命の雑踏 | ナノ


 目の前のガラスの中で、小さな葉が舞う。くるくると巡って、やがてはお湯の色を濃くしはじめた。日常にありふれる、美しい光景だと思う。ティーバッグではなく後始末が面倒な茶葉を使う理由はそんな些末なものだ。だから、たったそれだけの取るに足らない楽しみを分け与えるように、私は無意識にカップを二つ手に取った。


「───……トラファルガーさん」


 木の扉を指の骨でノックする。細くて固い音は無事届いてくれたみたいで、入れとくぐもった声がした。静かにドアノブを回して滑り込めば、部屋の主は机に向かって何やら書き留めていた。近くに本もあることから勉学に励んでいるのだろう。医療は毎日更新される。昨日あった常識が覆されるのも、十年前の致死率をゼロに持っていくことも可能だ。つまり、彼のように常に最先端の情報を頭に入れなければ医者として名が廃るものなのだ。
 彼は私に目を向けることなく、小難しい文字や図解を追う。私がこの部屋に入る目的は、本を借りること。それしかないから、きっと目を向けなくともいつものルーチンだと思っているのだろう。それとも卓越した武人でもあるから気配でわかるのだろうか。
 借りていた本を、一冊分空いているところへ返す。その右隣の本に指をかけて引き抜く。もう少しでこの棚も制覇できる。彼の蔵書は医学書のみならず薬草学も履修しているようで、私は暇潰しがてらこうして本を借りる。好きにすれば良いといった半年前の彼との深夜の交流も、これで幾度目となろうか。
 ことり、とよく使われている机にカップを置く。まだ湯気の立つそれは良い匂いを木揺らせている。ピクリと彼の持つペンの軸が揺れた。いつものルーチンは本をまた借りた私がおやすみの挨拶をして出て行くからだ。そこにワンクッション。ただちょっとしたお裾分け程度のものだ。


「それでは、おやすみなさい」
「……待て」


 なんだこれは、というようにペンの軸でカップを叩く。陶器が小気味良い音を立て、反響のないまま真っ直ぐに瞳がこちらを射抜く。それに少しばかりたじろいだ。理由は特にない、それに尽きるからだ。


「……私のを淹れたついでです。香りがお気に召しませんでしたか?」
「いや、」


 フレーバーティーなら兎も角、私の淹れた紅茶はなんてことないアールグレイだ。苦手な人はまずいないだろうが、万が一という可能性もある。しかし彼はそれを否定し、やがてくつくつと喉を震わせた。そしてペンを放棄した指先でカップの取っ手を拾い上げ、目の前に掲げてみせる。それに隠れもしなかった悪戯じみた……それにしては些か凶悪な笑みをしていた。


「毒かなんか入っているのか? ああ、それとも見返りでも欲しいのか?」
「───……そ、」


 その言葉は、私の脳髄を直接殴打した。
 グラグラと目眩がするのか、それとも足元がただ不安定になったのかわからない。思わず二、三歩下がると腰にソファの背もたれが触れて崩れ落ちるのを支えてくれた。戦慄く唇を持ち堪えるように触れる指先を優先すれば、持っていた本が落下した。普段そんな扱いをしない私に対してなのか、予想外の反応を見せた私になのか、彼は珍しく驚いて目を見開く。
 平たく言えばショックだったのだ。彼はただ私の初めて示した行動に興味を持ち、揶揄っただけに過ぎない。他の仲間たちともするコミュニケーションの一環だろうに、受け止める用意ができていなかった私が悪いのだ。だけどもそれほどに、それ以上に彼の言葉は心外で……私の胸中を無残なまで切り裂いていった。


「───おい、」
「私は、たしかに計算して動くこともありますけど……打算的に動けるほど、器用ではないです」


 その声は震えずに出せただろうか。支離滅裂でないちゃんとした言語を彼に届けただろうか。この際独り言のようなものでも、嗚呼、やはり聞こえていなくても構わない。アールグレイの芳香が鼻腔に届いた時、すぐさま振り返って船長室を飛び出した。彼の顔もろくに見ないまま、落ちた本や不要な紅茶を片付ける余裕もなく、私は彼から逃げた。


