命の雑踏 | ナノ


「おい! どうした!!」


 慌てたような声と響めき。次いで外の匂いに乗せた血の香り。少しだけ私も焦燥感が煽られる。
 バタバタと他の人が床を靴底で鳴らすそれに紛れて人垣を覗けば、血だらけのベポさんとシャチさんがお互いの肩を支えながら帰還するところだった。ついには支えきれなくて倒れ込んだその体をペンギンさんが抑え込むことで床と接触には至らなかったが、庇うようにして呻く様は痛々しい。何があったのか。シャチさんより軽傷に見えるベポさんにもう一度問うと、その大きな目を潤ませて最悪の事態を呟いた。


「……キャプテンが……連れ去られちゃった……」


 その言葉が即座に脳に反芻し理解したのは誰が最初だっただろうか。彼は能力者で、ルーキーと期待される程の力量だ。なのに、なぜ、どうして。疑問と動揺ばかりが渦巻き、周りの仲間たちも呆然と立ち尽くしている。初めてのことのようで、右往左往するばかりだ。


「……とりあえず、二人は治療室へ行け。ウニ、クリオネ、やってやれ」


 僅かに震える声で指図したのは、彼との仲も長いペンギンさんだ。動揺すれど、ちゃんと今やるべきことを咄嗟に指示できるのは良い副官だ。私はただ、シャツの裾を握り締めることで手一杯だというのに。
 不意に、名前を呼ばれた。応えるように、半ば無意識に顔を上げればペンギンさんが強張った顔で真っ直ぐこちらを見据えていた。


「頼みがある」
「……聞きましょう」
「船長を、この船のキャプテンを……あの人を、取り戻してくれ」


 言われた言葉は願うように脆くて、縋るように熱かった。だけどもすぐには頷けなかった。私は船員だ。ペンギンさんは言われはしなくとも副船長の座についている。なら指揮をとるのは彼の役目で、それに従うのは私の役目だ。頼むのは間違っているし、彼の後ろでそれを聞いている仲間達はどう思うだろうか。
 だけどそれ以上に。ペンギンさんは悟っていたのかもしれない。この状況と自身のプライド、打開策と指揮官を天秤にかけた時に傾く先を。ならここで断るのはペンギンさんを全て否定することになるかもしれない。なにより、ここまで頼りにされるなら。


「……承りました。いいでしょう、ハートの海賊団に歯向ったことを死を持って償わせましょうか」


 恐怖と動揺を隠すように、怯える心と仲間を奮わせるように。私が不敵に笑めば、彼らも響めきから徐々に士気の上がる声を出す。
 才女の私がそっと寄り添う。さあ支配しましょう、征服し蹂躙しましょうと囁く彼女を宥める。まだ興奮するには早い。まずは状況把握からだ。足を治療室へ進め、馴染みの情報屋を如何に酷使するか。回転を始める頭に鼓動が熱を持ち始めて来た。





「今晩は、ミスター」


 祭りの喧騒を掻き分けて漸く座れた席に腰を据えて深く息を吐くと、凛とした静かな声が喧騒にも負けず脳にまで届いた。振り返れば背筋が伸びた女性が一人座っている。ワンピースから覗く白い頸が艶かしく、細い腰は思わず触れたくなるほどだ。だが、彼女は正反対を向いている。なのにスッと鼓膜を震わせたのは何故だろう。今日はフェスティバルで五感は全てそちらに奪われ、花火まで打ち上がっているというのに。
 いや、この声を自分は知っている。かつてはいつも聞いていた。敵の襲撃に合おうと、降り注ぐ弾丸の雨の中であろうと、砲台が飛び交う最中であろうと聞こえた声だ。訓示により激励されたあの声を、残虐に蹂躙する許可を下すあの声を───何より近くで聞いていたあの声を、どう、間違えよう。


「……ニイナ、さま……」
「お久しぶりですね。少し恰幅が良くなりました?」


 揶揄するように笑む美しい横顔が、花火に照らされた流し目を寄越す。何故ここに彼女がいるのか。故郷に帰ったと聞いたが、旅行だろうか。だがその考えは直ぐに否定される。
 彼女はいつも自分を階級か副官と呼んでいた。褒める時や休暇の日は名前で呼ばれる事もあった。それはなんだか特別で、何処か甘さを含んだものだから、儚いひと時の想い人として心を寄せた事もあったものだ。だが、彼女はいま。まるでビスクのように無機質で、ガラスのように澄んだ瞳が花火に照らされ、赤い唇が弧を描くそこから齎された蜜は。


「……そ、ういう貴女はお綺麗になられた。前よりも、ずっと」
「ありがとうございます。そう見えるのはまだ味わった事がないからかもしれませんね」
「なにを、でしょう」
「貴方達には謝らなければなりません。指揮官は隊を引き連れる頂点であり見本。その指針となる私がまだ……体験したことのないこと」


