世界の逸話集 | ナノ



01

 滑車を必死に回す小さな動物を飼い始めて一ヶ月が経った。クラスの女の子が、ゴミ捨て場に捨てられていてかわいそうだと思って拾ってきた、という理由なのだが、拾ってきた当の本人はこの小さな動物の世話はしていない。急遽飼育係が作られ、じゃんけんで負けたわたしは嫌々ながらもこの小さな動物、ハムスターの飼育係に任命された。飼育係はわたしだけではなく、もう一人、クラスであまり存在感のない石田三成くんも一緒に任命された。
 担任がハムスター専用のケージと餌を買ってきて、一応責任を感じたわたしは初心者でも理解できそうなハンドブックを買って、石田くんはノートを一冊用意した。放課後、餌と水の取り換え、滑車の掃除、二週間に一度下に敷いている床材とケージを洗う。ハンドブックで覚えたことだ。ジャンガリアンハムスター。お世話をする時はドアを窓も閉め、厳重態勢で行う。毎日続けることはできるのだろうか。

「水を変えてくる。」
「んー」

 ガララ、と音を立てて水を取り変えに行った石田くんに適当に返事をしておいた。餌箱にひまわりの種や雑穀類、果物がミックスされている餌を入れて、ハムスターが外に出ないようにひっそりと中に入れる。滑車で存分に満足したのか、ハムスターは一度小屋の中に入って、また外に出て餌箱に体を入れる。
 ガララ、と音を立てて水を取り変えに行った石田くんが帰ってきた。ハムスターを熱心に見つめていたわたしは石田くんにお礼を言わず、ただハムスターの必死に餌を食べるのを見ていた。ガチャン!と大きな音を立てて水の容器を付けると、ハムスターはひまわりの種を口に含みながらびくん!と体全体を揺らした。

「だめだよ、もっと静かにやらないと」
「いつもやらないからわからん」
「じゃあいつも通り餌やってね」
「……わかった」

 石田くんはいつも餌をあげていたから、水の容器の入れ方を知らなかったんだ。
 石田くんは成績優秀、運動神経抜群の文武両道ということで他クラスの一部では目立ってはいるが、わたしのクラスでは存在感のない目立たない人だった。あまり喋らない人だからだと思う。バスケをさせればシュートを決めれるはずなのに、サッカーをすれば得点を入れてくれるはずなのに、石田くんはそれをしない。マラソンはわざと遅く走っているし、リレーも同じだ。ただ身長をごまかせないハードルと高跳び、そして剣道だけは人目を気にしないでしている。
 部活は行かなくていいのかと訊いたら、係で遅くなると言っている、といってわたしと一緒にハムスターを眺めた。小さな動物が必死で食べ物を腹に収める姿を見て、石田くんのほっそりとした体が心配になる。肌の色も白く、血が流れていないようだった。
 あまり会話をしたことがないから何を話せばいいのかもわからないので、口を固く閉じる。一ヶ月もこうして同じように放課後毎日残って係活動を行っていれば、会話をせずとも雰囲気が慣れてくるというものである。係活動といっても、このクラスだけのことなので小さな活動だった。だけど命を育む大切な係。拾ってきた張本人は、今日の帰りにクレープを食べて帰るそうだ。

「家康と付き合っているらしいな」
「結構前の話するね」
「そうなのか?」
「家康から聞いたの?」

 石田くんは口を閉じた後、この前部活帰り一緒に帰っていた時に家康がわたしの話題を切り出したらしく、その時に何気なく訊いてみたのだと白い肌色の頬を少しだけ赤く染めながら言った。


02

「ハムが大きくなったよー拾ってきた時はこんなに小さかったのにね!」

 偽善者、と人に対して使いたい言葉ではなかったが、今の彼女にはこの言葉がお似合いだ。ハムスターを拾ってきた彼女はわたしや石田くんのように毎日放課後に残って餌変えや水変えをしたこともなければ、床材を変えて水道でケージを洗ったこともない。それなのにあんなに笑顔でハムスターのことを何でも知っているような口を叩く。あのハムスターがどんな餌が好きなのかも、どれだけ餌を食べるのかも、彼女は全く知らない。鞄に電子辞書を入れる手を止めて、ハムスターのケージに群がる女子たちを見た。ハムスターケージの近くに座っている石田くんも、日誌を書く手を止めて、彼女達を見つめていた。


「気に食わない」

 石田くんはいつも通り餌変えを行い、ケージの周りに落ちた床材をちりとりに集めながら、ドスの効いた声でハムスターに向かって愚痴を吐く。気に食わない、とはさっきの彼女たちのことだろう。ハムスターの日記を書こう、と言い出した石田くんが用意したノートに、ハムスターの様子や、餌をやった時間、健康チェックなどを書いていく。隣に書かれた石田くんの字はとても綺麗で繊細な線だ。

「石田くん、あの子達のこと睨んでたでしょ」
「それは苗字もだろう。」
「睨んだ覚えはないけどなあ…睨んでたかな?」
「私にはそう見えた」

 机の上に置いてある竹刀を持ち鞄を肩にかけて、後は頼んだ、と石田くんは教室を出て行った。無意識に睨んでいたことも、石田くんがわたしのことを見ていたことも、どちらも気付かなかった。ノートを書きあげて、石田くんの席に座っていたわたしは立ちあがって机の脇にノートにつけた紐を取って掛ける。すると教室のドアの開く音がして、石田くんが帰ってきたのだと思い振り向きながらノートを机の脇に掛けておくからと言うと、クスクスと聞き慣れた笑い声が聞こえたので、しっかりとその人物を見ると、黄色いタオルを首にかけた家康が立っていた。

「これが噂のハムスターか」
「あっ、噂になってるんだ」
「いや、三成がよく話しているんだ。可愛いなあ」

 タオルで汗を拭きながらこちらに来た家康は滑車で毛づくろいしているハムスターに「おーい」と声をかけながらケージの隙間から指を入れて上下に動かすのだが、家康の太い指はケージの隙間に収まるわけがなかった。

「あんまりちょっかいかけないでね。デリケートな動物なんだから」
「まるで名前みたいだな」

 汗臭くはないか、と確認され、慣れてるし気にしないと返すと家康は笑いかけてきて頬を撫でたあと額と唇の上にキスを落とした。首の後ろに手が添えられ、同時に家康の舌が口内に侵入してくる。調子に乗った家康の耳を掴み思いっきり横に引っ張ると、「いてててて!」とサッと体を後ろに退くと、ガツン!とケージに思い切り当たる。「ああ!」「す、すまん!」慌ててケージを抱く家康は恐る恐るハムスターの安否を確かめた。ひっくり返ってもがいているハムスターは即座に部屋に入って行った。

「す、すまんジョセリアンヌ!」
「ジョセリ…アン…え?なにそれ」
「ん?このハムスターの名前ではないのか。三成がよく言ってるぞ?」