命の雑踏 | ナノ

 先に動いたのは行方不明となり、とうの昔に殉職扱いで除隊したパトリックだった。遅れを取ったとニイナが身構えて、トリガーへ再度指を掛ける。しかしそれも杞憂に終わるどころか、今すぐにでも発砲可能なその銃口を厚い胸板で受け止め、気にすることなくニイナの肩を掴んだ。


「ニイナ様……! 息災で……こんな所でまたお会いできるとは!」
「パト、リック……?」


 今にも感涙を流しそうなほどの瞳の輝きだ。この所海賊稼業に身を染めすぎたせいか、自分が才女の立場で崇められていたことが記憶の隅に追いやられていた。奮迅せよと鼓舞した兵のその魂は摩耗することはない。国や自分のために贄となった過去は焦ることなく、目の前のかつての兵は今だにその精神が燃えている。この人と共に任務に当たったのはたったの数回のはずだが、変に懐かれてしまったらしい。


「貴方こそ、生きていたんですね」
「ええ。船が転覆したのを助けていただいて……」
「パトリック!」


 低い男の唸る声がする。ペンギンを抑えている男だった。それに束の間の夢の再会から目覚めようとする彼を、ニイナは引き止めるため頭を回した。向こうまで聞こえない程度の小声で囁く。


「実はオスカーと敵対していた海賊に当方も被害を受けているのです。助力を願います。あなた達の部隊からロッキーポートの状況を聞いていたので探るような真似をしてしまったのは詫びます」
「ニイナ、さま……」
「どうかオスカーとの対談の席を用意していただけないでしょうか。見ての通り私は現在ならず者です。それでも信用ならないなら私一人と貴方達全員で……」
「無理です、ニイナ様。船長はもう誰にも会いません。扉の前にある食事に手をつけていることから生存していることは分かっていますが、何分私でさえ船長の姿を暫く見ていないのです」
「そんな……」


 眉を下げるニイナの痛ましい表情を振り払うようにパトリックが首を振った。頑とした拒絶だった。もはやオスカーと正攻法での対面は望めそうにない。ニイナは作戦の変更を余儀なくされ、不用意にこの島への入島が出来なくなってしまう。次はない。なんとしてでも繋がないといけない。


「船長には恩があるのです。あの海で溺れて死ぬか、今まさに海王類に食べられるかの運命から救ってくださった。勿論裏切って帰ることも出来ました。しかし本当にそれでいいのかと自問して今に至ります。もう軍に所属していないというなら、ここは何としてでも貴方の顔に免じて逃がしますので……どうかわかってください」
「.…貴方はそれでいいんですか」

 
 稀に外出する機会もあるのだろう。だが不定期であればいつまでも待つわけにいかない。珍しく食いつくニイナの違和感を覚えるものはおらず、海の中で耳を澄ませてほくそ笑んでいる者だけが愉悦そうに茶番を楽しんでいる。


「いいわけないじゃないですか。仲間も、市民も薄々感じています。ですがこのロッキーポートは船長の故郷でもあるんです。もしかするとそれが原因で此処から離れないんじゃないかと思っています。それに……最早誰も船長に逆らえない..…もう逃げ出せないんです」


 パトリックが首に巻いていたスカーフを下げると、オスカー海賊団のマークが赤い刺青のように肌の上に乗っていた。しかし普通の刺青と相違があるのは霧のように不安定で蠢いているということだった。


「船長の能力です。船長から一定の距離を離れると爆発します。逃げ出した仲間や市民が沖に出た瞬間に真っ赤な火花となって散る様子を見て以来、皆怯えています。残った僅かな市民も、もう限界です」


 脱力するように項垂れる男はニイナより背丈が大きいというのに小さく見えてしまう。痛ましいその姿に心打たれる。何も言わなくともその瞳は助けを欲していた。かつての指揮官として先導する救済の言葉を投げかけなくてはいけない。そう、才女の救いの手だ。
 彼の心はもう軍にはない。それと同時にニイナもである。今のニイナにとって最も優先される使命、それは上の望む結果を出すことだ。彼の求める救済とニイナが導くフィナーレ、それを両立させる最善の結果、才女の、救いの手立て。


「いいでしょう、お約束します。貴方がたやロッキーポートの市民全てを救うとお約束しましょう」
「ニイナ様……」
「私になら出来ます。貴方なら知っているでしょう。海軍は明後日の朝にはバスターコールを検討しています。防ぐ手立てがないなら私の知恵を使ってください」
「パトリック! 何をしている……かつての仲間か何かは知らないが、その魔女の言葉に騙されるなよ!」


 迷い始めるパトリックの背後からペンギンを抑え込む男が吠える。隙あらば暴れようとするペンギンの相手で手一杯で、詳細な話までは聞こえていないらしい。また揺らぎつつあるパトリックだが、ここまでくればもうニイナの掌で踊る傀儡のようなものだった。


「お前は知らないかもしれないが、この方なら我々を導いてくれる……! 今まで幾度も救われたんだ!」
「それはお前が味方だからだろう! それが今はどうだ、本当に味方かどうか考えろ!」
「俺たちはアンタらの協力が欲しいだけなんだって!」
「うるせぇ! 雑魚は黙って───うおっ!?」


 ペンギンが暴れると男も激昂して更に拘束をきつくする。一点しか見えていない男の脇腹に、気絶していたはずのシャチが渾身のタックルをかまして転ばせた。抜け出したペンギンとシャチが男からある程度距離を置くのを確認したニイナがゆっくり歩んでいく。砂浜に部外者の足跡がはっきりと残った。
 そこへ一羽の鳥が、螺旋を描いて降下してくる。ニイナが腕を差し出せばそこへ降り立つ。その細い足に括り付けられた撮影用の電伝虫を外し、嘴に束にした札を咥えさせれば用は済んだとばかりに飛び立っていった。ニイナはその電伝虫が撮影した画像をパラパラと眺める。情報屋から借りた上空撮影に長けた新しい情報収集の仕方だ。確かに市街と言うほど広い街並みはかつての美しさを損ない、閑散としていてそこ彼処に汚物やゴミが溜まっている。生気のない人々の表情は虚で、体型や服飾を見てもとても裕福には見えない。
 そう、ロッキーポートは衰退の危機にあるのだ。


「……信じなくても結構です。しかしお世辞にも衛生状態は良くないし、薬品の類も底をついているでしょう。何もなければ半世紀は持つかもしれませんが、流行病が流行れば一年ともたないでしょう。その温床はすでに育ってきていますね」
「ぐっ……!」
「あなた達のその付けられた能力はオスカーを気絶させることによって解除できるでしょう。そうすれば大海原へ何処へでも行けます。ですが時間はありません。先ほども言った通り海軍は明後日にでもバスターコールを検討しています」


 淡々と事実を述べるニイナにパトリック達は押し黙った。否定するだけの材料を持ち合わせておらず、彼等も滅亡の影を見ているからだった。


「選択の余地を与えましょう。この箱庭で死に行くのを甘受するか、もう一度海へと出るか。決めたなら明日の同じ時間、ここで会いましょう」


 ニイナがゆるりと手を挙げる。薄い皮膜が空の色を一段と濃くして円状に広がる。それが三人を越えたところで忽然と姿を消した。それが弾けてしまえば砂浜に残されたのは幾つもの難題を抱えた二人の男と、砂上に紛れる三つの小石のみだった。



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