 細い背もたれのフレームをなぞる指先が悩ましい。ネオンよりも優しく、月明かりよりは騒々しい光で照らされた彼女が鮮烈に焼きつく。その言葉と共に、脳内のフレームがまるで固定されたようだった。
 ああ、その言葉は妄想を捗らせる甘美な毒だ。ワンピースに映えるその柔肌だとか、淑やかなその声だとか。誘うような瞳が悪戯そうに細まれば、嗚呼神よ。貴女は何故私をここまで残酷に焦らすのでしょうか。


「ゲームをしましょう」
「ゲーム……?」
「簡単なことですよ。かつて私たちもやりました。敵城に攻め入るだけです」
「ああ、あの時の……。素晴らしい作戦でした。あんな短時間で落城させ、短期で勝敗を決した戦争なぞなかなかお目にかかれませんから……」
「今回攻め入るのは≪私たち≫で、防衛するのは≪貴方たち≫ですよ。今度こそは私が直々に首を落とせると思うので、期待しててくださいね」


 言葉の真意を汲み取る前に、いつのまにか彼女のそばに二人の男が寄り添う。それでも目は釘付けされたように離せない。視界の端で男達がぼやける。その輪郭の隙間に見えたジョリーロジャーにアラートが鳴り響く。だけれども、彼女から目を逸らす事が出来ない。まるで、支配されたかのような。


「さようなら、ミスター」


 彼女が背を向けて歩き去った時、まるで泡が弾けたように夢から覚めた。ここで漸く自分は、彼女が観光でこの場にいる訳ではないと知る。そして全て知っていることを。
 祭りの喧騒も花火の振動も、全ては己を絶望へと追いやる儀式のように思えた。アジトへ駆け出す足が縺れそうになりながらも、電伝虫に向かって怒鳴る。自分は少し金稼ぎが出来れば良かったのに。それが、むしろ金以上のものを刈り取られることになろうとは。

 あれは、真っ向からの宣戦布告だった。





「……まさか、ニイナ様が貴様の所にいるなんてな」


 その言葉に思わず笑ってしまいたくなる程だった。ただ切れた口の端のおかげか、少しばかり上向いたそれで誤魔化せたようだった。
 この男がかつてニイナの副官だということには気付いていた。そして今や大規模な賞金稼ぎグループの用心棒など、笑わせる。
 初めは正直迂闊だった。シャチやベポがフェスティバルの屋台から漂う匂いにつられる様を遠くから見ていた時、浮かれる人混みの中から海楼石の手錠を嵌められた。力が抜けて立てなくなったおれを抱えるようにして一人の男が肩を貸すが、嗅がされた薬品により意識は朦朧としていた。気付いたらこのザマで、側に二人がいないことから無事に帰船したことを祈りたい。拷問が目的なら捕縛されているはずだし、何時間も経った今になってもその気配がないことから目的は首だと知った。常に見張りはいるが、親玉らしき人間には合っていない。まあ、後はこの状態のおれを海軍に差し出せばいいのだからボスが出てくる幕はないのだが。


「……お前らの麗しい才女様は行き先さえ教えてくれなかったのか?」
「いつのまにか戦場を去られていたからな。だが昔の戯れで終戦後は故郷に帰ると仰っていた……貴様の船ではないことくらい知っている」


 語尾に苛立ちが含まれ、持っているライフルが物騒な音を立てる。


「捕虜か。それとも身代金が目的か」
「……アイツに会ったんなら、わかるだろう?」


 軍人はありとあらゆる耐性がある。己の肉体と精神面を確固たるものにし、拷問や懲罰に屈しないよう訓練を受けている。それを軍から抜けた後でも続けていなかったためか、はたまた元から挑発には弱いのか……。この男の琴線に触れることは、容易かった。


「黙れ……! 貴様には理解できないだろう。彼女の恐ろしさを、彼女の素晴らしさを! ニイナ様は世界を導く黎明なる神となる!」
「お前があの女をどう思おうが構わねェよ。おれは過去の男のことは気にしないタチなんだ。おれはクルー達と共に海賊王の椅子に座るだけ、ただそれだけだ」


 視界が大幅に揺れ、脳内へ鈍い音を直接的に届ける。次いで襲ってきた痛みと血の味に、ライフルで頬を殴打されたと気付いた。無駄のない所作は流石軍人仕込みだと言うべきか。だが、こんな優しい挑発で簡単に激昂するのは頂けない。それこそ、ニイナが見たらなんと言うのか。
 コイツは、軍は、政府は。ニイナという女を買い被り過ぎているような気がする。積みあがる度に過去の栄光に縋り付き、その栄誉を持ってしてニイナを神格化していった。過剰なほどの信仰、あの女の声一つでその命さえ抛つことを刷り込まれている。改めて身を以てあの女は恐ろしいと知る。
 ニイナが仲間になって半年と少し。その側面さえ見なかったおれが語るのは烏滸がましいだろう。だから、一人のクルーとして、おれはアイツと歩みたい。


