命の雑踏 | ナノ

 静かな夜だった。あれほどの熱狂を生み出した作戦会議が終わってまだ数時間しか経っていないと言うのに、この船は静寂と波の音だけが支配している。次の作戦を事細かく話し、更にクルーの士気を上げたニイナの手腕は俺よりも勝る。そこだけはどう足掻いても培った経験の賜物であるし、超えられないのは重々承知してはいるが、少しだけ遅れを取った気になる珍しい自分に驚いていた。個人の考えとしては個々の能力に差があるのは勿論、誰かに対して及ばないところがあるのが人間だと思う。例に漏れず自分もそうである。しかし頭では理解していても、感情が追いつかないことなど。熱くなって鼓動が早くなる胸の中央を、鈍痛もないはずなのに服に皺を作ってしまうのは、何故か。
 ただなんとなく。そう、気の赴くままに。ニイナに会いたいと思った。別に夜這いがしたいとか、焦がれているだとかでは決してない。ただ昼間の演説を、二人で語らいたいだけだった。寝ていれば退散するし、都合が悪ければ無理強いするつもりもなく。ほんの少しの好機と高揚感。そう、それだけだった。
 僅かに扉が開いて暗い廊下に光の筋を溢している。導かれるようにそちらへ寄り、促されるままに扉を開いた。もしノックや扉が軋んでいたら。きっとそこで俺は無知のまま生涯を終えていただろう。


「……お久しぶりですね。相変わらずお変わりなく」
「───御託はいいよォ。ニイナチャン」


 その声に背筋がぞわりと音を立てた。海賊なら誰でも知っている。特に危険度を数値化するなら桁外れだ。強敵でもあるその男の俗称は、大将「黄猿」。
 ニイナはかつて政府にいたことがある。その事実を知るのは一部のみだが、政府と繋がりの深い大将クラスなら知っているだろう。その口上で切り込んでいくならニイナと黄猿は少なからず親交があったと見る。その現実を目の前に突きつけられた瞬間、言いようの無いタールのような黒くて重たい物質が腹の奥底に生み出された。


「堅苦しい挨拶も腹の探り合いも良しましょうや」
「話が早くて助かります」
「才女様の次のやんちゃはなんだい?」
「……ロッキーポートの均衡を崩します」


 黄猿からの返答はなかった。支配するのは静寂。ニイナの一言で琴線を切れる手前まで張り詰めたかのような痛いくらいの一抹だった。それはニイナの覚悟と命の重さでもある。
 先のニイナとの作戦会議で上がった島の名前だ。クルー達はあまり知らないかもしれないが良くない噂が飛び交っている。あとは内々で滅ぶだけの島にメスを入れることを決意したのはニイナだった。


「本気で言っているのかい、お嬢ちゃん」
「ええ」
「……賢いアンタならわかっていると思うが、アンタ一応”囚われのお姫様”止まりになっているんだ。それを無駄にしちまうんだよぉ? 今度こそ誰も擁護できない」


 電話の向こうとはいえ、威圧感は感じられる。それが正義の主柱へ跪く地位であると知らしめるようだった。頬の産毛がチリチリと舐めるように焼ける。自ずと眉間に皺が寄っていることに気付くのはもっと後になってからだ。
 未だに行方不明扱い、それか辛うじて海軍の一部にはハートの海賊団が一般人であるニイナを誘拐したと思われている。だれも「才女」を疑わない。秘匿された才女の立場と同じくして、ニイナは許されている。でもそれもこれまでだ。
 あの万人を殺した戦争で名付けられた才女という免罪符を、拉致された立場という被害者である証拠を、ニイナは捨てる覚悟をとうに決めている。


「ふふ、今まで擁護していただき誠にありがとうございます」
「分かっているんならやめときなァ」


 通話の部外者である俺にまで感じる強者から与えられる生命の危機感というものをニイナは呆気なく笑い飛ばす。それに毒気を抜かれたのか黄猿も警告とするには緩やかな返答を返した。
 音のない夜の帳の中で風もなしにカーテンが捲れるような、騒ついた音が耳奥でする。ふつりと撓んだはずの琴線が、今度は張り巡らされるように目の前に押しつけられた。通話の先でニイナの表情など垣間見えずとも、その不穏さだけは本能で感じ取れただろう。


