命の雑踏 | ナノ




「───ねぇ、ママ」


 私の一番古い記憶は、父の葬儀が終わって一月が経つ頃にある。幼かった私は死という概念を曖昧にしか理解しておらず、心の整理が出来た母親同様変わらない日々を過ごしていた。
 父や親族が呼ばれた北の海に住む従姉妹の結婚式へ向かう最中に抗争に巻き込まれて亡くなったと後に聞かされた。たまたま具合の悪かった母と幼い私は自宅にいたので難を逃れたが、それを喜べる程の見返りはない。


「どうしていい人からしんじゃうの。おじさまもパパもわるい人じゃないのに、しんじゃうの。なんで?」
「それはね、神様が天国を作って、その街にいい人を置きたいからよ」


 冷たいだけの墓前で困ったように微笑む母親が、死を理解できない子供に言い聞かせるように優しい嘘を吐く。誰もいない夜道は静かで、近くの森の小さな入り口からは虫のさざめきが聞こえる。真っ暗でも星や月の明かりで微かに母の顔が見える。その顔が朧なのは最早過ぎ去った過去で、幼い私の記憶が蘇らないからだろうか。繋いだ手からは温もりが移るのに、肝心なものは全て靄が掛かったまま隠されている。
 母の問いに満足できなかった私は眉間に皺を寄せて首を傾げた。視界が少し傾く。


「かみさまってわるいひとなの?」


 私から「いいひと」である父を奪った「かみさま」は悪い人ではないだろうか。母の言うその街はいい人で溢れているのなら、私の知るいい人はもっといるのに神様はいらないのだろうか。
 罰当たりな問いをこぼした私を母は笑って窘めた。


「そんなことはないわ。私達もいつかは天国へ行くのだから、きっとパパ達にも会えるわよ」
「ねぇ、ママ。てんごくって、どこ?」
「空を見てご覧なさい。人は死んだらね、星になるのよ」


 そうして見上げた夜空の煌めきを覚えている。輝く星々は隙間を埋めるように犇めき合っていた。
 綺麗と思った次の瞬間、掌を返したような畏怖に私の脳内は支配された。母から告げられたお伽話と自然の脅威が重なり合う。天上に吸い込まれそうな錯覚に、母の美しいドレープを皺が出来るほど掴んだ。

 そこはおやすみを告げる夜の帳ではなく、今まで死んで行った亡霊が住まう逆さまの帝国だった。


「───……あら、ニイナちゃん!?」


 久しぶりにこの潮風を浴びて、重たいトランクを轟音とともに引きずった気がする。ああ、三年も離れていたのに変わらないなという感想ばかりが芽生える。


「お久しぶりです」
「もう体の方は大丈夫なのかい!?」
「ええ、すっかり」


 病気療養という名目で、私はこの地を離れていた。母が死んで間もなかったから、街の皆も余計な詮索をしてこなかった。ましてや生まれてからお世話になった人ばかりであるから、私が細かいことを言わない子供だと知っているからありがたい。もう子供ではないが、私と一緒に歳をとると幼い面影ばかり追うのだろう。今回ばかりは深く立ち入られると面倒だ。


「おかえり、ニイナちゃん。任されていたお家の手入れ、ちゃんとやっていたよ」
「すみません、お手数ばかりお掛けして……」
「そんなことないさ。時間ばかりある奴に任せておけばいいんだよ」
「頼りにしています。これ、少しばかりですが」


 離れている間、隣人に傷まないようにと鍵を渡して手入れを頼んでいたのだ。盗る物なんてほとんど無いし、昔から交流があるから信頼がある。こういう点では近所付き合いは大切であると学ばされる。家は代々小さな図書館を経営しており、手入れと言えば主に本の虫干しだ。重労働だろうに、定年を迎えた隣人は時間があるからと進んでかってくれた。


「暫くしたらまた図書館を再開させますね」
「無理はしちゃダメだよ。最近物騒なんだ」
「西の方で大きな戦争もあっただろう。その残り火でどこもかしこも不安定になっている」
「そんな時化た話はいいだろう。お母さんに挨拶してきな」
「ふふ、ありがとうございます。そうしますね」


 いい人間ばかりの平和なこの街に戻ってこれて良かったと素直に思う。私以外にも船から降りた人がいたのか、数人の観光客と思しき人がホテルへ入っていく。あんなところにも建ったんだ。近くの八百屋の品揃えは変わっていない。玄関先のポピーに水滴が乗っている。
 あとで母の墓石にでも会いに行こう。死んだ人間は星になると言った彼女の肉体は冷たい土の中で腐っていく。それとも魂の話なのだろうか。それなら、死んだ母は空でかつて愛した父と再会できたのだろうか。そうならそうと言ってほしい。


「ニイナちゃん、困ったことがあったらすぐいうんだよ」
「そうそう、病み上がりなんだし」
「お母さんの代わりって年齢じゃ無いかもしれないけど、頼りにしてね」
「……ありがとうございます。お気遣い痛み入ります」


 本当に、この街は善人ばかりだ。猜疑心に塗れた私の心を露わにするほどに。
 この澄ましたような笑みは、三年前の私と果たして同じだろうか。鋭敏な嗅覚を持つ野良犬だけが怯えたように尻尾を巻いて逃げた。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -