彼女がお腹をゆるゆる撫でながら、嬉しそうにその事実を告げたのが、つい先日のように感じる。目の前で脂汗を流している彼女に、あの日の光景を重ねながら、もう少しだから頑張ろうと声をかけていた看護師たちの声もどこか遠く、切り取られた世界のように僕は感じていた。そうこうしているうちに、彼女は別の部屋に連れていかれ、入った部屋の頭上で赤いランプがつき、僕は今ただぼんやりと手術室の前に立つ。夜の静かな病院で、小さく灯されたその光を見つめながら、先ほどまで握っていた僕よりもっと小さな手の感触を思い出した。彼女が襲いくる痛みと闘い始めて、もう一日が経とうとしていた。ぼくらの新しい家族はなかなか出て来てくれないらしい。「あなたに似て恥ずかしがり屋さんなのね」。額に脂汗をじわりと滲ませて、僕の奥さんは笑った。僕には彼女が、とても高貴な存在に思えた。
近くにあった簡素なソファに腰を降ろせば、じんわりと身体中に血液が戻って行くのがわかる。そういえばいつから座ってなかっただろうか。いつから、どうせ歩き回ることしかできないのに、うろうろと忙しなく足を動かしていたのだろうか。髭をたっぷりと蓄えたまるでサンタクロースみたいな彼女の担当医が、(僕と彼女はその風貌からサンタクロース先生と影で呼んでいる)、「奥さんの体はとても疲れてしまっている。子宮の入り口が固いのと、赤ちゃんが横を向いたまま動かない。このままでは奥さんの体が危険だ。」と多分そういう風な事をぺらぺらと喋って、僕の肩をぽんと叩き目の前の手術室に入って行った時も、僕は、そうですか、とただ突っ立っていた。サンタクロース先生と、僕に一礼しながら先生に続く数人の看護師の背中を思い出して、そういえば彼女はあまり体が強い方ではない事を思い出した。僕が初めてお腹に触れたあの日も、少し気分が悪そうにしていた気がする。妊娠なんて、当然、した事ない僕は、それがなんのせいなのか、彼女がどんな気持ちなのか、そして僕自身が、新しい命の育て親になるだなんて、全くもって想像出来ないのだ。今この瞬間も、である。

静かな病院でソファに身を降ろす僕の胸ポケットで、携帯が震えた。

「もしもし、パパですか?」
「なんだよライナー、やめてよ、まだ早いよ」
「はは、もう緊張してるのか?」
「もう、ずっと、緊張しっぱなしさ」
「そうか、ついに実感が湧いて来たか」

その言葉には答えられなくてだんまりを決めると、なんだよ、お前は本当に相変わらずだなあと電話の奥で気のいい友人が笑った。俺が甘やかしすぎたかなあと言うもんだから、ライナーは僕のお母さんか何かなの、と言うと、せめてお父さんにしてくれとまた笑われる。

「今、どれくらいなんだ」

その言葉の意図はよくわからなかったけれど、「もう丸一日経った」と答えておいた。電話の奥で驚く彼の声がする。午後9時、彼の周りでざわざわと音が聞こえるのは、彼が仕事帰りの疲れた体で、わざわざ気の弱い友人の緊張を解そうと思い電話してくれているのだという事を示していた。

「それは随分、長いな」
「うん、本当に、こんなに長いとは思ってなかったよ。こんなもんなのかな」
「わからんが、お前、ベルトルトお前は寝たのか?」
「僕がこんな時寝れるような人だとでも?」
「ああ、そうだったな、すまんすまん。で、気分はどうだ?」
「・・・・最高だね」
「そうか、お前少し寝ろ」

それが出来れば苦労はしないよと苦笑いした。そりゃそうだなとライナーもきっと、苦笑いしている。とても優しい友人だと思った。

「よし、名前、考えようぜ、女の子だっけか?」
「ちょっと気が早いよライナー」
「いいだろ、そうだなあ、やっぱり女の子ならクリスタとかどうだ」
「めちゃくちゃ私情を挟まないで」

一瞬、おなまえと一緒に赤ちゃんを抱えながらその名を「クリスタ」と呼んでいる姿を思い浮かべた。違和感だらけだ。くすりと笑うと、視界の端で赤いランプが灯りを消した。

「ライナー、終わったみたい」
「そうか、じゃあ、俺も帰るわ」
「うん」

パパ頑張れよ、そう言って一方的に電話を切られる。ライナーとの電話はいつもこうだ。お前は自分から電話をきれないやつだろうとかなんとか勝手に決めつけて、突然かけて突然切る、そういう人だ。お礼は今度しっかり言おう、と軽くなった腰を上げて、ランプの消えた「手術室」を見つめた。そして次の瞬間、小さく、でもはっきりと、おぎゃあおぎゃあと産声が響く。僕らの新しい家族の声だ。それは次第に大きくなる。喉がみるみる熱くなり、全身はぶるりと震えた。何だよ、僕は何もしてないじゃないか、しっかりしろ。トビラが開いて出てきたサンタクロース先生が「終わりました、元気な女の子です」と言い終わらないうちに、ありがとうございましたとここ最近で1番の大きな声を出して僕の足は駆け出した。もつれて、躓いて、ああこんなはずじゃないのに。看護師たちが疲れた顔で、でも微笑ましく僕を見ていた。産声が大きくなる。こちらですよ、と差されたベットに僕の家族が横たわっていた。おなまえの顔は、とても疲れているのに幸せそうで、その胸には小さなタオルと、産声があって、足と一緒に僕の視界も揺らぐ。「パパ」と呼ばれた。看護師に、お父さんもだっこしますか、赤ちゃんとっても元気でね、お母さんも頑張ったね、と声をかけられ、ただ一言、はいと答えた。もう何が何やらわからなかった。おなまえ、君はさっきまでお腹を開けてたんだろう、なんでそんなに平気そうなんだ、とか色々聞きたい事心配な事はあったけれど、彼女はもう立派な母親の顔をしていたのだからそれが答えだろう。

「ほら、パパですよ」
「う、わ、軽い」
「ふふ、すぐね、大きくなるって」
「こう?こうであってる?」
「うん、そう。看護師さん、この人にだき方教えてあげてください」

了解です、と年配の看護師さんがこちらへきて、手はこうでね、と丁寧に教えられる僕を見て、おなまえ、僕の奥さん、この子のお母さんは声をあげて笑った。何を笑う事があるんだろうとその顔を見て、僕は、僕が笑っている事に気が付いた。ああ、と、ようやく震えが止まった。タオルの中はとてもあたたかかった。こんなにも軽くて小さい体がいつか僕らを追い越していくのだろうか。僕に似て、大きくなるのだろうか。おなまえに似て、素敵な女性に、なるのだろうか。にこにこ笑う僕らのお母さんは、とても立派なひとだから、ぜひ君にもそうなってほしいよ。軽いけど、重いねと呟いたら、おなまえが、おかしそうに、うん、とまた笑った。

「あなた、とっても、本当にパパみたい」

その言葉に、当たり前だろうとか、失礼だよ、とか言おうとして、先ほどの電話を思い返した。無機質な部屋で、タオルにくるまれた新しい家族を抱きしめ、まぶたを閉じると、遠い未来で大きくなった愛しい我が子の姿がやすやすと浮かんで、目の前で笑う彼女にならい、僕もやんわり笑って口を開いた。

「ねえ、この子の名前なんだけど」


未来が見えた
(20130819)
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