「ねえハル、温泉行こうよ」

 だらだらと寝ころんで、ハルの家で雑誌を読んでいた私が、いきなりそう言って立ち上がるものだからハルはびっくりまごついていた。4月をいよいよ迎えるという春の昼下がり、ぽかぽかの陽気の中少し季節外れと言うか季節遅れと言うか、私が口にしたのはそんな内容だった。

「温泉?」
「そう!これ見て?今、安くなってるの」
「春なのにか?」
「たぶんね、春だから安いんだと思う!」

 少し眉をゆがめたハルの顔が、俺が言いたいのはそう言う事じゃないと告げている。畳の上で日差しを浴びて本を読んでいたハルの近くに、駆け寄ってその顔を覗き込んだ。どたばた言う足音は、きっとまことがいたら怒られちゃうんだろうけど、そんな彼も今はいない。春休みの何でもない休日、彼の部活休みを見つけてごろんとその大きなおうちに上がりこんでみたのだ。ハルは文句も言わずに通してくれた。家が近いって便利だなあ。暇さえあれば、こうやってハルやまことと遊んでいられる。

「温泉って、冬にいくものだろ」
「それはですね、ハルくん、偏見ってやつですよ」
「でも、寒い時に行く方が気持ちいい」
「あれれ、ハル、温泉嫌い?」
「いや・・・いきなりすぎてびっくりしてるだけ」

 どうやらハルは、突然の申し出とテンションの違いに戸惑っているだけみたい。今は冷静になって考えろという頭の固い怜もいないし、またおなまえは、と呆れた顔をするまこともいない。ハルを乗り気にさせるには今がチャンス。大チャンスだ。

「ハル、これね、旅館に泊まるの」
「そうみたいだな」
「24時間いつでも温泉に入れるの」
「へえ」
「ってことはだよ、ハル、いつでも水に浸かれるんだよ!」

 どうだ、とハルに雑誌を突き付けた。まことに負けず劣らず優しいハルは本をすでに閉じてくれている。そういう細かい優しさに私はずっと甘えているし、これからも勿論甘えていたいなあと思っている。ハルが目を大きくしながら「ずっと水に浸かれる、」と零した。私はにんまり笑った顔を、ハルに見えないように雑誌で隠した。やった、ハルが落ちた!そう思って片手で口を抑えた私は、次に聞こえたハルの言葉に思わず耳を疑ってしまう。

「だめだ」
「・・・え!?なんで!?ハル、本当にハルなの!?!?」
「あ、ああ、俺だけど、」
「水に浸かっていいんだよ!?24時間だよ!?!?なんで!?」
「水なら、家でもプールでも浸かれる」
「でも24時間じゃないじゃん!!!」

 雑誌をぐいと片手で私の方に押しつけながら、「24時間も入っていたら手がしわしわになる」と至極まともなことを言ってのけるのは本当にハルなの?いつでもどこでも頭の中は水の事でいっぱいの水泳オタクだとは全く思えない発言だ。思わず私もビックリして、さっきまでいなくてよかったと思っていたまことを今すぐにでも呼び出したい気持ちになった。

「水だよ水〜。ハル〜温泉行こうよ〜。みんなとだったら楽しいよ〜」
「みんなって誰だ?」
「え?みんなって、まこととか、なぎさとか、水泳部のみんなだよ」
「まことたち?旅行って、水泳部で、か?」
「そうだよ?二人っきりだと思ってたの?」
「うん」

 目をぱちくりさせてハルが答える。なんだ、ハルは二人きりだと思ってたのか。だからかたくなに拒んだんだ、納得。って自分で納得してて少し悲しい。二人きりだと駄目ってこと?思っていたよりハルに好かれてなかったのかな。もしかしてよく遊びに来るのも迷惑だった?

