命の雑踏 | ナノ


 試してみた。何度も、幾度も。大人になった私はそんな戯言など虚妄だと知っているのに、真実だと見せつけたいエゴのためだけに……そうであってほしいという一縷の望みだけを求めてこの街で生存している。
 それも、今日限りの話だが。


「……じゃあ、契約成立だな」
「ええ。今日で出発なさるのですか?」
「そうだ。時間がねェ。さっさと身支度しろ」
「女の支度の時間くらい大目に見てあげないとモテませんよ」
「悪いな、そういうもんなのか。何も言わなくても寄ってくるもんでな」


 ああ言えばこう言う。憎いその笑みで一体何人の女が食い物になったのだろう。
 荷造りをしている私の目の前にあるアンティークの食器のいくつかが、瞬時に気味の悪いトルソーへと変わる。滅茶苦茶に継ぎ接ぎしたその塊は沈黙しているが、呼吸をするところから生きているだろう。彼の能力のことは知っているから、実力としては申し分ない。サイファーポールになりそこないの用心棒もどきをこうして倒して貰わないと、この先の私の身すら危ぶまれる。
 お気に入りのブランケットが彼に変わり、椅子へと腰を据える。長い脚を組んで息を乱さず、私が荷造りをしているのを見て口角を上げた。お互いに知能が高いと余計な会話もせずに済むのは有難い。


「しかしまあ、一応志望理由は聞こうか」
「志望も何も、そちらのほうから望んだのでしょう」
「腹は割って話した方が今後のためにもなるだろう、才女サマ?」


 才女。私の二つ名を知る人間は政府の上層部にしかいない。
 しがない司書として慎ましく暮らしてきた街の人は、私が政府に属していたことを知らない。平和で善良な人間で形成されたこの街で、私はいつから歪んだのだろう。


「もうその名で呼ばないでください。兵役は終わりましたから」
「そうだろうな。アンタの総指揮の元で大勝した戦争……最小の被害と最大の傷跡を残した功績はさぞ素晴らしかったろう」
「役目を果たしただけです」
「引き止める声も多かっただろうに、それを断ってまでこの街に戻っては時折重役のコンシェルジュになっていたそうじゃねェか」


 椅子に座る男が長い脚を組み替える。海賊でなければモデルをお勧めするところだ。端正な顔立ちと抜群の容姿は見るものを惹きつけ、頭脳の回転の良さから博士号でも取れるんじゃないかと錯覚する。だからこそ警戒せねばならない。油断ならないこの男は海賊で、これからは私の船長となる。
 だが彼が欲しいのは私の脳味噌で、軍から転落した憐れな女を経過観察したいだけだ。しかし勘違いされては困る。私は解雇されたわけではなく、兵役を全うしたからこそ望んで政府から離れただけだ。自分から退職届を出したに過ぎなく、残存を乞う上司からの圧力さえ振り切ってここまで帰って来たのだ。何が正義だ。汚職と隠蔽に塗れた権力帝国でしかない。


「テメェはおれに、何を求める」
「何故ですか?」
「別に忠誠を誓えってわけじゃねェ。だが無償でおれに奉仕する必要もお前にはねェだろ」
「ふふ、随分疑い深い方ですね」


 そんなもの端からあるわけないのに。信頼関係など、最初から築く礎さえなかったのだ。それに気付かないほど、この男も愚かではないというのに。
 自分から誘ったくせに、私を信じていない。政府が人の形をして手招いているようだ。


「見ての通りですよ。退役した後も政府から見張られていました。そこへ貴方が来たものだからこうして繋がりがあるんじゃないかと疑われたわけですよ。貴方が作ったオブジェ、見えないわけじゃないですよね?」
「なんだ、おれのせいだと言いたいのか?」
「貴方のせいですよ」


 必要なものを詰め込んだトランクを閉めるとやけに大きな音がしたような気がした。暗に貴方のせいで私も政府に裏切り者認定されたんですよと伝えるも、稚拙な知らないふりをする。計算してのことなのかまでは計り知れないが、行き場所を失くした私は彼につくしかない。
 それでも、構わなかった。そろそろ知らない世界を見るのも悪くないと思っていたから。めちゃくちゃに継ぎ接ぎされた、よもや人体だとは思えない塊が目を覚ます頃には家主を失った家で途方にくれるだろう。お気の毒に。
 しかし目を覚まさない彼等はまるで死んでいるようだ。呼吸はすれど、繋がる先の体は反対側に転がって同期の右腕とくっついているから各々呼吸するせいで不規則に蠢いている。死のオブジェ。目の前に悠々と座る男の二つ名に相応しい。


「……トラファルガーさんは、人が死んだら何処に行くと思いますか?」


 扉を開けると、あんなに晴れていたはずの空が泣いていた。まるで淑女が流すような涙を遮る傘に彼は入らなかった。鍵を閉めた私をジッと見つめている。隈を連れた鋭い双眼が、見定めるように。
 ほんの少し振り返って、見えもしないのに墓地の方角を見る。そこには私の母が眠っているが、もう何年も前からだ。今更涙を零すほどでもないが、それでも生まれ育った地と母の遺骨を置いて行くことには気が引けた。でもそれは利口ではない。私が彼のことを受け入れた時から、こうすることは決まっていた。海賊と繋がりがあると思われた、というのはただの口実に過ぎない。
 試してみた。あの戦争で。それでも私の求める結果ではなかった。ならば彼と。トラファルガーさんとなら、生涯解けるわけのない私の問いにも答えが出るだろうと結論付けたからだ。


「……さァな、おれにも教えてほしいところだ」


 しっとりした傘の隙間からそちらを見つめると、顎髭の生えた口角が心なしか笑みを象っていた。それがどことなく私の柔らかい所へ引っかかるものだから、小さな跡だけが残った。


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