世界の逸話集 | ナノ



10

「うわっ、石田の奴容赦ねえぞ!ちょっとは手加減しろよなー…」
「ほんとだよ。ちょっと上手いくらいで調子のんなっての」

 ジャージを着崩した同級生が石田くんに暴言を吐いている。わたしは交代の合図があるまでコートの脇に座って友達とおしゃべりを楽しんでいると、パン!とステージ側から石田くんの竹刀の音が響いた。拍手を送っている者もいれば、ひそひそと肩を寄せ合って何かを話し合っている者もいる。隣にいた友達が、石田くんって剣道上手だよね、と当たり前のことをボソッと零した。当たり前だ、部活の壮行会で石田くんは皆の前で大々的に「インターハイ出場」とまで発表されたんだから。

「名前危ないっ!」
「えっ…!」

 ゴツン、と頭にボールがのしかかってきて、石田くんの振る竹刀のように軽い音は出なかったが、代わりに重い音が出た。「ごめん名前!」ボールを上げてしまった子が一目散に駆け寄って頭を撫で、ごめんごめんと慌てながら保健室に行こうと提案したが、そこまで大きな怪我ではないし、痛みはあるが傷はついていないわけでそれを断ると、隣にいたジャージ二人組は声を出して笑い始めた。笑うなと一喝しようと思ったが、わたしも石田くんを見ていてこうなったので、悪いのはわたしだ。大目に見て、こいつらを無視しておくことにする。「ほんと、ごめん、痛くない?」「大丈夫大丈夫、ほら、わたし石頭だからっ!」お返しとまではいかないが、わたしの石頭を披露しようと目の前の友達の額に頭を軽くぶつけた。いったあい!と甲高い声を出して涙目になるので、今度がわたしが謝る番になってしまった。

 石田くんは先日飼ったジャンガリアンにエリザベスと名付けたと、水の入った容器をセットしながら教えてくれた。ジョセリアンヌに続き、またメルヘンチックでエレガントな名前だということはあえて突っ込まないでおいて「可愛い名前だね」というと、石田くんは少しだけ嬉しそうに口元を緩めた。
 先日の件で、一気にわたし達の距離は縮まったような気がする。もちろん、恋愛的なものではなく、友達的としてだ。石田くんは、どう思っているかわからないけれど。
 今日はボクシングの試合があるから家康は学校を公欠していて、ボクシング部のマネージャーになってればよかったと後悔するのは度々ある。石田くんが咳をして、鼻を啜った。そういえば夏も終わって肌寒くなってきたのを思い出す。石田くんはYシャツだけでベストも何も着ていなかった。

「ベストとかないの?風邪?」
「いや、風邪じゃない。昨日少し外に出てただけだ。」
「でも鼻啜ってるよ?着たほうがいいって」

 石田くんは筋肉があるのかと疑ってしまうほど細い体なので、多分わたしのベストでも全然着れるだろう。家康で見慣れているからか、家康以外の男の子は全員細く見えるのだが、石田くんは特にそう見える。鞄からベストを取り出して、「着ていく?」と訊くと、石田くんは目を丸くして「はあ?」と大きな口を開けて言った。まあ、そうだろう。女の子が男の子にベストを貸すなんてこと、ありえないことだ。だけど細い体がかわいそうに見えてしまい、貸そうという思考が止まらなかったのである。男子に対しての侮辱行為かもしれないけれど、わたしはただ「友達」としてベストを差し出したまで。他に理由はない。
 ベストを見下ろしている石田くんは苦虫を潰したような顔をして、受け取りを拒んだ。予想はしていたけど、なんだか恥ずかしくなってカラカラの喉で笑って誤魔化す。今日はわたしがノートに記録する番だったから、石田くんの席に座って脇にかけてあるノートを取って机に広げた。

「おい」
「うん?」
「…頭、大丈夫だったか?」
「………そんなバカにしなくたって…」
「ちっ、違う!体育の時のだ!」
「え?あ、ああ!なんだ、吃驚した!わたし石頭だから怪我もなかったしすぐに痛み引いたんだ」
「そうか、ならよかった」

