世界の逸話集 | ナノ



 手裏剣、飛苦無、苦無、兵糧丸、羅叉の尾、それらを整えた名前は屋根へと飛んだ。屋根にいた烏は名前に気付き肩に止まり、名前は懐から小さな紙切れを取り出し烏の嘴に挟ませ、「行け」と腕を振るうと烏は陽を目指して飛んでいく。
 二日後、とうとう徳川家康と石田三成の最後の戦の日。名前も忍衣に着替えて戦いに備えていた。敵の情報収集も完璧に行っているため、なんにも不備は起きていない。髪を結え、屋根から飛び降りるとガチャガチャと甲冑を揺らしている武士達が「螢」の姿を目にし、にわかに笑みを浮かべる。それを流した名前は縁側へと腰を下ろして烏にやりそこなった米粒の存在を思い出した。地に投げると、下から鼠がやってきて、それに集る。名前はふと背後にいる存在に気付き、後ろに振り向き、縁側から尻を離し、鼠を這う事もせずに地に肩膝を置き、肩膝を立てた。鼠はいなくなる。

「茶をいれろ」




「やれ三成」
「なんだ刑部」

 数分前。武士を眺める三成に、大谷は声をかけた。三成は荒ぶっているだろうと思っていた大谷は幾分落ち着いた声で三成を呼ぶ。しかし三成は荒ぶる様子もなく大谷の方へ顔を向けた。

「なに、主が落ち着かぬようだろうと声をかけたまでよ。」
「…不思議だろう、私も思う。心が澄んでいるようだ。」
「いや、怒気のある声で言っても説得には及ばぬと思うが」
「説得などしていない。家康の首を刎ねることできると思うと、なぜか心が落ち着く。」
「ヒヒッ、凶王三成は恐ろしい。」

 三成の声は低い。今日は更に低いのだ。大谷が笑いを止め、三成と同じように武士を眺めた。いつもより三成の甲冑はしっかりと着けられている。ふと屋根の上を見ると、そこに名前の姿があり、同時に烏が飛んでいく光景を見た。どこに行くのか予想はつかなかったが、恐らく関ヶ原の地だろうと三成は悟る。

「時に三成」
「しつこい、一体なんだ」
「裏切りには気をつけることが懸命よ」
「何を言う刑部、私は裏切りを最も憎む。」
「それよ、三成。主の忍、『螢』には用心するに越したことはなかろ」
「なに…?なぜだ刑部」
「『螢』…奴は忍であり傭兵。すぐに裏切る。一度雇われた主を裏切ることはなかれど、我は少し疑っている。」
「名前の主はこの私だ。裏切ることはない。それともなんだ、何かあるのか?」
「いいや、なんでもない。我も半信半疑…、気にする事は、」

 大谷は言葉を止めたが、続きを言う事は無かった。いつまでも次の言葉を発すことがない大谷に、三成は怒気のある声で「そうか」と言い名前の元へと歩いて行った。その光景に大谷は「してやられたわ」と呟き、目を伏せた。


 張りつめた空気を名前は嫌うことはない。馬に跨る武士、槍を持つ武士、木から木へと移動をする忍達。その中に名前も含まれていた。休憩を入れず、関ヶ原の地へと移動していく。畑を耕す農民や、木箱を担ぐ商人は、これから戦か、とそれらを眺めているだけだった。
 大体歩いたところで夜も近づき、陣を敷いた石田軍は寝る者もいれば、緊張で起きている者もいる。その中にはもちろん三成、大谷、名前がいた。松明の火の明かりが三成の顔を照らしている。月を見上げる名前に、大谷は腹は減っていないかと訊き、顔を上げた名前は首を左右に振り、また月を見上げた。「まこと、綺麗だ」と、武将は「螢」にそう言った。名前は声のあった方を振り向き、微笑みを浮かべ、武将から三成へと視線を向けた。

「水浴びをしてきてもよろしいでしょうか」
「血が着いたか?」
「いえ、体の臭みを取りたいのです。」
「ならかまわない。」

 名前が礼を言い、陣から出た。それを見計らってか、名前を綺麗だと称した武将が同じように陣を抜けていく。それを見た三成と大谷の二人は動こうとはしなかったのは名前の実力を十分に知っているからである。もし襲ったとしても気付いた時には命はないだろう、と。

