世界の逸話集 | ナノ



 小袖を着る名前の姿に、家臣らは目を丸くさせた。三成の後ろへ付いている「螢」の姿を家臣らは見た事がないからだ。侍女らの特定の者だけが「螢」の姿を見たことはあったが、滅多に人前には姿を現すことは少ない。たちまち城中に「螢」の噂が広まっていった。
「螢が見られるぞ。」家臣らは一目でも「螢」の姿を見ようと必死であった。数々の噂が流れているが、特に家臣らが知りたがったのが「螢」の容姿である。残忍な性格と噂される一方、姫のように美しいというのも「螢」の噂を代表するものだった。そして「螢」の匂いは、人の心を掻き乱す、だとか。

「かの凶王も、『螢』にはお熱らしい。」

 それを耳に入れた三成は横目で家臣を見つめ流しながら、軍議に使う部屋へと向かっていた。その家臣の言葉は名前の耳にももちろん入っている。しかし、どうでもよいことだった。


 突然、名前の足が止まる。遅れて気付いた三成は振り返り、疑問に思い声をかけた。

「どうした名前。立ち止るな。私に手間を取らせるつもりか」

 もう一度、三成は名前の名を呼ぼうと口を開こうとした瞬間、名前の手には飛苦無が握られており、三成の頭部にへと投げられた。これには三成も、そばで見ていた家臣らも驚きに声が出なかった。「暗殺じゃ!」という一人の声に、三成は瞬く間に刀を抜き名前の方へと駆けた。が、目の前に名前の姿はなく、名前は三成の背へと移動し、障子を蹴飛ばし、曲者へと飛びかかった。

「何者だ」

 名前の苦無が押し倒されている忍の首にへと当てられた。名前の言葉に、忍は眉を歪め、忍刀を抜こうと腕を上げたが、その手は空中で止まった。忍の手首に羅叉の尾が突き刺さっていたのだ。名前は忍の口元の布を外し、口の動きを確認できるようにしたのだが、忍は一向に口を開けて喋り始めようとはしない。
 三成は名前に組み敷かれている忍を見下ろし、顔を背けた。三成の視線の先には大谷がおり、大谷は蹴飛ばされた障子の上にある光景に目を細くした。

「何事かときてみれば、このような」
「刑部。こいつは私の配下か?」
「ヒヒッ、我はこのような恐い女忍を見た事がない」
「違う。螢ではない。組み敷かれている方だ。」
「はて、どうだったか。なれどこのような家紋は、ここの者ではなかろ」

 刑部は名前に組み敷かれている忍の布を剥ぎ、三成の目の前に突き出した。それに三成は大きく目を開き、たちまち表情は鬼へと化していた。

「殺せ、そいつを殺せ!」
「今ここで殺さずとも、半刻もしないうちに毒死しますが」
「いいや殺せ、今すぐにだ!」

 忍の手首に突き立った羅叉の尾を抜き取り、苦無を持ち直した。黒光りしている苦無を見た忍は、恐怖を纏った眼で名前を映す。

「ま、まて、待ってくれ、待ってくれ『螢』!」
「忍のくせに命乞いか?無様だな。三成様のお命を狙った罪、わたしが成敗してくれる。」
「なに、なにを、『螢』!」

 忍から次に発せられる言葉はなかった。名前は戸惑いもせずに忍衣を剥ぎ、忍具と巻物を抜き取った。そこに記された家紋に、三成は二度も表情を変えた。ゆっくりと忍の上から退いた名前は乱れた小袖を整え、忍の髪の毛を掴み縁側へと投げる。「おお」「ひい」など声を上げた家臣らはその忍の姿を見て一歩二歩後ろへと下がった。死体を幾ら見慣れているとはいえ、死体がこちらに飛んでくるのには慣れていないのだろう。

