世界の逸話集 | ナノ



 屋根裏でひっそりと暗殺の機会を窺っているのは主を持たず風魔小太郎のように傭兵としている忍、名前だった。金さえ払えばどんな仕事でもする。それは暗殺でも情事でも、あらゆることであっても。忍刀を光らせ、畳みが敷いてある部屋で執務を行っている人物を三日三晩見張っているのだが、まるで睡眠を取ろうという行動を見せない。名前もこれにはまいったという風で、空腹に耐えられず握り飯を携帯していた。しかしその握り飯を最後に食べたのはいつだったか。文を書いては、刀の手入れをし、また文を書けば朝になり鍛錬をしに外へ出る。
 思わず溜め息が出る難関の暗殺であった。これまで様々な武人を見てきたが、このような模様は初めてだったのだ。今日も昨日と同じか、と少々諦めが入り忍刀をしまおうとすると、筆を置いた武人は布団へ向かった。やっとか、としまいかけた忍刀を握り、相手の様子を見張った。やっとこの暗殺から解放される、と安堵の溜め息を吐く。明かりも消え、武人は目を瞑った、ように見えたが、それは横になっている武人が名前へと声をかけた。

「三日三晩そうしている気か?」

 名前は溜め息が聞こえたのだろうかと手で口元を覆った。ここで出なくとも、いい。名前は汗ばんだ手の感触を気持ち悪いと思いながらもしっかりと握る。
 白い髪、白い肌のために武人の瞳は良く見える。武人は屋根裏にいる忍の返答を待つ。「おい」敵、自分を暗殺しようとしている相手にかける言葉でないのは確かだった。武人の手元に刀はない。忍刀や苦無、手裏剣、まきびしがあるこちらは有利、確実に殺せる。名前は相手の出方を用心深く見守った。しかし武人は一向に動こうとする気配はない。次に口を開いたら喉にこの忍刀を刺してやろうと、忍刀を口に銜え、板に手をかけた。

「それとも、私を殺すのが畏れ多いか?」

 一気に屋根裏から武人の上にへと移動し、喉に忍刀を突きつけた。が、しかし、名前の喉にも懐刀が突きつけられていた。睨み合う両者は沈黙を続け、その沈黙を破ったのは忍である名前だった。

「…さすが凶王三成と呼ばれた武人、一筋縄ではいかないようだ。」
「女忍か。暗殺に失敗したようだが、どうするつもりだ?私を殺すか?」
「………いや、もういい」

 名前は三成の上から退いて、忍刀を背にしまう。ここから三成の懐刀を向けられても受け止める自信を持っていたのでゆっくりと確認するように膝の埃を払った。それの動作を見た三成は上体を起こし、ゆっくりと立ち上がり、刀に手をかけた。

「貴様、『螢』か」
「…知っているようで。光栄です。」
「御託はいい。確か傭兵だと聞いたが、誰の差し金だ?言わなければ首を斬り落としてやろう。」

 「螢」とは、名前の通り名である。忍としてはもったいない風貌であり、戦場を明るく照らす「螢」のようだ、と誰かが言ったことからこの名で呼ばれることが多くなった。「螢」の噂は北から南へと全国に広まり、風魔小太郎と肩を並べるほどの知名度の高さなのだ。凶王三成も然り、「螢」の噂を耳にしていたのだ。
 「いや」名前は口を開くと、三成は上げていた腕をピクリと動かした。

「凶王を暗殺できなかった、となればもうこの件から足を洗うことにするよ。それにお前を暗殺せよと命を下したのは小さな小国の武人、ほっといても国は無くなる。お前が直接手を下してやる必要もないだろう」

 自由気ままに歩き、自由気ままに命を受ける。自由気ままに暗殺をすれば、自由気ままに町を歩く。名前はそんな忍だった。任務を遂行するのが難しいと思えば、すぐに命に背き、足を洗う。これも一つの賢いやり方だと名前は言うのだ。三成はそんな名前を頭の先から足の先までじっくりと見やり、上げていた腕を下ろす。「ならば、今は主がいないということか」名前は顔を上げて反応し、三成から目を逸らして頭を掻いた。いつまでも答えない名前に、三成は少し荒い声を出すと、名前は目を伏せながら三成を見上げた。

「話してやる義理もない。わたしは忍、傭兵だ。」

 傭兵、所謂、金で働く。暗殺をするならば、多額であるほうがいい。情事をするならば、多額であったほうがいい。潜入をするならば、多額のほうがいい。感情は殺した。忍になると決めた日から、感情はなくなっている。

「ならば」
「……?」

 三成はまた柄を見せるように腕を上げた。名前はその言動を理解できない様子で三成を見上げた。

「貴様を雇う、いや、貴様を買う。私の為に命を捧げ、私の為に忠誠を誓え。」
「なぜわたしがお前の」
「口答えをするな。今この瞬間から貴様は私の忍だ。金はいくらでもやろう。死んでも使いきれないほどなら文句はないだろう?今の命から足を洗うならば、新しい命をここで受けてもらう。」

 腕を下ろす三成に、名前は怪訝そうに手の甲の埃を掃う。埃まみれの鼠の糞まみれの屋根裏で三日三晩見張っていたのだから、体は異臭がするだろうし埃をかぶってしまうのは仕方がない。忍であるからそこは慣れというものだ。懐に入れていた握り飯を見ると、屋根裏では見えなかった青臭いものが生えていた。
 拒否権、口答えはできない。名前は傭兵。二度三度三成を表情を確認した名前は握り飯を懐に入れ直し、三成の前で肩膝を付け頭を垂れた。

「畏まりました、三成様。わたしがあなた様の腕となり、足となりましょう。存分にわたしを使ってください。」

 三成は口元を上げ、可笑しそうに笑う。その笑い声に名前は頭を上げることはなかった。三成が声を上げて笑う性格でないことを知らないので、おかしいともなんとも思わなかったのである。声が治まると、やけに上機嫌な三成の声が名前に降り注いだ。

「おもしろい。『螢』、お前はわたしを主とするか」
「は、わたくしは三成様を主とさせていただく所存であります。」
「一生か?」
「それが三成様の命ならば」



 螢火のようだ、と誰かが言った。戦場を暖かく、美しく、明るく照らしてくれる存在だと、誰かが忍に言った。それに「螢」は、そうだったら忍などやっていないと答えたが、その表情はどこか柔らかかった。