命の雑踏 | ナノ

 ローは、その場を支配する彼女の弁舌に身震いするような思いだった。言葉一つ、たったの一言でその場の人間を操って見せたその手腕を。確かにニイナの言う通り何かに頼らなければ状況は変わらないし、なにせ最悪の結末であるバスターコールも目の前だ。一夜考える時間にしては中途半端で、余計な思考を与えないのも策士らしい。少ない手の内でよくここまで詰めた物だと、彼女の盗聴用のイヤリングから漏れる声を聞きながら思った。


「それで? 勝算はありそうなのか?」


 この辺の海域の空気は特に澄んでいて、普段見れないような小さな塵芥に近い星屑まで鮮明に夜空というテーブルクロスに散っていた。それを目で追うのがニイナの習慣であり癖だと知っているローは甲板で一人佇んでいる彼女の背にグリューワインと共に投げかけた。


「どうでしょう。彼が頑張ってくれればいいのですが」
「随分と彼奴頼みじゃねぇか。妬けるな」
「貴方という素敵な殿方からの確執……光栄ですね」


 ニイナが受け取ったマグカップは取っ手すら熱く感じられそうな程だった。瓶ごと温めたのか、ローはその細身のボトルを持っている。アルコールと果実の匂いが立ち昇って、消える。
 僅かに上がった口角はそのままに、視線はすぐに夜空へ戻された。自分に興味を示さない不満はあるが、沈黙が心地良い。正直ローもこの作戦が失敗することはないと思っていた。ニイナだから、という不透明な理由ではなく内容自体が確固たるものであったからだ。例え誰がその作戦を口にしても従うほど、綿密に立てられた導きの針路。いくら予想外のことが起きようと瞬時に自分の有利な場面や作戦の軌道を元に戻すことに優れているニイナは口だけではない。ローはそこに信頼をしている。そうやって幾度も賭けて己を預けていたことを、ニイナは知っているのだろうか。
 大きな岩陰にポーラータングは停泊していた。島側からこちらは見えず、長く潜水するための燃料を節約するためであるが、ニイナにとっては好都合だった。よく晴れた、空気の澄んだ夜だった。月明かりが明るいくらいで、手元が良く見える。かつての戦友が瞬くその空にパトリックはいなかった。


「馴染みの情報屋を駆使しましたよ。あの屋敷の見取り図と大凡の引き篭もっている部屋も特定しました」


 相変わらずニイナの手腕は素晴らしいとローは思う。こんなご時世でなければ、秘書系統の仕事にでも就いていただろう。平和な職種で食いっ逸れることのない。ローから入団を促したとはいえ、いつでも逃げ出せる時間はあった。例えば島々に降り立ったときに自由行動を許したし、姿が見えずとも追わなかった。しかし最後には自分の意思で戻ってくる。そのことこそが、ローの優越感を満たしていた。


「街の中の様子は先程お話しした通り、衛生状態や士気が芳しくありません。市民は大幅に減り、近親による交配により奇形や死産も多いです」
「次の世代がいねェことほど、堪えるものはないだろうな」
「状況が更に加速させていますね。そこを突いていけば自ずと陥落します」
「愛しのパトリックは操れなかったと?」
「いいえ。彼ではなく、周囲ですね」


 ニイナが直接話したわけでもない。パトリックは流れ者だから全ての市民や仲間の心を動かすには役不足だ。明日、代表者を引き連れてくるはずだとニイナは睨んでいる。そこで直接説き伏せれば良いだけだ。何事もこの海のように波風立たずに穏やかに過ぎていくだろう。オスカーを倒すまでの辛抱だとニイナは思う。


「お前はオスカーが何故この地を離れないと考える?」


 真紅を飲むニイナの喉が僅かに動くのを暗がりでも捉えた。ローも冷めつつある液体を嚥下すると、食道を通って胃の在り処が熱され存在を証明する。瓶を持つ手に当て布をしているが、それ越しでもじんわりと温かい。冷えた夜半をどう過ごすつもりかはわからないが、佇むことを咎めない代わりに留める口実だ。お互いに中身は半分以上ある。疑問を投げかけてもその熱は胃の中で燃え続けることができるだろう。