 石田くんは前の席の椅子を引いて、こっちの机に背を当てた。わたしの字を覗き込み、ベストに視線をやる。

「サイズは?」
「…あ、えっと、ちょっと大きめだからL。Mのほうがよかっ、」

 隣に置いたベストを持った石田くんはそのままベストに顔を埋めた。その行動にわたしは目をパチクリとして凝視してしまう。石田くんの行動が、とんと意味がわからないのだ。次第にシャーペンを持つ力もなくなってくる。

「好きだ。苗字が、好きだ。」

 ポトリ、ノートの上にペンが零れるように落ちる。ぞわりと背筋が震え、石田くんから目を離し鞄を抱える。「ベ、ベスト、返してっ」震える手でベストに手を伸ばすと、案外思ったよりもすぐにベストは奪い返せたが、同時に手首が石田くんの白く細い指に捕らえられた。

「ずっと前から、好きだった。この係に選ばれる前よりも、ずっと前からだ。本当だ、嘘は言っていない。私は、私は、ずっとお前だけを想って、」

 掴まれた腕を無理矢理解いて、席を立つ。怖い、とか、気持ち悪い、だとか、そういうものを思ったのではなくて、何かに揺らぐ自分を抑えようとして解いて、席を立った。帰らなきゃいけない、瞬時に脳は命令して教室を出ようと席を離れたが、すぐに石田くんに掴まってしまった。ドン、と窓はわたしの頭がぶつかったせいで鈍い音を出した。近くにある石田くんの顔に危険信号が出て、すぐに退いてもらおうと肩を押すがわたしの力じゃどうにもならなかった。わかりきっていたこと、なのだ。
 親指で頬を撫でられ、どことなく悲しそうにわたしの瞳を見つめる。少しでも動いたら唇と唇がぶつかってしまうだろう、この距離じゃ。逃げられないかもしれない。助けてほしいとは、思わなかった。石田くんを信頼しているからだと思う。石田くんはこんなことする人じゃない。そう、わたしは自分に言い聞かせて平常心を保とうと必死になる。

「私が、怖いか」

 石田くんが怖いんじゃない。わたし自身が怖いんだ。「違う」と言えば「ならなぜ逃げる」と眉の皺を濃くした。頬を撫でる指が止まった。そしてゆっくりと石田くんの薄い唇がわたしの唇に当たり、啄ばむようにキスをされ、最後に長く、唇同士を合わせた。誰かに見られることと、それで家康に知られることが怖い。でも、このキスで心が揺らいでいる自分が何より怖い。
 冷たい石田くんの手は肩に置かれ、すっと腕に移動して強く掴んだ。「それでもやはり、家康を選ぶのだろうな。」耳元で囁いた石田くんは首筋に額を乗せる。腕を掴んでいた手は離れて、ぎゅっと腕全体でわたしを抱き締めた。

「石田、くん」
「これからもずっと、好きでいさせてほしい。」



11

「ほんと、妖怪みたい」
「言うな名前。ワシも好きでこんな目になったん、イテテテ」
「妖怪がなんの用だ」
「言うな三成。というかもう突っ込まないでくれ」

 昨日の練習試合から帰ってきた家康は顔中ボッコボコになってしまった。頬にガーゼを貼って、瞼は膨れ上がっている。どこかの妖怪にいたような風貌でわたしを見つめないでほしい、とまでは言わないが、近づいてくる家康から逃げて、全速力でクラスを逃げ惑っていると、石田くんは溜め息を吐いたあと、部活に行く、と竹刀を持って出入り口に向かった。家康は石田くんの方に振り返って、「じゃあな三成!」と肩腕を上げた。石田くんは家康の行動で鼻で笑う。

「じゃあ、また明日ね、石田くん」

 わたしは手を振った。すると、石田くんは優しく口元を緩ませて竹刀を持った腕を上に揺らした。昨日のことは、家康には内緒。わたしと、石田くんの二人だけの秘密にしておこうと思う。揺らいだ心も、キスも、抱きしめ返したことも、全部秘密にしておく。