「私、迷惑だった?」
「、は?何が?」
「よく遊びに来るの、本当は嫌だった?」
「どうして、そうなる」
「だって、2人で旅行は嫌ってことでしょ?」
「2人は、まずい」
「ほ、ほら!」
「そうじゃなくって」

 そこまで言って、当たり前なのに重要な事を忘れていたと気がついた。

「私が女の子で、ハルが男の子だから駄目ってこと?」
「そう」
「それって、なんか寂しいね」
「寂しい?」
「友達で区別してるみたい。男女差別ってやつだ」

 だって、まこととだったら2人でも行くんでしょ?そう言ったらハルは微妙そうな顔をした。かく言う私もきっとすごい不機嫌そうな顔をしているんだろうな。

「男と2人で温泉なんて、楽しくないだろ」
「わかんないじゃん。24時間ずっと水浸かれるし」
「手がしわしわになるだけだ」
「もうそれいいってば」
「おなまえはただの女の子じゃない」
「ちょ、それどういう事」
「好きな女の子だから」

 ばさりと雑誌が手から落ちる。座ったまま落ちた雑誌をハルが拾って、私に向き直る。あんぐり、一方で私は開いた口がおさまらない。ハルは時々とんでもない事を口にする。

「ちょっと待って、ハル、私の事好きなの?」
「うん」
「私、全然、知らなかった」
「そうだと思ってた」

 いつになくよく喋るハルに、今度は私が微妙そうな顔をしているに違いない。だって、そんなの、本当に全然気付かなかった。仲の良い友達だと思ってたのだ。普段とおんなじ澄ました顔をして、落ちた雑誌を私の手に戻してくる、ハル。なんでいつもと同じなの。言われた方がどぎまぎして、こんなのちょっとおかしい。

「好きな女の子と、軽々しく、温泉なんか行くもんじゃない」
「は、ハルが常識人、」
「そういうのは、段階が必要だって、まことに言われた」
「なんだ、まことの入れ知恵か・・・」
「だから、おなまえ、温泉に行きたいなら俺の恋人になるしかない」
「っえ」
「どっち」

 突然の選択に、今度こそ私はまことをこの場に呼びたくなった。ハルに常識を教えたようで、まこと、君はちゃんと教え切れていないぞ。しかしそんなことより、私の両手に収まったままの旅行雑誌が赤字でオススメしてくる、季節外れだか季節遅れだかの「格安温泉旅行!行くなら今!」の文字が私を離してくれやしないから困った困った。雑誌と、ハルと、ついでにその向こうに見える桜の木を目でなぞって、当初イメージしていた、みんなで温泉に行き浴衣に着替え卓球やら湯上りの牛乳やらを楽しむという計画をガタガタと崩して新しいイメージをもわもわと組み立ててみる。私とハルが、桜の散る石の道を2人手をつないで歩いている。きっと女の私なんかよりハルの方が温泉に浸かる時間が長いんだ。それで、少し喧嘩になってもそれでもハルと私は笑って何でもないように過ごせる。あれれ、どうしよう、みんなで行くより楽しそうかも。


「どうしよう、ハル」
「なに」
「私、温泉行きたい」

 少し考えたような顔をして、ハルが私の手から雑誌を取り上げてパラパラとページをめくった。「ここなんかいいんじゃないか」打って変って戸惑うのはやっぱり私の方で、ハルにはずっと昔からペースを乱されてばかりだなあ。雑誌の代わりに私の手をとるのはハルの大きくて細い右手。ああもう、わかんない。全然わかんないよ、ハル。みんなとじゃなくて2人の方が楽しそうだって考えちゃう私も、ハルの気持ちを知ってわかりやすく緊張しちゃう私も、どちらの自分にも驚いてばかりなの。「手、おっきいね」どうでもいいのに私はそんなどうでもいいことを口にした。「意外?」彼の言うとおり、意外に筋肉質で、意外に暖かくて、思ってたよりもハルの手はたくましい。でも何より意外なのはね、絡まれた指が全然嫌じゃない事なのよ。ああもう、心なしか嬉しそうな横顔に、あろうことかキスしてみたいって、私、今、本気で思ってしまった。


 

レモンジンジャーの湯船の中で、僕らは年をとる
(20140329)
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