命の雑踏 | ナノ


 静かにページを捲る音だけが私の世界にはあった。その集中の糸を何かが切って、ふと顔を上げた。視界に入ったのは船長室の本棚。私がいるのは質の良いソファで、紅茶の柔らかい匂いがする。そして耳に届いたのは、ドタドタと甲板を巡る足音が遠くにあった。いつもと違う様子に本を閉じて立ち上がる。彼の匂いを纏って歩く度にスルスルと落ちていくのを実感しながら、少し暑い廊下を通った。階段を上っていけば、喧騒も上乗せされて更に騒がしくなる。もしや、思わしくない状況なのでは、と案じる。その気持ちが射られるような現実が、覗き見た扉の窓から広がっていた。
 鮮明になる木の板を踏み荒す靴底の音と獣のような咆哮、剣が打ち合う金属音に何処かで鳴る発砲音。木の板一枚を隔てても届くような濃い血の匂い。ああ、私は今戦場を目の前にしているようだ。帰ってきてしまった。心拍が上がり、瞳孔が開いて眩しく感じる。ついた息さえ熱く私の肌を撫でる。目の前に敵の血飛沫が広がれば知らずに口角が上がる。
 その時、視界の端に見慣れた黄色いパーカーが映り込んだ。警告色のそれを見間違うわけがなく、この船の船長がそこにいる。それだけで私の世界は弾けたように此処に戻ってきた。なぜ敵陣で奮闘する彼がいるのか、なぜこの船にまで敵がいるのか、彼が刀で体を支えているのか。断片を見るだけで判る。劣勢に立たされていると。


「……ッ、何をしているんですか!」
「!?」


 思わずという体で安全圏を脱した私を、支えきれずにずり落ちた体をそのままに目を見開いた彼が驚愕する。私だってできれば痛い思いをしたくないし、安全でこんなに心臓を動かすことなんてしたくない。細い、それでも筋肉質な男の腕を掴んで無理矢理引き上げる。長に従く者は等しく先頭にいて倒れることは許されないのに。


「それはお前の方だろうが! 早く戻れッ、死にてェのか!」
「貴方達が死んだら私だって問答無用で殺されます! それだけは御免なので足掻きますよ!」
「ざけんな! この状況でお守りなんざ御免だ……言う通りにしろ、これは懇願じゃねェことくらい知ってんだろ!」
「状況が分かっているなら結構! それなら私の指示に従ってください!」
「おれに命令するな!」
「黙って聞いてください! ペンギンさん、ここは任せましたよ!」


 襲い来るサーベルを振り払ったペンギンさんがサムズアップをするのを見届けて血の滲んだパーカーを握る。「覚えていろよクソ女」と呟かれた声を無視すれば瞬時に敵船へと乗っていた。彼の能力だ。周囲を視線だけで見渡す。状況は劣勢、数が多い。自船はペンギンさん達で事足りる。なら、この船の人数を削ればいい。


「マストを一本へし折り戦力分断、船首の一部なら切り落としても安定します。ベポさんとシャチさんをこちらへ」
「……失敗したら被験体にするからな」
「痛いのは嫌いですよ」


 私の言葉を聞いたのか、そうでないのか。彼が振り返ってその長い刀を振れば大きなメインマストが切り取られる。ハートの船員が此方側へ寄ってきているのを確認して、タクトを使ってそのマストを甲板へと転がした。轟音がして船が揺れ動くのに、彼はその見事な体幹をもってしてマストの上に降り立った。向こう側にいる敵を雑に分断すると大きく振り払った刀と能力で敵が乗った足場が切り離され、海へと落ちた。五体満足ならまだしも、乱雑とはいえ自分のあるべきパーツが足りないのだ。きっと彼らは海の藻屑へとなるのだろう。少なくなった敵はやがてベポさん達の手によって沈められた。


「よっしゃー! 制圧完了ー!」
「すごいやキャプテン! 一瞬だったね!」
「ニイナもすげぇな! 劣勢だったのを一瞬でひっくり返しやがった!」
「……いえ、皆さんの力のおかげですよ」


