そっちはどう?こっちはね、少し肌寒いよ。
 誰にも聞こえないくらいの小さな声で、そうつぶやいた。きれいな朝焼けを見つめながら、今日という一日をベランダにてみつめる、午前7時。携帯の画面はずっと同じ番号を映しながら、もう3時間は経過している。そして先ほど呟いた言葉を、もう一度、口にして風にのせた。久しぶりだね。元気にやってるよ。あのね、こっちはね、少し、肌寒い、よ。

 肩からはおっただけのカーディガンをさらに体に強く巻き付け、ぶるりと一つ身震いをした。風が冷たいからか、やっと一人になれた安堵からか、それとも違う何かか。続けて小さく震えた体を抱きしめる。やっぱり、少し寒いなあ。もう少し長袖をちゃんともってくればよかった。広く続く空に目をやって、ちゃんとあったかい恰好をしていきなよ、とうるさく繰り返された言葉を思い出す。あの時も、喧嘩したんだっけ。どうして私はちゃんと話を聞けない人間なんだろう。


「よし。やっぱり、やめよう。」

 そして、どうして私はこんなに小心者なんだろう。小さな勇気は今日も振るわれることなく携帯電話とともにポケットに戻っていった。電話は、特別な日だけにしよう、とこれは出発するときに私から提案した約束だった。国際電話は高いからね、と困ったように彼も笑った。変かもしれないけど、彼のそういう顔が私はとても好きだった。思い出しても、胸のあたりがきゅんとして、苦しい。ベランダの柵に肘をついて、顔を出し始めた太陽を見つめたら、あまりにきれいすぎて痛かった。

 すると、スカートのポケットが震え始める。驚いて携帯電話の画面を見たら、3時間ずっと眺めていたその番号がそこにあった。


「もしもし。おなまえ?」


 ボタンを一つ押して、耳に当てると、小さくこもった声が、とても懐かしい声が聞こえる。遠慮がちに乗せられるその音。大きい体のくせして、あんまりに優しい声なものだから、相変わらずの調子にこっそり、ばれないように笑った。

「もしもし。ベルトルト、どうしたの?」
「どうしたのって、電話をかけてきたのは君だろう?」
「え?かけてないよ?」
「え?んー、えっと、たった今かかってきたんだけど?」

 そういわれてはっとする。ポケットに突っ込んだとき、もしかして番号を表示した画面のままだったのでは。

「あー、ごめん、指当たっちゃったのかも。」
「ええ、なんだ、そっか、」

 少し、ほんの少しの沈黙の後に、せっかく高いから電話はよそうって話をしたのに、これじゃ意味ないね、と彼が笑う。また胸のあたりがきゅんと痛んだ。

「そうだね、特別な日だけって約束だったのに」
「うん、まあ、せっかくだから話そうよ」

 電話料金、大丈夫?と聞くと、たまにはいいよ、と言われる。電話の向こうも、こちらも、静かで、まるで近くにいるみたいで、なんだか変な感じ。


「元気にやってた?」
「元気だよ。メールでも、言ってるじゃん」
「そうだけど、でも、やっぱり声があるのとないのとじゃあ全然違うなあ」
「声聞きたいと思ってくれたの?」
「そりゃそうだよ。」
「嘘、ちょっと意外かも」
「ええ、僕のことなんだと思ってるの?」
「ライナーさえいればそれで大丈夫って感じ」
「まさか」

 冗談がひどいよ、と彼が言う。きっと本当に嫌そうな顔をしているだろうな。やすやすと浮かんできて、すぐに彼の顔を思い出せることに少しほっとする。ねえ、おなまえ。彼が私の名前を呼ぶ。ここちよくて、苦しい。さみしいなあ。

「なに?」
「なにじゃないよ・・・ふくれてるでしょ?」
「え?」
「あのね、えっと、僕忘れてるわけじゃないからね」
「え、え」
「誕生日」

 そっちは、まだ、でしょ?
 遠慮がちに聞くその声に、また、胸が痛む。握りしめた携帯が示す時刻は、彼が過ごすよりも過去の時間。彼のいる、私の国は、私よりも早い時間を生きている。誕生日おめでとう、というメッセ―ジは、当の本人が誕生日を迎えるよりも早く私の元に届いていた。