「それだけがわかりません。パトリック曰くここが彼の故郷だと言うなら何かしらの理由があるんでしょうが、突き止めにくいですね」
「郷土愛があるなら故郷を守ろうと宿敵を追い払うのは頷けるが、市民を犠牲にしたりしないはずだ」
「そうですね」
「縄張り争いで僅差で勝利したものの市民の犠牲者が三割……そこから更にオスカーの束縛により脱出失敗の上爆死したのが半分以上。もはや残っている市民は全盛期の三割と言われているな」
「ええ。それに一昨年は不作と感冒が重なって多くの死者を出しています。オスカーも生きているといえど、こうも情報がないと……」


 落胆するように肩を落とすニイナは状況に、というより己の知識欲が埋まらないからだろう。その子供のような残酷なまでの純粋さに、ローはひっそりと笑った。


「案外もう死んでるかもな」
「パトリックは彼らにとってもまだ余所者の意識があるでしょうから、知らされていないかもしれませんね」
「賭けるか?」
「賭けるものがありません」
「利口だな」


 選択肢はまだ無数にある中で賭けるのは利口じゃないと鼻で笑えば、そう言うだろうとわかっていたニイナが笑みを返す。
 二人とも息を白くして夜長にどうでもいいことをただ話していた。そんなことをするなら睡眠を数分でも長くした方が良いだろうに、冷えたグリューワインが手元にあるからとどちらも動かない。特にローは漸く表舞台に立つシナリオを背負っているのだ。しかし理由にも満たない心地良さだけが夜風に拐われる。それは二人の背を押しもせず、小さな波の飛沫となってポーラータングを揺籠だと錯覚させる。
 この作戦が終わればあとは目的地に着く道中で精算がつく。最後の大仕事であるが、半ばニイナの作戦の通りに進んでいた。勿論拒否されれば力付くになるのだが、そうなるであろう未来の可能性は低くなってきている。


「どちらにせよ、市民や彼らがこちらにつけばもう勝ったも同然です」
「状況の打破だけでなく嘘のバスターコールのリミットがあれば従うしかねェだろ。逃げ出せないなら俺らかオスカーを倒すまで祈るしかない」
「そうです。全ては順調。貴方の目的までそう遠くありません」


 正直ローも初めは上手く思い描けなかった。ニイナの作戦に隙はなく、完璧なシナリオだと思っているがそれでもそれはあくまで空想上のものだった。しかしニイナはレールまでしっかり敷き、進みやすいように道を切り開いていく。口だけではない。ハートのクルーの一人としてローを高みへと連れて行く。
 あまり多くは語らなかった。だがニイナはすぐにローの一言を七武海の一人と結びつけ、こじ付けるために後ろにいる四皇の討伐を絡めた。繋がっていることはローも知っていたが、ニイナはもっと前から知っていたのかもしれない。いつかは全容を語らなければいけないとは思っている。ローの中に燻る確執とニイナの憶測に齟齬があってはいけないからだ。ここまで他人に何かを話して共有してほしいと願う自分の執着心にも似た気持ちに自嘲して、風味の飛んだワインを飲み干した。
 東の空の境目が薄く白んできた。夜明けまでは程遠いが、光が差し込んできたのだろう。ニイナが小さく入りましょう、と呟いた。体を温めるためにと持ってきたはずが、長居させて更に冷やすだけの代物になってしまったのは反省しなければいけない。ニイナの部屋よりもローの船長室のほうが暖房設備がしっかりしている。前に一度ソファベッドで寝たがそこまで寝心地は悪くなかった。そんな言い訳がましい誘い文句を言えばニイナはどう返すだろうか。船内に通じる扉までの短い道中でローは考える。ニイナが行儀悪く歩きながら飲み干すマグカップの葡萄の芳醇な香りが夜風に乗って消えるまでは待つと決めて。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -