その男は、いつも同じ時間にここにやってきた。
 ただの「掃除のおばさん」として(年齢的にはとても不本意だが)古本屋で埃をはたく私みたいな人間にも、彼は朗らかな笑みを浮かべて挨拶するような、いまどき珍しい気持ちの良い青年だった。時代が時代だから、最近は暗い顔をして道を歩く人が多い。最近、と言ってもいつからそうだったろうかね、という、おばあちゃんの口癖を思い出した。何十年も前からみんな暗かったし、もしかしたらこれから先もずっと、みんな下を向いて歩くのかもしれない。想像したら、ぞっとしたので、私はきゅっとはたきを握りしめて顔を上げる。お日様がオレンジに染まる夕刻時。やはり男は積み上げられた本の間で埃をはたく私を見つけて、微笑み、小さくお辞儀した。
 あ、まただ。
 いつものわずかな違和感を感じながら、私もぺこりと頭を下げた。慌てて箒を動かす。もやもやと渦巻く黒い気持ちは、なんだか、その男が見せる笑みが少し、ただの「掃除のおばさん」に向けるだけのものにしては、なんだか、気を許しすぎているようなそんな気がするからだ。そこまで考えて、頬をたたいた。私は仕事中に、何でこんな浮ついたことを考えているのだろうか。

――


「あの、すみません」

 その日いつもと違ったのは、男が帰り際に雑巾を持つ私に声をかけてきたことだった。少し驚いたけれど、「なんでしょうか」と笑顔を貼り付けて答える。男は思っていた通りの優しい色の声をしていたし、近くで見るとそばかすが浮き立つほどに目立っていた。遠くから見たらそばかすがあるなんてこと、気にならなかったのに。

「ここは、いつからあるお店なんですか」
「あー、そうですね・・・私はここの店の者じゃないので、詳しいことはちょっと」
「そうなんですか。毎日いるので、てっきり」
「短期なんです。また、しばらくすると違う店の掃除をします」
「それは、すぐなんですか」
「そうですね、まだ、何とも」
「そうですか」

 それは、たいへんですね、と彼はそばかすをかいて少しだけ笑った。笑うともっと優しい感じがするのだなと思った。それよりも、この店の創設日はもういいのかな。ちらりと彼の手元を見ると、何も持っていないことに気が付いた。

「何も買われないんですか?」

 そして、ふと、昨日の彼を思いだしたら、昨日の彼も手に何も持たないまま店を後にしていたことに気付いた。

「もしかしていつも、何も買っていかれてないんですか?」
「あー・・ばれましたか。お店の人には内緒にしておいてくださいね。」
「ええ、まあ、いいですけど。でも、どうして?」
「ううん、そうですね」

 困ったように彼はまた頬をかいた。どうやらそれは癖のようである。優しい人が困っている姿は見ていてあまりよろしいものではない。聞いちゃいけないことを聞いてしまったかなあ。やもすると、うろうろと動かしていた目と頬をかく指がふいに、ぴたりと動きを止めた。その視線の先を、たどるように追う。そこには古びた本が一冊、整列された本とは離れた場所にこてん、と壁に寄り掛かるようにおさめられていた。
 いけない、整頓し忘れていた。

「これは、すみません、整理していなくてまだ、」
「神話ですか?」

 古い本を手に取ってその表紙を彼がなでる。元に戻そうと伸ばした手を慌てて引っ込めた。本がとても似合う人だなあと思った。

「そうみたいですね。よくわからないんですけど、確か、」
「エディプスの話」
「ご存知ですか?」
「知らない間に父親を殺し、知らない間に母親と結婚していたという話ですよね。エディプスが信じていた両親が、実は他人で、っていう」
「そうそう、そんな話。極端ですけど、母親を愛する故に父親に劣等感を抱くといった話につながるって聞いたことがあります。あっていますか?」
「ええ、コンプレックスの根本のお話です」

 ややおいて、表紙をなでながら彼が続けた。僕は、そばかすがコンプレックスだったんです、と。
 もったいない。気づけばそう声に出ていて、自分で驚いて口を押える。見ると、彼も小さな目をまんまると開いていた。

「優しくて、かわいいです。とても。」

 またもや、気づけばそう口にしていた。今日はなんだか調子が狂うな。まんまるな目がしばらくして、優しく弧を描く。

「そう言っていただけるのは、久しぶりです。」
「私以外にも、そう思う方はいらっしゃるでしょう、やっぱり」
「そうでした、ずいぶん、昔に」

 表紙をなでる手が止まった。顔をあげて彼を見る。遠く遠くのどこかを、まるで昔の写真をながめているかのように懐かしそうに見つめていた。「ずいぶん、昔に、いました」ともう一度一言一言を噛むように呟くので、私も聞き逃さないように、その優しい声に耳を傾ける。変な気分だが、とても心地がいい。

「僕も、エディプスと同じで劣等感だらけなんです」
「そうですか。なんだか、意外ですね」
「見えませんか?いろいろなことに、心残りが多くて」
「見えません。とてもさわやかな感じがします」
「はは、さわやかですか」

 よく言われます、と彼は頬をかいた。

「この神話で、エディプスは最後、真実を知って目を潰し旅に出たんです」
「それはまた・・・」
「きっと、現実を見たくなかったんでしょうね」
「まあ、自分が父親を殺して母親と結婚していたなんて知ったら、現実なんて見たくないでしょうね」
「僕、とてもわかるんです。僕もつぶせるものならつぶしたかったなと思います。」
「目を、ですか?」
「目を、です。案外自分は心が狭い人間だったんだと知って、それはもう、見たくないものを見ないでいられるなら、目でも何でもつぶしたいと思いました。エディプスの気持ち、わかるんです、とても。」
「それは、今も、つぶしたいですか?」
「・・・今は・・・そうですね、思いませんね」

 彼の優しい小さな目が、私を捉えた。それなら、つぶさなくてよかったですねと告げると、おかしそうに彼は笑った。「見守らないといけない人がいるので、目はあってよかったです」と笑った。そして頬をかきながら、あなたのほくろはとてもかわいいですねと言われる。少しこそばくて、祖母譲りなんです、と目をそらした。コンプレックスですか、と聞かれた。そこまでではないと答えると、彼はまたおかしそうに笑うからなんだかもう本当に変な気分になる。丁寧な手つきで、丁寧に元あった場所へ、古い本を彼がおさめた。「このお店もきれいになりましたね、あなたのおかげですね」毎日この時間に来て、彼は本を一冊も買わなかったけれど、内装の汚れやら埃やらの変化には気づいていたのだろうか。大切なお店なので、と答えると、今度はそれはそれは幸せそうに笑みを浮かべるものだから、まぶしくって私は見ていられなかった。その笑みは、毎日ただ訪れるだけだった彼が、ただ掃除をしていた私にお辞儀とともに向けてくれた笑みそのものだった。


「安心しました。また、来ます」

――

 返事をしようと顔を上げたのに、そこには誰もいなかった。え、とこぼれた声も後ろのドアが開く音に吸い込まれる。

「あら?ぼうっと立って、どうしたの?」
「おばあちゃん、もう掃除終わったよ」
「まあ、ありがとう。ごめんなさいね、あなたにここのお掃除させちゃって」
「いいの、仕事だもの。それより、手続き終わった?」
「ええ、終わったわ。いろいろ書類が多くて、困っちゃうわね本当」
「おじいちゃん死んでから、もう日にち経ってるのにね」
「そうね、そういえば、もう、そんなに経つのかしら。そうね、そろそろあなたもここのお掃除手伝いに来なくても大丈夫よ、これからは私でやれそう」
「おばあちゃん、」

 さみしくない?と聞こうとして、口を閉じた。なあに、と優しい声をかけられたけれど、なんでもないと首を横に振る。彼のそばかすと、彼のまんまるな目、ほほを掻く細い指が脳裏に浮かんだ。そしておばあちゃんに重なった。ねえおばあちゃん、そばかすがかわいい男の人知ってる?毎日来ている男の人、知ってる?聞こうとしてやっぱり口を閉じた。ふいに、私の横の棚にあった本を見つけて、おばあちゃんが「あら、神話?」とそれを手にした。エディプスのコンプレックスの話ね、と言うおばあちゃんのことをどこか遠くを見るように見つめながら、うんと適当に返事をした。古い、特になにもないシンプルな表紙を彼女は優しく優しく眺めながらまるで昔のアルバムをめくるかのようにページを開いた。その頬に、私と同じほくろを見つけた。私は今度こそ口を開いた。祖父が死んで、おばあちゃんがこの店を一人で切り盛りするようになっていったいどれくらいの日にちが経つのかな。青年はきっと明日もここへやってきて、そしておばあちゃんはそれを知らない。

「おばあちゃんの、そのほくろ、とってもかわいい」


 驚いたように目をまんまるにした彼女はその手を止めて、私を見つめ、そうやって言ってくれるのはあなたで二人目ね、と幸せそうに笑った。



見守る男
(20130903)
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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