「そうだけ、ど」
「うん。だから、そっちが、おなまえが誕生日迎える時間に、電話しようと思ってたんだよ」
「そうだったんだ、」
「あと何時間後?」
「あ、えっと、まだまだ、17時間後?」
「なんで聞き返すの?」
「な、なんとなく」

 変なの。くすくすと笑われて、携帯電話が震えた。

「プレゼント何がいい?」
「ああ、もう、私、ベルトルト忘れちゃってるんだと、」
「もう、ばかだなあ、忘れるわけないだろう」
「うん、うん。ありがとう」
「どういたしまして。おめでとうは、また後で言うから」
「ふふ、ありがとう」
「いえいえ」


 肘をついてみていた空には、完全に太陽が現れていた。少しあったかくなる。カーディガンをぎゅっと握って、私は少し泣きそうだ。よく、遠く離れたときに、同じ空の下にいるなら、って話をするけれど、私には、それがとっても悲しいことのように思えて仕方ない。空は広すぎる。広すぎて、遠い。だから嫌いだ、そんな慰め。

「疑ってごめんね」
「ううん、いいんだ。そんなことだろうと、思ってたんだ」
「ええ、ベルトルトにしてははっきり言うんだね」
「僕、おなまえのことなら負けない自信あるよ」
「ライナーよりも?」
「ライナーよりもです」
「それは光栄です」
「もう、気持ち悪いこと言わないでよ」
「ふふふ、ごめんごめん」


「ベルトルトの声、変わらない」
「それを言ったら、おなまえも、何にも変わってないよ」
「そりゃあ、留学したくらいで、変わることなんてないよ」
「ほら、そういう、すぐ言い返すところも、変わってないなあ」
「もう、」

 少しの風が吹いて、彼も黙って、そして、変わらないよと彼は言った。ゆっくり、あたたかくつげられた言葉は朝の空にじんわり、広がっていく。胸が小さく、鳴った。ずっと変わらない?と聞くと、僕の声は変わらないし、僕の顔も変わらないよ、と言われる。でも、背は伸びそうだね、と私が笑うと、「おなまえが帰ってきたとき、すぐ見つけられるように、背はもっと高くならなくちゃ」と受話器の向こうで彼が優しくそう言った。それまで、他は、変わらないの?

「変わらないよ」
「すごい、先だよ」
「でも変わらない」


 僕は、おなまえがいないと変われないんだ。おかしそうに彼が笑う。そうだね、とも、頼りないなあ、とも、言えなかった。そう、と一言返すと、つめたいなあと笑われる。なんだこれ、本当にベルトルトなのかなあ。ずいぶんと、はっきりものをいうものだから、なんだ、あなたは、やっぱり変わっていくじゃ、ないか。そう言い返したいのに、口が開かなかった。
 離れても大丈夫だと思っていた。荷物を詰めるときにさみしそうな顔をした彼のことは見ないふりをした。電話の約束も、ここに来ることも、決めたのは全部私だった。もっと強い人間だと思ってたのになあ。ベランダからのぞいた世界には、少しずつ私以外の人間が歩き始める。カーディガンに袖を通す。もうそろそろルームメイトが起きてくる時間だろう。言葉も、顔も、服も、受話器の向こうの彼の世界とはまるで違う、そんな一日が始まる。ここの人たちとは、言葉が通じなくてね、つらいこともあるけど、それなりにやっぱり楽しいよ。今度はそんな話をしよう。電話にしようか、手紙を書こうか。気持ちのいい風が吹いた。そして、何度も何度も携帯電話の画面を見ながら練習した言葉を、今度こそ口にする。あのね、ベルトルト、


「あのね、こっちはね、少し、肌寒いの」


 ややあって、おかしそうに彼が「今度、マフラーでも送っておくよ」と笑う。そんなのこっちでも買えるのに、とは、今日は言わないで、うれしさに私も笑った。



海の向こうの君へ送る
(20130916)
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