 私はたった一言添えたに過ぎない。彼の実力と、私の最短の言葉を瞬時に理解して実行するのだからその処理能力が恐ろしい。ちょっとしたアドバイスを投げかければ彼は自分で道を切り拓く。
 でもそれは誰でも構わないだろう。彼は賢いから、直接的な言葉でなくともきっとやがては辿り着ける。その辿り着ける先に最短で私が導ければ、とまで考えてはたと思考を止めた。きっと熱に浮かされているだけだろう。成長していく芽生えを止める術を持たない私は、そうした足掻きをするしかなかったのだ。


「───ニイナッ、逃げろ!」


 船員達が荷物を物色し始めるそれに混ざろうと踵を返した時だった。背後から聞こえた声は誰のものだったか……それを思い出す前に自分の名を呼ばれた事だけを頼りに反射的に振り返った。
 顔と体を正面に向けて漸く事態を察する。木箱の影にでも隠れていたのだろう、敵の一人がナイフを両手で構えてこちらに走ってきた。腹の方に固定しているのを見る限り、殺意があって殺傷能力も高い。そうだ、殺す気で来ている。それは私が女だからか。それとも丸腰だからか。はたまた一言だけとはいえ指揮を執ったから頭角を潰す目的で来ているのか。そんなことを聞く余裕は私の喉にはない。ひくりと押し込められた言葉と息は刺されることを前提に力を入れようとする。
 そこで漸く気付いたのだ。私はいつも誰かの後ろにいて指揮をすることを。人に直接手を下したことがなく、積み上がった死体を眺めながらあれこれ考えていたことを。刃の切っ先に、向けられる銃口の前には人がいたことを。
 だから尚更だ。初めて向けられた憎悪は、思ったよりも鋭利で死が囁いているようだった。後方で指揮を執るよりも明確な殺意は、あまりにも鮮烈で一瞬だというのにその光景が焼き付いたように忘れられなかった。

 ───……ああ、死ぬのか。

 目を閉じることも、痛みと衝撃に耐えるよう力を入れることも叶わないまま、ただその一言だけが状況を冷静に判断していた。
 そうして瞬き一寸。傾いたのは視界ではなく、敵の首の方だった。


「───……、え……」


 血の気の引いた頬に、それは熱いと感じるほどだった。その感触を確かめる頃には敵は足元に転がっており、絶命していた。確かめるまでもない、綺麗に真っ二つされているのだから。


「おい、大丈夫か」


 刀から血潮を振り払い、付いた脂をボロ布で丁寧に拭い去る彼が声をかけて来た。その瞳が平静と安堵の奥に焦燥を隠していたものだから思わず頷く他ない。
 ベポさんやシャチさん、自船での処理が片付いたのかペンギンさんまで寄ってたかって心配してくれた。未だ治らぬ鼓動と血圧以外は外傷はない。


「ニイナ〜! 本当に大丈夫!?」
「何処も痛くねぇか!? 怪我は!?」
「……はは、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」
「……悪かった。敵を通したおれのミスだ」


 その一言で、え、と皆が固まる。じっくり間を持ってから噴出したようにどよめきが広がった。


「せ、せ、船長が謝ったー!!」
「ニイナより船長の方が一大事かもしれない!」
「キャプテーン! 死んじゃやだよぉ〜!!」
「あ……あなた、謝る事ができたんですね」
「テメェら……切り刻まれてぇのか」


 補給をしている組からなに鬼ごっこしている、と小言が聞こえる。でも今はそれどころではない。いかに彼の目の届かない所に逃げ込むかである。自船に戻るのがいい。多分この後敵船は沈めるから何か失くしてきたらそれこそ一生見つからない。シャチさんが勇敢にも身代わりになってくれたので、私は逆方向へ飛び出した。飛び降りた先にベポさんがいて、私を受け止めてくれた。ここは安全圏、良い所に落ち着いたものだ。

 別にミスだとは思っていない。だけども……それでも許しが欲しいのなら。能力を使う余裕もない様を見せつけてくれた事に免じて、許してあげます。



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