ惜しい。」
「睡眠は大事でございます。疲れも取れないでしょう。わたしは部屋の外で待機しておりますので、どうぞ安心なさってください。」
「そういうことではない。睡眠の時間が惜しいと言っている。睡眠なんぞしている暇があるものか。」

 ごとり、と白湯の入った陶器を床に置いた。その割には月見をするのですか、と名前は三成に問うと、三成は名前を細い目で睨んだ後、満月を見つめ直した。こうもすぐに忍を信用するとは、わたしはとても都合の良い武人の元に就いたかもしれないと、名前は満月を見上げる三成を見ながら思う。三成はそんな名前の視線に気付いていながらも、そちらに目を向けることも声をかけることもなかった。白湯を一口、唇から離す。肩膝に腕を乗せ、鼻を鳴らした。それにどのような意図があるのかも、名前にも、三成本人にも理解しなえない事だった。

「宵には螢の光が映える。」
「…そう、ですね。こう月光がある宵はより一層蛍火が引き立つのでしょうね。」

 月光に照らされる三成の髪色に、名前は「三成様も、月光の下でよく映えておられますよ。」と言った。三成はハッとして名前を見た後、戯言など期待するな、と白湯を口に含む。名前はよく三成が戯言を零すことを知っていたので、思わず微笑めば、三成はそれに対し「馬鹿にするな」と口を出した。

 忍の心情など、三成には到底理解できない代物だった。しかし、名前には三成の純粋な心を肌で感じられたのだ。復讐の鬼と化した凶王でも、人の子だと。人を憎み、人を妬み、人を敬う。一度信頼した者を、信じ通す。人間誰にでもある習性だろう。それがどのように人に映るかの問題だ。
 三成は体を横にし目を瞑ろうとはしなかった。前に寝たのは確か、二日前の夜だったか。二日の間も睡眠を取らないなんて、名前にしてみたら羨ましいことである。三成の太刀筋、速さを見れば忍としてやっていけるのではないかと思ってはみたが、何よりすべてにおいて「感情的」に名前には映っていた。寝なくとも普段通りの生活を送れるだろうが、あれではいつか倒れてしまう。適度な睡眠と適度な食事さえ取らない三成に、名前は疑問を感じてならなかった。なぜあのように欲がないのだろう、と。きっと豊臣秀吉が生きていた時もそうだったろうが、今はきっと前よりも酷くなっているだろう。

「…貴様には感情がないように見える。私に対しても、家臣らにも、すべてにおいてそう見える。ただ光ることしかできない、螢だ。」

 白湯の入った陶器を持ち上げ、三成は名前の方に視線を送った。
 ――何を当たり前なことを聞く。名前は白湯の入った陶器を見つめ、目を伏せた。この世界は感情に溢れていて、わたしのように「感情」を捨てたものは忍か、この世界を本当に恨んでいる者くらいだろう。と、心の中で返す。

「しのび、ですから」
「『忍だから』という理由で貴様は何からか逃げようとしているのを、私の目には映る。だが、それは何なのかと深追いするつもりはない。私は何より陽気に笑う人種を好きにはなれない。」

 確かに、陽気にヘラヘラと笑う忍が武田にいるな。と膝に手を置いていた名前は昔の友人の事を思い出した。武田へ仕官していった、実力者である猿飛佐助のことだった。彼とは同じ里の出身で、一緒に忍術を修行していった同期といった間柄であり、また親交を深めていた。二人が揃えば、どこの戦でも勝てるとも言われたほどだ。しかし佐助が武田に仕官した後、名前は傭兵としての道を選んだ。名前は抜け忍なのだ。

「わたしは感情を捨てました。主の命に従う、カラクリです。」
「馬鹿を言うな。貴様は人間だ。」
「……三成様、わたしは忍です。」

 ふと、三成は名前を人として扱うことがあった。「忍」ではなく、一人の「女」として扱うことがあるように見えるのだ。
 「螢」と称される女忍を懐刀として構える三成は、どことなく優越感に浸っているようにも見えた。それほどまでに名前の実力は期待されている。隠密行動でも、暗殺でも、戦忍にでも、万能な忍なのだ。しかしその能力を未だ生かせないのは、三成が「螢」を側に置いているからだった。

「私も貴様のように、感情を捨てたならば、」

 そろそろ戦があるだろう。名前はそういえば、と耳にした噂を思い出した。武田が石田軍と同盟を組んだと。もしかしたら、友人に会えるかもしれないと考えたが、きっと抜け忍だと言って刃を向けてくるだろう。戦場で一度は同じ地を踏むことになる事は確実なことだった。
 三成の瞳の奥には、どこか遠くの方を見つめて語りかけるような色をしているように見え、そして心情が窺える。名前は三成の瞳の奥をしっかりと見つめた。

「こうつらいことも、忘れることはできるのだろうか。」

 白湯からはもう湯気は立っていない。名前は三成から視線を逸らし、「どうでしょう」とだけ答え、その後は何も言わなかった。名前は三成のほうへ少しだけ寄り、隣に膝を曲げて正座をした。月の周りには光っている無数の点を見つめる名前に、三成は、隣に座る小柄な少女を見下ろし、次に月を見上げ口を開いた。

「…本当に、よく映える。」