服、新しいやつじゃん。
 あまり目つきのいい方ではない彼が、ジロジロと全身見回した後にそんな事を言うものだから、びっくりしてすぐには声が出なかった。今、彼なんて?人の、ましてや女の子の服になんて全く興味がなさそうな男が、目の前のカノジョの小さな変化に気付いてそれを指摘した、だって?

「やすくん、どうしたの?」
「あァ?どうしたのってなんだヨ」
「服の変化に気付くだなんて、やすくんらしくもない」
「お前は俺の事なんだと思ってんだ」

 「彼女の服が新しい事くらい見てりゃすぐわかんだろ」やすくんはもうほぼ氷となってしまった桜味のカフェオレの残りをチューチューと吸った。そう言えば、やすくんがカフェオレを飲んでいるのも珍しい。なんで私今まで気が付かなかったんだろう。やすくんはどんなオシャレなカフェに行ったとしても何も気にせずにコーラを注文するような人だ。

「やすくん、コーラじゃなくていいの?」
「今更かヨ。もう飲み干すっての」

 そう言って彼が傾けたグラスから水滴が垂れて、この店に入ってからしばらくの時間が経った事を示していた。まだ半分ばかりあるやすくんと同じカフェオレを私は啜る。やすくんはおいしいかと尋ねてきた。さくらの味がすると答えながら私は、いつものやすくんなら「まだ半分しか飲んでねェのかノロマちゃん」と馬鹿にするだろうに、とぼんやりそう思った。今日のやすくんは、何か違う気がするな、と初めて違和感を抱いたのはこの昼下がりのカフェでの出来事からだった。

 それからというものの、やすくんはやっぱりいつもと何かが違っていた。笑い方だって、口調だって、今日はいつもよりも全然優しかった。私が何度となく「やすくんどうしたの?」と言っても彼は何言ってんだとしか返してくれなかった。デートの内容は本当にいつも通りで、やすくんが行きつけの自転車屋さんに行ったり、私が好きな雑貨屋さんで一緒に品物を眺めたり。けれどもやっぱり違ったのは、やすくんの態度で、自転車屋さんで退屈しないかと私を気遣ったり雑貨屋さんに入る時に文句の一つも言わなかったり、そんなやすくんは付き合ってから今日まで一度だって見た事がなかった。
 なんでだろう、の答えがわからないまま、いつもならばいばいをする歩道橋の下でやすくんが珍しい提案をして私を引き止めた。

「夜ごはん?」
「そ。帰りはおなまえん家まで送ってくからさァ、飯食ってから帰ろーぜ」

 俺、もう腹減って仕方ねーのヨ。
 やすくんは続けてそう言ったけど、私のわがままに付き合ってカフェでデザートを食べてくれたんだから、それは嘘だとさすがにわかった。その時もいつもならデブだの太るぞだの言われるのに、何にも言わずに付き合ってくれて、少し戸惑ってしまったりもした。
 いぶかしげにやすくんを見る。「なんて目してんだ」とやすくんが苦笑いをした。

「だってやすくん、今日優しすぎるよ」
「いつだって俺は優しいだろーが?あァ?」
「それも、そうかも」

 やすくんは口は悪いけれど、太るぞと言いながらいつでもご飯に付き合ってくれるし、ノロマちゃんと馬鹿にしながらいつでも歩幅を合わせてくれる。簡単にその事を私が認めてしまえば彼は照れ隠しに頭をこつんと叩いてまた悪態をつくのだ。そしてそっぽを向いて慌てて次の話題を探す。みんなからはどうしてあんな怖い人と付き合っているのと聞かれたりもするが、そんな時決まって私は「内緒」と答える。私だけがその優しさを知っていればいい。ただのエゴである。
 今日のやすくんは、優しさを認めても痛くもない力で頭をたたいたりバカだのアホだのののしることもしなかった。ただ、ちょっと笑う。寂しそうに笑う。

「もしかして、寂しいの?」
「お前寂しくねーのかヨ」
「別に、今日が最後ってわけじゃないじゃない」
「マジかヨ・・・こーゆー時、女って淡泊だよなァ」
「ふふ。嘘だよ、寂しい」
「ハイハイ、それも嘘」