「家康…!」

 三成の握る刀の柄から音ができる。名前は小袖に飛び散った血に気付き、乱れた部分を整えるように手で覆い隠した。三成や家臣らが忍の亡骸を見ているためこちらに目を向けることはないだろうと判断した名前は抜き取った巻物を広げた。そこにはまだ文字がない。念のために中身を拝見したが、そこに文字が記されることはなかった。
 三成の鞘が地面に叩きつけられる。その音に家臣らは肩を上げて驚いた。

「『螢』」

 大谷が名前を見る。

「こたびの活躍、礼を言おう。」
「ありがたき幸せ。恐らく屋敷内に侵入したのはつい先程のことでしょう。近々、徳川家康と戦を控えているのですか?」
「そう、そうよ『螢』。主の洞察力のおかげで喋る手間が省ける。」

 三成が縁側を上った。家臣らに忍の始末を命令した。忍にたかる数人の家臣らは三成、大谷を見た後、名前の横顔を見た。恐ろしい忍であるが、動きに無駄がなく、そして可憐だったと、皆が思った。愛らしい睫毛を数回動かし三成を見た名前の顔を、家臣らはまた更に愛らしいと思った。若い娘を見るのは、家臣らは久方振りなのだ。

 軍議に居座るのは数人の家臣と三成、大谷、そして名前の六人のみ。数日後、関ヶ原で徳川軍と戦を控えているのだ。お互いの忍の情報なので、確かな情報である。軍議、というよりも、ただの作戦の確認といったものだった。忍の者が軍議に出ていいのか、と不快に思う家臣だったが、三成が絶対的な信頼を寄せているということを思い出し、目を伏せるしかなかった。それに大谷直々の指名なのだ。誰も反論する者はいない。

「家康、この私が必ず首を落としてやる。貴様の絆を、奪ってやる。」

 先程の忍のこともあって、三成は頬を赤く染めて怒りを露わにしていた。大谷はそんな三成の表情を見て、いつものように笑うのだ。
 軍議が終わり、名前は血の付いた小袖を脱いで新しい赤の小袖を身に纏った。血の付いた小袖を掴み、井戸から水を汲み、桶に水と小袖を入れた。親指で血を拭う指先は優しいものだった。自分を見て頬を赤くさせる家臣らの姿を思い出し、名前は思わず口元を上げて笑った。やはり、下衆だ。と呟く。しかし名前も男に抱かれることは嫌いではなかったので悪い気はしなかった。
 水が薄い赤に染まる。しかし渇いた血を完全に落とすことはできない。名前はどうするものかと考えたあと、また水に手を入れて血を拭い始めた。

「何をしている」

 振り返った名前は、細い体の三成に驚いた。まさか自分が気付かないとは考えもしなかったのである。水から手を出し、「先程の血を拭っているのであります」と答えると、三成は「そんなもの女中にさせておけ」と冷たい眼差しを送った。

「こんなこと、女中にはさせることができません」
「貴様の指が荒れるぞ」
「何をおっしゃいます三成様。まったく、ご冗談を」
「冗談?どこにそんなものが含まれていた。」

 三成は縁側に歩いていた女中を呼びつけ、小袖の血を綺麗に落とせと命令を出した。女中は頭を下げて、名前の手を包み、水に手を入れた。

「いえ、あの、わたしが」
「いいえ、『螢』様はお休みになられてください。先の揉め事でお疲れになられたことでしょう。丁度三成様と『螢』様にと菓子を用意させましたので、お食べになってください。」

