「あれ?ジャン、今日おなまえの誕生日だよね?」

 帰り際、疑問視を飛ばすマルコに「お、おう、そうだよ、だから急いで帰るんだよ今から」と冷や汗をたらしながら答えたのが数秒前のことのように思える。あれから時間は過ぎ、今は日付が変わる1時間前。ただただひたすらに彼女のマンションへと走っていた。あの後血の気が引いた俺を見て、マルコは呆れ顔でジャンのバカ、とだけ言った。そして、何も言い返せずに口を噤んだ俺の肩をぽんと叩き、一枚のカードをするりと俺のポケットに忍ばせた。めくってみると深夜2時まで営業しているという何とも珍しい洒落たバーのメンバーズカードで、会社を去るその背中に向けてありがとうを叫んだのだが、マルコは手をひらりとあげただけだった。今日はここを使えよ、という、ことなんだろう。なんだよあいつかっこいい。

 同僚の後姿を思い出しながら、荒くなる息も引かない汗も今はもう気にならなかった。お察しの通り、俺はきれいさっぱり今日という日のことを忘れていたのだ。ついでに言えば準備も何一つとしてしていない。なんで、どうして彼女は何も言わなかったんだろうか。まあ、普段から何にも言ってこないやつではあったが、こんな大事な日に彼氏が何も言ってこないともなれば、少しは思うところがあるんじゃないのか。文句くらい、言ってくれよ。どう考えても彼女のせいではない。それくらいはわかっているのだが、その謙虚すぎる性格にもどかしさでいっぱいになる。

 そして曲がり角を曲ったところで、思い浮かべていたその当人を、見つけた。

「おなまえ?」
「え?ジャン?」
「お前なんでこんな時間にこんなところいるんだよ」
「それは私のセリフでしょ?お仕事おつかれさま」
「あ、お、おう」

 汗かいてるね、今日は結構肌寒いのに。
 息を切らしている俺を見て、彼女はおかしそうに笑った。その手には、コンビニで買ったのだろうか、ビニール袋が握られている。大きさや形からして、ペットボトルだろうか。そういえば彼女の顔が少し赤い。

「酒、飲んでるのか?」
「ばれちゃった。少しね、飲んでたの」
「出かけてたのか?」
「ううん」
「もしかして一人で?」
「そうだけど、何か文句ある?」

 決して喧嘩腰ではない、クスクスと彼女は笑う。俺は目を少し下にそらして、彼女の手に握る袋を取り上げた。夜の11時はもう暗い。つい先日の満月が、今は雲に隠れていた。一人で、いたのか。何かを言おうとして口を開いたのに、「送る」とだけ告げて彼女に背を向けてしまう。違うだろう、と思うけれど、いつも通りのぶっきらぼうな声に情けないやらなんやらでどうしたらいいのか自分でもわからなかった。後ろから小走りでかけてくる今日の主役。なんでこいつ俺なんかについてきてくれるんだろう。

「もしかして会いに来てくれたの?」
「まあな」
「電話してくれたら家にいたのに」
「充電切れてた」
「そっか、そりゃ仕方ない」

 本当は80%も残ってる。

「こんな時間に一人でうろつくなよ」
「ジャンが心配してくれるなんて、明日は槍でも降るかな」
「おい」
「冗談冗談」

 じとりと睨むと「その顔すっごい怖いよ」と呆れた顔をされた。肩をたたいた同僚の表情と重なって、もやもやが募る。どいつもこいつも、俺より大人のような顔をするんだ。年を重ねれば重ねるほど、そうなんだ。気が付いたら、幼かったおなまえは女性、になってしまっていて。電灯に照らされても、スッピンでも、彼女の横顔はきれいだ。あんまり見ないでよ、と笑った彼女の腕には、何年か前にプレゼントした腕時計がついていた。いつのだよ。壊れたって、言ってたじゃねえかよ。なんでまだつけてんだよ。誕生日だということ、忘れていたのもそのことについて何も言えないのも、俺だ。子供っぽくて、大切なことを大切な日にも言えない、かっこわるい俺は、言い訳すらもまだ言えない。自己嫌悪がぐるぐる回る俺に向かって、もう睨んでもいないのに、怖い怖いと彼女ははしゃいだ。

「ジャンは、足が長いよね」
「なんだよいきなり」
「みんな言ってるよ。知らなかったでしょ」
「お世辞だろそんなの、本気にとるなよ」
「そんなことないよ、私もそう思うもの」
「背が高いだけだろ」
「照れちゃって」
「照れてねえよバーカ」

 今度はからかうように彼女が笑った。本当に、綺麗に笑うやつだと思う。そして、俺を見て、さてなぞなぞです、と、突然そう言った。

「ジャンは足が長いのに、私と肩を並べて歩いています」
「は?」
「なぜでしょう」
「知らねえよそんなもん」
「そして、汗もめったにかかないし、体力もあるのに、息がきれるほど、走ってきてくれる」
「・・・うるせえよ」

 風がやたら冷たい。汗が乾いて体が冷えていくのを感じた。お見通しってわけかよ。家まで、まだ遠い。ポケットのメンバーズカードが、そこで俺を呼び続けている。

「ジャンは、そういうところがいいところ」
「おい、答えは」
「ないしょ」
「なんだよそれ」

 彼女の肩が揺れた。風がすこし暖かくなったような気がした。気、だけだ。本当はまだ、季節の変わり目の、肌寒さが残る夜だ。なびく髪を耳に掛けて、私だけが知っていればいいことだから、と彼女が言う。ぼんやり、そうか、と答えると、そうだよ、と返ってきた。俺は知らなくてもいいのかと聞く。すかさず彼女は、そうだよとまた繰り返して笑った。ふと見上げると、いつの間にやら雲が消え、月が真ん丸とその姿を現していた。秋の空は変わるのが早い。まるで自分たちだけがそこにいるみたいに、通り過ぎていく。今日言わなければならないことがまだたくさん残っていて、どれ一つとしていまだ言えていない。けれど、とりあえず、このポケットの中で静かに役目を待っている同僚の計らいを無駄にしないべく、彼女をバーに連れて行こう。詳しい話はそこからでいい。たとえば、プレゼントは何が欲しいかとか、謝罪の言葉とか、言い訳とか。すべて、きっと彼女はおかしそうに笑って聞いてくれるから。綺麗に笑うようになったな、とか、たまには、言ってあげたら喜ぶんだろうけど、俺にはそんなことできないということもわかっているので、しわが増えたな、とか、そんな不器用なことを言ってしまうんだろうな。おなまえなら許してくれるという、俺の甘えも、少しずつなくしていくから。そんな話もしてみようか。するり、ときれいなやわらかい手をつかんだ。驚いた顔の彼女に、口を開く。

 「好きだ」

 まったく想定外の言葉が出てきてしまったけれど、とても幸せそうにおなまえがありがとうと言うので、むしろ当たり前のように、明日も明後日も過ごしてやりたい。


共に年をとるということ
(20130921)
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