 はあ、とやすくんがため息をついた。付き合った当初、振り回されていたばかりの私が、彼にため息をつかせるなんて想像もできなかったなと振り返ると、思わず笑みがこぼれてしまう。遠い昔というわけでもないのに、どうしてか懐かしい気持ちになってしまうのは、私たちがもうあの時と同じように制服を着て並ぶ事などありはしないからだろうか。やすくんとこうやって簡単には会えなくなってしまうから、だろうか。

「やすくん、静岡って何があるの?」
「茶だろ」
「他には?」

そう聞くと、ちらりとこちらを見てやすくんは「俺がいる」と答えた。やすくんの向こうには傾いた夕日とまだ咲いていない桜が見える。静岡にはやすくんがいる。笑ってしまうような返答だ。けれど、それだけで、確かに十分だった。
ここにはいないんだね。自分で言葉にしておきながら改めて、ぴりりと胸の奥が鳴った。これじゃあ、やすくんのこと、言えないじゃない。やすくんはやすくんでいつものきりっとした顔を少しだけ和らげて、寂しそうにも見えるし、優しくも見える。いつも通りにしていたいのに、一生のお別れじゃあるまいし。おなまえチャン、とやすくんが私を呼んだ。「今までありがとネ」


「なにそれ。やめてよ、しめっぽいの嫌だよ私。」
「いいから言わせなサイ」
「どうしちゃったのやすくん。やすくんらしくないよ」
「まあ聞けって」

 私たちは道路につっ立ったままという、中途半端な格好をしていた。もてあました右手でやすくんは首の後ろを撫でる。硬くて薄い掌が、私の好きな掌が撫でる首筋はとてもセクシーだ。こんなことだって、知ってるのは私だけでいい。
 段々薄暗くなる夕方、ぽっかりと立っているだけの私たち。夕日はもう沈んでいくし、でも桜はまだ咲いていない。次に咲く時、その木の下に私は一人ぼっちだ。やすくんの薄い唇がゆっくりと開く。

「なァ、大学に入ったらほとんどのカップルがだめになるらしいのヨ」
「・・・うん」
「俺、柄にもなく不安なわけ」
「・・・やすくんが出ていくのに」
「良いから聞いて」

 私は目をぱちくりさせる。聞け、と言わないやすくんをまじまじと見たけれど、向こうだって、わたしを真剣な目で見ていた。

「そんで、考えたのネ、だめにならないにはどうすればいいか」
「うん」
「俺馬鹿だからさァ、これしかないと思って」
「・・・うん?」

 首をかしげると、真剣な顔のやすくんがすぅと軽く息を吸った。わかるのは、彼がどうしてか、いつもと違うやすくんを、しているということ。優しい目になったり、きりりと私を見つめたり。まるでいつもと違って、調子が狂う。
 
「なるべく、これからはバカとかボケとか言わないようにします」
「・・・え?」
「あとォ、記念日忘れたりもしません」
「え、えっと、やすくん?」
「今日みたいに行きたいところ連れてけるくらいちゃんとした仕事にも就くし、でもこう見えて俺割と家事とか出来ちゃうわけヨ。だから家の事だってちゃんとやる、やります」
「あ、えと、はい」
「でも自転車はまだ続けたいからさァ、忙しいのはぶっちゃけあんま変わんないんだけど、そこは大目に見てくれな?」
「えっと、やすくん、」
「会えない間も連絡ちゃんと取るし、もうわかってると思うけど浮気出来るようなタチでもねェ。な?なかなかいいだろ?」
「ちょっと待ってよ、なんのこと?」