 結えていた髪を下ろした名前は忍衣を脱ぎ、川に足を付けた。名前の乳房が揺れる。水を両手で掬い顔を洗うと、茂みから人間が飛び出してきた。先程の武将である。しかし名前に飛び掛ろうとはせず、ゆっくりと名前に近付いていった。

「いやしかし、まっこと綺麗な『螢』。一度抱かせてくれても構わないのではないか?」
「何を言う、お前のような下衆にわたしが抱かれると思うか?」
「いいのか?」
「耳触りだ。殺されたくないのなら、帰れ。今はお前の情報でさえも今は惜しいんだ。」
「いいではないか、『螢』」
「やめろ、…やめろ!」

 「螢」の名に過剰に反応した名前は男の首を捻った。ばしゃりと川の水が音をたて、その中に男が落ちる。息を切らした名前は、男を見下ろした。

「わたし、わたしはっ…、わたしは…、こんな、」






 石田軍は着々と関ヶ原へと足を運んで行った。この調子なら徳川軍に奇襲をかけることができるのではないかと、武士達の士気は上々だった。
 昨夜、武将が死んだが名前を責めるものはいなかった。名前はあの武将を徳川の忍と言ったのだ。それに三成も大谷も、責める言葉はなく、逆に褒め称え、特に三成に関しては上機嫌だった。しかしそれでこちらの情報が流れたかもしれないと、大谷は言ったのだが、三成は構わないと言う。どっちみち戦になるのだから、流されてもいいと。
 進んでいくと、前方から忍が飛んできて、「報告!徳川軍が関ヶ原に陣を敷きました!迎え討つつもりです!」と肩膝を立てて三成と大谷に言う。それに三成は鼻で笑い、それがどうした、と忍を避けて進んでいった。その光景に名前は、静かに目を瞑った。


 火薬のにおいがする。となると、雑賀衆がいるのではと三成は呟き、戦の準備に取りかかった。大谷は頷き、こちらも戦の準備に取り掛かる。この戦はこちらも同盟国がいるので、おそらく互角な戦いはできるだろうと踏んだのだ。関ヶ原に着いた石田軍は、陣を敷いた。あとわずかで、三成は戦場に出る。
 三成が大谷と一言二言会話をした後、三成は遠方を見つめている名前に近付き、冷たい眼を向けて口を開いた。

「貴様の活躍、期待している。」
「恐縮でございます」
「私の側から離れてくれるな」

 すぐに返事を返すだろう三成は耳を立てた。が、しかし、その返事を聞く事は余儀なくされた。予想もしなかった人物が前に出たのだ。名前はその人物を見て、「しまった」と声を上げ名前も顔を上げ門の前にいる人物に目を向けた。
 三成の視線には、小早川秀秋が、映っていた。小早川の発す言葉の数々に、三成は歯を食いしばり、刀身を鞘から抜き一気に居合を決めた。が、しかし、その刃は小早川に当たる事は、なかった。
 そして、三成に立ちはだかる人物に、小早川以外の者は目を丸くさせ、驚きの声も上がる。
 三成の斬撃を受け止めたのは、名前、その人であった。

「なにを、している?」

 開かれた目は細められることはまずなかった。名前は容赦なく、三成の力の抜けた刀身を弾き、胸に蹴りを入れると、すぐに三成は地面へ叩きつけられた。受け身を取らなかった三成の体は地面に叩きつけられるほか、刀も地面へと弾き飛んだ。名前の後ろで怯えていた小早川は「ひい」と叫び、名前の背中にくっつく。

「秀秋殿、さ、早く。」
「なっ、なんてことを…!名前ちゃんも一緒に行こうよ!」
「そんな命は受けておりません。わたしが徳川の忍を殺してしまいました。それの分まで働かなければなりませんから、秀秋殿はその隙に逃げてください。わたしも危険と判断したら、逃げますので。」

 名前は小早川に早く逃げろと急かすと、小早川は小太りの体を一生懸命に動かし逃げて行った。名前が視線をもとの場所に戻し、ゆっくりと立ち上がった三成の表情は、鬼そのものであった。家康に向ける、鬼の面をつけているようだった。それを見た名前は何も動じず、じっと三成の目を見る。大谷も、この時ばかりは名前に初めてといえるような恐ろしい顔を向けていた。
 「螢」の、裏切りだ。そう、その場にいた誰もが思っていたが、実際そうではなかった。名前は元々、石田に雇われる前に徳川に雇われていたのだ。「石田三成を暗殺せよ」と命を出したのも、家康本人であった。