「───恩を仇で返されると思っていませんか? 逆ですよ。私の立場の犠牲の上に、あなた達は英雄を生むんです」


 海軍はいつでも海賊から民衆を守るための正義であり、導くための光であり、絶対的な安全性だ。常に欲している名誉は「英雄」で、周囲へのアプローチでもあるしイメージ付けるためには必須事項である。清廉潔白であり続けなくてはいけない海軍でも日夜汚職が騒がれることで頭を悩ませているだろうし、島ごと救済したと新聞で騒がれれば海軍の面子も救われる。少しばかり俺たちの問題に目を瞑ってくれれば、海軍にデメリットのない優秀な称号が付く。


「……サアファーポールに追われるかもよォ? あのニコ・ロビンも仲間を守るために諦めかけたという」
「ああ、あの悪魔の子の。でも彼女諦めませんでしたよね。彼女は悪魔の子ではなく人の子と証明されましたでしょう。私も才女ではありませんので。政府も貴方達もいい夢見れたでしょう?」


 ニイナは戦闘能力を持たない、政府の傀儡のはずだった。その傀儡は意思を持った人間という事実を見誤った政府はニイナの手腕を恐れて秘匿した。その手中から溢れてしまってさぞ慌てふためくかと思ったが、戦闘能力がないという欠落ばかりに囚われて優先的に取り戻そうとしない様に拍子抜かれていた。荒削りこそあれど、ニイナは既にスナイパーだ。油断している敵の土手っ腹に一発かます度胸も知恵も手腕も全て経験済みだ。そのニイナが、今更何を恐れるのだろう。
 海賊と海軍の執念に政府が絡むのも厄介だが、ニイナはもう躊躇わない。俺たちも止めはしない。共に進み、共に戦うことなどこの海に出た時から承知の上だ。誰しもの前を歩き従えたニイナが歩みを共にしてくれるなら、それに応えるべきであろう。
 黄猿も最早止める言葉を持たないのか電伝虫は仏頂面のまま黙りこくっていた。無駄だと思ったのか、それとも海軍にとっても悪い話ではないと思ったのか。口先だけで笑ったニイナがまるで悟らせるようにゆったりと声を紡いだ。


「一週間後の明朝、そこそこ強く、あまり賢すぎず、昇進しても構わない者を遣わしてください」
「……偽物の英雄ってわけかい?」
「いいえ、本物ですよ。何せ島民を守るとなればその人は英雄でしょうに」
「今回だけだよォ〜」


 ガチャリ、と通話が一方的に切れたものの、了承を得た返事に兎も角作戦は遂行できそうだと息を吐く。これまで正常に呼吸していたかどうかは定かではないが、漸く生命活動を再開させたような心地になる。ニイナも必要のなくなった受話器を置いてから振り返った。驚きはしないことに当に俺がいることには気付いてたのだろう。
 ただ。ランプから溢れる柔らかな光を背にしたニイナの。
 口元は安堵したように優しく弧を描いている。ふと思い出すのはこの部屋を通り越した、あの水平線の手前に置き去りにされた猜疑心を。あの時はいくら才女と謳われようと女一人手玉に取るくらい容易いと楽観視していた。それを嘲笑うかのように否定するニイナに自分が如何に浅慮だったかを突き付けられた。身に余るほどの怪物を今は懐柔し、向けられる矛先は自分ではないと確信していてもなお、その才能を目前にすると嫌でも彼女は「才女」であると知らしめられる。
 普段は叡智を感じさせるその瞳が、不穏に爛々と輝いている。


「そう不安がらないでください。言ったでしょう、貴方をそんな気持ちにさせるのは、私だけで良いと」


 嗚呼、最高の殺し文句だ。生涯互いに纏わり付く霧のような感情。二人しか知らない毒のように甘美な一言。
 そこで俺は当初の予定通り扉を閉めて入室する。だが当初より上乗せされた熱狂を、椅子を引いて着席を促すこの部屋の女主人は鎮めてくれることが出来るのだろうか。夜はまだ長く、目的地までは程遠い。


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