 ぺらぺらと饒舌なやすくんが、うすぐらさに紛れてもうあまり見えない。一歩、一歩と彼が近付いてくる。追いつこうとする頭が、どうでもいいのに、桜味のカフェオレのことを思い出していた。そして、私に合わせてコーラを飲まなかった、この人のことも。
 目の前になった彼が、優しい目で私を見降ろす。ぱっと掴まれた手は、私の大好きな手で、今は少しだけ柔らかく感じた。汗ばっている。今日のやすくんは変だ。変で変で本当に変だ。でも、こんなやすくんも私は好きだけれど、いつもみたいにコーラを飲んで、私をノロマちゃんと呼んで、女の子の雑貨屋さんで恥ずかしそうに頭を掻いて、ボケナスだバカだと頭を小突いてくる、そんなやすくんの方がもっと好きかも知れない。家事をしてくれなくったっていい。私の方が料理が下手だって馬鹿にしてくれても構わない。不器用なままの、誰も良さなんてわかんないくらいの荒北康友でいてほしい。私は、私がやすくんのいいところを見抜いた時の、何とも言えない優越感だってたまらなく好きなのだ。

「やすくん、いやだ」
「、はァ?」
「今日のやすくん、すごい優しくて、私やだよ」
「なァに言っちゃってんの?どっか頭ぶつけた?いつもヒドイヒドイ言ってくるのどこのだれヨ?」
「あ、いつものやすくんだ」

 はっ、とやすくんが固まった。和らげていた顔をゆがめて、緊張していた口を緩めて、ズカズカと物を言う。いつものやすくんが目の前に居る。

「無理しないでよやすくん」
「ばっ、無理なんかしてねェよ!!」
「うん、やっぱりいつものやすくんの方がいい」
「はァ!?本気で言ってんのおなまえチャン?今日の俺超絶いい男だったくね?」
「ボケナスって言ってくれなかった」
「言ってほしかったのォ!?」
「うん」

 そう言えば、やすくんはぐっと言葉を詰まらせて小さくため息をついた。台無しだ、とやすくんが呟く。

「優しくしなくていいのかヨ」
「やすくんが本当は優しいの、知ってる」
「しゃれた店なんて嫌いだぞ俺は。さくらの味とか甘すぎだろ何アレ」
「やっぱり?」
「あー、コーラ飲みてェ」
「ふふ。後でコンビニ寄ろう?」
「大賛成」

 ううん、と背伸びをしたやすくんを見て、相当無理をしていたんだなと笑う。笑うんじゃねーよバァカ。小突かれたおでこはやっぱりそんなに痛くなくって、ほら、やすくんはいつだって優しい人。不器用で口がわるくて、優しくて繊細な人。静岡は遠いけれど、そこにはやすくんがいるから、お茶もなんにもなくったって、やすくんがいるから、それだけで十分なのだ。背を向けてコンビニへと足をむけるやすくんの、向こう側に見える桜を一緒に見る事はきっと出来ない。4月になったら、桜味のカフェオレを嫌味みたいに送ってみようかな。それとも新しく発売される方にしてみようかな。怒ってすぐに電話してくるやすくんを想像したら、毎日会えない事だってなんだか我慢できるような気がした。ねえやすくんは寂しい?聞こうとして、不意に振り向いたいつもとおんなじ鋭い目と視線がぶつかる。いつも通りのやすくんが、いつもよりほんのちょっとだけ優しく目を細めた。「なァ、」この人のこんな顔、他の女子に見せたくないだなんて、これは彼女の贔屓目なのかな。

 
「4年後、お前の名字変わるから」


 薄暗さの中でもわかるこわばった表情のやすくんが言った、言葉の意味を理解するのに数分はかかって、スタスタと先を行くやすくんがそれを言うためだけに今日一日中優しかったのかと考えるまでにはもっと時間がかかってしまった。ぽかんとした私をおいてけぼりに、彼は「最初から普通に言えばよかった」とか何とか言ってるけど、薄暗い道路のど真ん中、不格好に突っ立ったまま足を動かす事が出来ない。振り返って、早く来いボケナス、とめんどくさそうに、少し恥ずかしそうに私の事を呼ぶやすくんの姿が、薄暗さのせいじゃなく、ぼやけて、にじむ。湿っぽいのが嫌だと言った当人が濡れた唇で「もう今変えたい」とわがままを言えば、やすくんは新しい服を汚すなよ、と、似合ってんだからと柄にもなく優しく笑った。
 



さくらをあげるよ
(20140329)
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