「…いざ、忍参る。」

 無理はしないように、と家康は名前の体を気遣い、怪我をするようならすぐにでもこちらの陣に向かえと命令していた。三成の、目にも止まらぬ居合をすべて受け流しているのは忍である名前だ。忍刀は三成が持っているような長刀ではないが小回りのきく、両手に持てるのが特徴であり、その特徴を生かす戦い方を繰り広げている。三成の攻撃と一緒に大谷の攻撃も受け流す名前に、誰もが止められぬと悟る。大谷の数珠の一部が名前へ飛ぶが、それを足でうまく受け止め、そのまま地へ落とした。
 その瞬間生まれた隙に、名前の腕に三成の刀が入った。うまく受け流したが、当然のこと血は流れる。しかし名前はその傷を手で覆う事も、顔を歪める事もしないで攻撃を弾いていく。三成は体をわなわなと震わせ刀を名前に向け、大口を開いた。

「何故だ、何故だ名前、何故貴様が私の前に立ち塞がる!」
「わたしのあるじは家康様、ただ一人。凶王、あなたではない。」
「ならば今までのは、なんだった!」
「簡単なこと。わたしは忍、しのぶもの。心も、感情も、表情も、すべて」
「赦しを乞うても、私は貴様を赦さない、赦さない!その腸抉り取ってやる!」

 一瞬だけ、名前の動きが止まった。その隙をついた三成は名前を押し倒し、跨り、首に刀先を当てる。腕を上げた、その時だった。向こうの方で銃の音が響いたと同時に、名前は三成の下から一瞬にして抜け出し、名前は門のてっぺんに移動して瓦に肩膝を当てて三成らを見下ろし「陣で、お待ちしております。」と言って、名前は消えていった。がしゃん、と三成は刀を地面に打ち付けた。息も上がり、肩が上下に動いている。その三成のそばに大谷は寄っていき、小さく耳打ちをする。

「三成、『螢』を殺せ。」

 大谷の一言に、三成は唇を噛んだ。

「…このような馬鹿な話があるものか」
「これは真実よ。『螢』は徳川の忍だったのであろ。やられた。」
「家康は『螢』までも、私から奪おうというのかッ」


 一方、名前は家康の元へと到着し、肩膝を地面に当て、頭を下げる。

「螢、ただいま戻りました。」
「ありがとう、名前。お前の情報がなければワシらは奇襲に備えることはできなかった。礼を言うぞ」
「…ありがたき、幸せでございます。」
「しばし休んでいてくれ。後は、ワシらの仕事だ。」

 陣の脇に、名前は尻をついて座った。
 心臓が激しく鼓動していて、この初めてのことに感情はついていけなかった。

(苦しい…。)

 名前は頭を垂らし、組んでいた腕の中へ表情を隠した。弱音はダメだ、と自分の心に言い聞かせ、目を固く閉じる。途中、家康が名前に羽織が掛けたのだが、それに対して礼をいう事はなかった。名前は身を横にしたかったが、ここは戦場であるからそれをすることはなく、乱れた息をずっと整えていた。くる、凶王が、三成様が、と、名前は胸の痛みに耐え続けた。
 拳を作り、目を固く瞑り、口を固く結んで、しばらくしてからだった、三成が陣に姿を見せたのは。三成の気配に、名前はゆっくりと立ち上がる。羽織が落ちてもそれを披露ことはなく、ただまっすぐ三成を見つめた。

「『螢』、貴様は後で始末してやろう。家康を殺す間、祈っておくといい。そして絶望しろ。泣き喚け。…赦しを、乞え。」

 家康は名前に手を出すなと名前に言い、名前の側で二人の闘いは始まった。
 両者とも一歩を譲らぬ攻撃が繰り広げられる。だが名前の目にはハッキリと映っていた。石田三成の死が、名前には見えていたのだ。傷を作っている三成と傷のない家康を前に、誰が三成の最期を予期できないだろうか。名前は思わず、三成ばかりを見て、胸の苦しさが、どんどんと強まっていくのを感じた。

「三成様!」

 思わず名前の口から三成の名前が出た。その声に三成は強く柄を握り、家康に飛び掛かる。しかし、その刃が家康に届くことはなかった。三成の腹に打撃を加えた家康は一歩下がり、三成はその場で蹲った。腹に傷があったのだ。ポタリと地面に血が落ちる。苦しむ声を発す三成に、名前は駆け寄ろうと足を出したが、主である家康のことを思い出す。名前の主は、家康なのだ。自分を拾った人、平和を作ろうとしている人を、誰が裏切ることができるだろうか。

 家康との出会いは木々が生い茂る森だった。山賊に襲われそうになる家康を名前は助け、その時から親交を深めることになった。戦のある時に、家康は名前を雇い戦忍としての務めを果たさせた。家康が幼い頃からの付き合いだったので、何度か共に戦場を駆けた経験がある。その時に、名前は「螢」と呼ばれるようになったのだ。家康は自分よりも一つ二つ幼いのに立派な武芸をこなす名前に、手を叩いて褒め称えた。夜に笑う名前の表情を見て、家康は微笑んだ。笑いかけてくる名前に、家康は恋い焦がれた。しかし、名前は忍であるから、家康はこれ以上の関係を持とうとはしなかった。それが互いの為にもなるだろう、と家康は名前を忍として扱い、忍としての命を出すことを心に決めつけ、これが、あるべき姿だと自分に言い聞かせた。
 名前は家康の想いには気付いていなかった。忍としての失態である。



「死ね、死ね家康っ!」

 ぼろぼろになった三成は最後の力を振り絞り、家康のほうへ振りかぶった。しかし、家康はそれを避け、腹に一撃を決める。互いに体力も限界であったが、三成は刀傷などに倍の体力が奪われていた。だが、そんな素振りを見せないのは、家康を殺すことに自分の限界さえも忘れていたのである。この状況でそれでも強い眼差しをやめない三成に、家康は、心臓へと最後の打撃を与えた。衝撃に地に片手をついた三成は震える腕で、刀身を家康に突き出した。しかしそれは難なく避けられる。
 終わった。終わるのだ。
 家康は両膝を落とし、三成を見る。三成も、名前も、家康の涙に驚いた。そして、三成は怒りを蓄積させ、爆発させた。三成は家康に罵声を浴びさせ、そして倒れる。罵声に対しなにも言い返さない、この二人のこの光景を見つめる名前は、ただ茫然と立ち尽くすだけであった。死に気付いていないのは三成のみ。家康と名前には、この後どうなるか、わかっていた。家康が三成の名を零したあと、名前の方に振り向いた。

「名前、」

 家康は立ち上がり、陣から出て行った。仰向けになった三成はまだ微かに息をしているが、虫の息そのものだった。
 名前は三成に駆け寄り、頬に手を当てる。しばらくの沈黙だった。三成を見下ろす名前の目から涙が流れ落ちる。生まれて初めての、人としての涙だった。

「…体が重い、肩を貸せ。」
「はい」
「瞼が重い」
「はい」
「……家康のことは、もういい。これから私の忍として働くなら、私の側にいるのなら、もうどうだっていい。赦してやろう。」
「はい」
「泣くな名前。泣く事は、赦さん。」

 名前は三成の胸に顔を埋め、わんわんと涙を流し、嗚咽を出しながら泣いた。顔に血が着くのも、躊躇わずに胸に蹲ったままだ。三成は遠くの空を眺め、黒く、遠くなっていく視界に名前を映した。忍が涙を流すまで感情を露わにするなど、していいものではない。けれど今は、勘弁してくれと、名前は思った。三成が死なぬようにと名前は思ったのだ。
 名前は顔を上げる。

「わたくし、が、ずっと三成様のお側におりますから、どうか、どうか死なないで…」
「縁起でも、ない、ことを、言うな」

 名前は三成の頬に飛び散っている血を拭った先に、刀傷があったのだ。苦しそうに眉の皺を寄せる三成に、名前は張り裂けるような胸の痛みに襲われた。
 空は晴天で、陽の光が陣を照らしている。夜ならば、もしかしたら、変わったかもしれなかった。螢火は夜によく映えるのだ。名前が裏切らなければ、西軍は勝利していたかもしれない。けれども裏切る以前に、名前は東軍側にいたのである。そして裏切りを許すまじとしている三成が名前に向ける一言は、今までの発言を覆すものだった。