 三成と名前がふと縁側を見ると、女中が菓子と茶を持って立っている姿を目にした。名前は渋々礼を言って、立っている女中に近付き、またお礼を言う。それに女中は戸惑いを見せ、そして手が震えていた。それに気付かない名前ではなく、菓子を受け取ろうと手を伸ばしたが、途中でその手を止めた。三成の言葉を待とうと思い、手を下ろし、三成を見た。三成は名前を一度視線にやったあと、「そこに置け」と命令し、女中は三成と名前の真ん中に菓子と茶を置いた。「下がれ」
 三成は縁側に腰を下ろし、名前も座るように催促した。菓子と茶を挟んで、三成と名前は縁側に座っている。運ばれた菓子と茶に手をつける様子がまったくない二人は相手の出方を疑った。が、やはり互いに動きは見られない。名前は三成が食べ物をそんなに口にしないことを知っていたので、まずい、と三成を横目で見る。いつも自分が菓子処理をさせられていたのだ。しかし今回は菓子が二人分ある。どうしようか、と考えていると、三成から会話を切り出してきた。

「家康との戦、貴様は私の側にいろ。そして、私が家康の首を落とすところを見ていろ。」

 三成が茶を取った。

「…はい、わたくしは三成様のお側に…。」
「この戦が終わったら、忍を辞めてもらう。」

 そうだろう、と名前はわかっていた。この為に自分を雇ったのだと気付いていたからだ。ずっとここに居座る義理もないし、予定もない。終わったら離れるつもりでいた。

「十分承知しております。」
「そして、私の妻になれ」

 一瞬手の自由が利かなくなり、名前は慌てた。「忍をやめてもらう」とは、そっちの方だったのかと、名前は膝の上に乗せていた手を握り締めた。
 まさか、このような事になるとは。名前が「妻になれ」などを言われたことはこれが初めてではなかったが、三成に言われるとは思いもしなかったのだ。肌を合わせたこともない。それに愛を表現する言動は今の今までなかった。ただ気に入っているから、だけではない。忍をやめて妻になれ、とは、つまりそういう風に捉えていいのだろうかと、名前は悩む。

「口答えは赦さん。」

 そういって三成は立ち上がり、自室へと戻って行った。名前はそこに呆然と座りこみ、いつまでも同じ方向を見ていた。




 月が綺麗に昇る夜、三成は紙に文字を記していた。側には刀が置いてある。名前には湯浴びをしてこいと言ってあるため、今ここにはいないのだ。書き記した文字を眺め、三成は筆を置いて刀を持ち上げ鞘から抜いた。家康、と呟くと、憎悪が奥の底から込み上げてくるのを感じ、柄を握る手を強くする。「赦さない、私は、決してお前を赦さない。」柄で机を叩こうと腕を上げると、障子の奥から名を呼ばれた。名前の声だった。三成は腕を下ろし、部屋に入るように言うと、障子を開けた名前は三成を見て咄嗟に手首に飛び付いた。

「なにをなされます三成様、どうか、お命だけは大切に…!家康公との戦もございましょう!」
「何を言っている…?…まさか自害だと思ったのか?」
「…え?……違う…?あ、もっ、申し訳ありません、わたしったら早とちりを…!」
「…構わん。浴びてきたか?髪がしなっていないが」
「はい、月を見ながら夜風に当たってきましたので…」
「そうか。寒かったか」
「いいえ。」
「なら、いい」

 三成が刀身を鞘にしまうと、なにかがぶつかったのか体がぶれた。脇の物体を見下ろすと、そこには名前の乾いた髪がある頭があった。三成の動きが止まる。名前は小さく三成の名を口にした。

「三成様、わたしを、名前を抱いてください。一夜…一夜だけで構いません。どうか抱いてくださいませ、三成様。」

 その言葉に三成は名前の頭を撫で、頭てっぺんに唇を寄せ、匂いをかいだ。女の匂いだ、と三成は名前の首筋を撫で、そして撫でた箇所に唇を寄せた。「三成様…」三成からは声さえも発せられておらず、部屋には名前の三成を呼ぶ声だけが響く。だが、三成は奥底にある憎悪ではない、暖かいものを感じていた。これが、と三成は目を瞑り、名前に唇を寄せる。
 これが偽りでもいい、と三成は思った。名前が今「螢」でもいいと、三成は思った。「愛おしい」と、三成は思ったのである。三成は名前の手を握り、離すものかと指を絡めた。