「……浮かない顔をしているな」
「……昨夜眠れなかっただけですよ」


 吸い込まれるような濃い青をした晴れた日だった。こんな日は洗濯に限る。ペンギンさんと二人でシーツやらタオルを干す。各自の洗濯はもうすでに干されて、張り巡らされたロープに大きな物をかけるのは洗濯班の出番だった。空は夏空で、大きな入道雲が右手から主張する。ノースリーブから出た腕を夏風が擽って、それに嫉妬するように洗ったばかりのシーツがペチリと叩いた。


「当ててやろうか? 昨夜船長のところへ行ったろ」
「名推理ですね。トラファルガーさんからですか?」
「いいや、あの人とは今日は言葉を交わしていない」


 ならばなぜ、と気怠くそちらを向く。シーツ達の影の中、更に深く影を落とす帽子の下までは見えずとも口元は笑みを象っていた。屈託のない笑顔だと思った。


「徹夜をするのは知っていたから朝方様子を見に行っていたんだよ。そしたら紅茶の匂いがしたからな」
「それだけで分かるんですか? 茶葉は皆さんもお使いでしょう」
「あの人、夜は珈琲しか飲まないんだよ」


 これが長年連れ添った仲間による見解なのかと腑に落ちる。夕食以降呼び出しがなければ殆ど彼には出会わない。必要がなければお互い話さないし、廊下ですれ違う程度ならきっかけすらないのだから。半年経っても私は彼のことを知らずにいる。弱味となる過去は知れても、彼の嗜好までは知らなかったことに今更気が付いた。
 清潔な洗剤の匂いに紛れて、鼻腔の奥に残っていたアールグレイの幻臭が蘇る。結局自分の分にと淹れた紅茶は冷め切ってしまい、排水口に飲まれてしまった。


「おれは船長が新聞やら聞き込みやらでお伴していたから、アンタのことは知っているよ。他の奴らはバカだから頭がいいお姉さんとしか思ってないかもしれないけどな。だから、戦地帰りによくある他人を信頼出来ないってのも理解しているつもりだ」
「私は皆さんに一線を置いているように見えますか?」
「いいや、全く。自然に馴染んでいるし、流石演技上手なだけあると思うよ。でも別に不快ってわけじゃあない。やめろとも言わないし、そのままでいいと思う」


 最後のシーツが青空に広がってロープに掛かれば、風にたなびいた。はらはらと全ての白が風を受けて青空に昇ろうと、打たれている杭に気づかずに手を伸ばす。


「……部屋を出る際にベッドへ潜り込む間際、空のカップを手渡されたよ」


 白から声のした方を向けば、柔らかく笑んだペンギンさんが此方を見ていた。口をつけた理由はわかるだろ、と続けて言われるも私は何も返せなかった。


「信頼かどうかではないが、気を遣ってやれてるだろ。遠慮とかではなく、思いやりって部分で」
「……そうでしょうか」
「ああ。信頼しなくとも、あの人を思ってくれているならおれたちには十分だ」


 政府と、彼の初めの印象は同じだった。欲しいのは私の知恵、それだけだ。だけど、違いといえば。ペンギンさんの言うように彼には私なりに気を遣っている部分があるのだろうか。


「信頼っていうものは、コップの水だと言う奴がいるが……おれは種のようだと思う」
「種、ですか。信頼の度合いによって増減するコップの水嵩はよく聞きますがね」
「そうだ。種は初対面の人間にもあって、それを二人の信頼が育てていくんだ」


 私は想像する。彼と私の間の地面に植えられた小さな種を。無意識に双方が水を与えている。未だ目覚めていないその種は柔らかい土の中で芽吹いている。きっと、そうであってほしい。戦地では焼き払う芽も、彼とならゆっくりでも育むことができるのだろうか。
 今度こそ私は、信頼を寄せることができるのだろうか。


「そうだな……アドバイスできるところがあるとすれば、無理をして疲れているんなら少しだけ寄り掛かっても誰も文句は言わねェよってところだな」
「これはカウンセリングですか?」
「いいや、ただのお節介さ」


 柔らかいだけの声と、優しさを帯びる笑みを残して、ペンギンさんはシーツの隙間に消えた。人を知って、思いやって、信頼を寄せるなら。私もその信頼の芽のように成長途中なのかもしれない。しっかりやれよ、とはためいたシーツが私の頬を打った。



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