「帰りましょう、三成様。わたくしが、ずうっと、お側におります、ですから、もう帰りましょう、三成様。三成様。」

 名前の最後の、願いだった。



「……陽があるのに、なぜだか、螢火が映えている。夜になったのか?おい、螢、名前、もっとこっちに顔を見せろ。」

 冷えている体の芯から暖まるように三成は感じ、名前に近くに来いと命を出した。名前が三成の手を握る。離すまいと、名前の指と三成の指はしっかりと絡みあった。三成は秀吉の名を呟き、そして最後に、名前の名を口にした。そして三成の瞼は、これから開くことはなく、永久に閉ざされた。名前は三成の胸に、もう一度頭を落とした。力のなくなった三成の指を、しっかりと持って。





 ジョセリアンヌは最近、頬に雑穀を入れて巣箱に持ち込んでいく。寒い季節がやってきたからだろう。ジョセリアンヌの本能にわたしも石田くんも釘付けだった。石田くんのエリザベスも同じように巣箱に餌を運んでいるらしいけれど、エリザベスとジョセリアンヌは同じジャンガリアンなのに何となく違う種類に見えるらしい。石田くんは自覚していないようだが、彼は自分のジャンガリアンが大好きなのだ、同じジャンガリアンの種類のハムスターを見ても違うと言えるほどに。

「ねえねえ生物のレポート何調べた?」
「…蛍」
「え?ハムスターじゃないの?」
「みっ皆に見せられるか、小動物のレポートなんてッ」

 ハムスターのレポートを書くのは抵抗がいるらしい。わたしはもちろんハムスターの生態レポートを出すつもりだ。このクラスでも、このジョセリアンヌを拾ってきた奴も同じようにハムスターのレポートを書くらしいが、彼女に負ける気は微塵もない。

「蛍かぁ…なんで蛍なの?」
「特に理由はない。頭に浮かんできたのがそれだった。」
「ふーん。」

 ジョセリアンヌが滑車を回す。カラカラカラカラと薄暗い教室に滑車の回る音が響いている。石田くんはノートを書くながらわたしの方を見て、レポートの進み具合はどうなんだと訊いてきた。提出は一週間後なのであまり焦っていないからまだ2ページしか進めていないことを答えると、石田くんは鼻で笑い「だからいつもギリギリになって焦るんだ」と家康に言うようにわたしに言った。これも少し距離が縮まっていっている証拠なんだろう。

「蛍って綺麗だよね。お母さんの実家に帰った時一回だけ見た事あるけど、すっごい綺麗で一時間はずっと蛍観賞してたよ」

 石田くんの隣の席の椅子を引いてノートの内容を覗き込む。餌を上げた時間に、ジョセリアンヌの様子、それから滑車を回した回数も書かれていた。授業中数えていたんだろう、いつも寝ない真面目な石田くんだからそういうことはしないと思ったことを伝えると、授業が暇で数えたんだと言った。

「石田くん蛍見た事ある?」
「ああ、…よく映える螢を見た事がある。光は消えかかっていたが、今まで見てきた生き物の中で一番強いと感じた。螢は、暖かいな。」

 普段の石田くんから発せられるような言葉ではなかったが、石田くんが優しそうに微笑んでいるので、そんな言葉がどうでもよくなっていってノートに視線を向けた。

「あ、なんか暗い。っていうかもうこんな時間」
「…駅まで送る。家康は今日休みだろう?」
「でも悪いよ、」
「構わん。早く支度しろ。」
「うーん……じゃあ、よろしく」

 ノートを閉じて机の脇にノートの端につけた紐を金具に掛ける一連の動作を見守った後、自分の机に戻って鞄を肩に掛けた。今日は石田くんの部活はないようだったから、最終下校時刻までジョセリアンヌの世話をしてしまったのだ。石田くんはベストの上に制服を羽織っている。「早くしろ」「ごめんごめん」石田くんが教室の電気を消して意地悪をしてくる。急いで教室を出ると、石田くんは少しだけ笑ってわたしの隣に立ち歩き出した。