「おい、こんなところで油売ってていいのか? あの女に会ったなら、もうすぐここも落とされる。……それとも、最強の傭兵団を引き連れるお前は大層な自信があるとでも?」
「……貴様にはわからないだろうから教えてやる。おれは確かに雇われた傭兵だ。だが、その雇い主は当に死んでいる」
「なに……?」
「そして、既に無線から仲間の定時連絡は途絶えている。きっとニイナ様の采配によることだろう。武力でいくら勝ろうと、彼女の知恵の前では劣る。もう何もかも遅いのだ。生き残りはおれと貴様だけだ」


 ここは静かだ。ここは恐らく地上であるが、一階以上のフロアということしかわからない。面積は広く、向かい側の壁にはバルコニーのように迫り出した黒い柵付きの足場が一列並んでいる。出入り口は東西に一箇所ずつ。バルコニーの上にも二箇所通路が暗く空いているが、逃走経路なら東西どちらかの出入り口だろう。だがまずはこの海楼石をどうにかし、目の前の屈強な男を倒し、この自船くらい広いフロアを駆け抜けて脱出するしかないが、出来るか。
 あまりに広いばかりに音声は白いタイルに反響するものの、おれらの言葉はこのがらんどうなフロアに転がるばかりだ。


「何より、私はこれを望んでいたのかもしれない」


 おれの仲間を見くびるわけではないが、陸での戦い方を熟知している此奴ら軍人を騒音を立てずに倒せるほどの力量があるかと言われると疑わしい。だからこそ、際立つ。才女と謳われたあの女の手腕が。


「嗚呼、死の足音というにしてはあまりに軽く、甘美だ。かつて殺された数多の敵もこれを聞いていたかと思うと嫉妬してしまう。彼女の裁きを持って、私は漸く救われるのかもしれない……! ああ、ああ、なんという最高のフィナーレだ! 彼女の処女を頂ける舞台へ、私は立っている!」


 両手を広げ、まるで神の祝福を受けるように天を仰ぐ男。もはや何かに取り憑かれたようなその信仰心は寒気さえ感じる。盲目的に、かつての神の復活を待ち続ける使徒のように。ただの一人の人間を、神話ですらない血と肉を持ち合わせた現実にいる女一人を、どうしてこうまで信仰できる。海楼石の錠が床を擦る音がする。それが自分の手から発せられていると気付いたのはいつだろうか。
 おどろおどろしい、異様な、血走ったその目におれはいない。床に転がっていた言葉達が解けて、気持ちの悪いものへ変化するような。目の前の男が何か得体の知れない怪物へ変化するような。バルコニーのぽっかり空いた空洞から覗く眼光が、神の鉄槌へと変貌するような。

 おれはなにか、恐ろしいものを目の当たりにしている。


「おお、神よ。私の全てを貴女に捧げましょう。全ては貴女の御心のままに……!」


 ──────パスッ……。

 神の鉄槌は、無慈悲なまでに軽いサイレンサーの音だった。
 後頭部から額のど真ん中を貫通。撃ち抜かれた男は硬直した恍惚の表情のまま、うつ伏せに倒れこんだ。この男にとって最高のタイミングで、最高のシナリオで殉職した気持ちはどんなものだろうか。たった一つの弾丸でこの場の雰囲気とこの男を救済せしめた神は、これで良いと思ったのだろうか。


「……息災で何よりです」


 安堵した笑顔が、かつての副官を屠った直後の割に、柔らかい。


「私は未遂で終わったというのに……貴方は余程私より誘拐する価値がおありなのですね」
「……礼を言おう」
「それは何についてですか?」


 笑うにしては少し足りないが、語尾が少し揺れた。心の余裕がある証拠だ。初めてその手で人を殺したとは思えないほどに。鳥や動物に向けるのとは違う。同じ人間の、同じ形をした生き物を躊躇なく殺められる。
 神なんかじゃない。此奴は、おれの仲間だ。


「いつからいた」
「私に会えば、分かるのでしょう?」
「ハッ、随分早いご到着だな」


 恐縮です、と今度はしっかりと笑んだ女がおれの手を縛り上げている海楼石の錠を外した。漸く解放された倦怠感に目眩がする。白いリノリウムが眩しいほどに、目を細めた。


「しかし処女とはたしかに面白い例えですね。ですが死ぬのが初めてで、出血しているのはそちらでは? 血生臭いし」
「……いいのか。かつての戦友なんだろう」
「私は貴方の船に乗っています。そのトップを脅かすのなら誰であれ、退けなければいけません。如何なる時も優先する事項はただそれだけです。……それに、」


 少しぎこちない手つきで死人の目蓋を閉ざす行為が、こうまで神聖なものであると知らしめるようだった。そのまだ穢れない処女のふりをする白魚のような細い指が、下へ降りて首元の標識をもぎ取った。そして無理やり唇をこじ開けて歯へと墓標を立てた。
 立ち上がれば美しいほど姿勢を正した敬礼をし、「同胞よ、死してなお幸福であれ」と呟いた。そして墓標の片割れは胸ポケットへ仕舞う。それは彼女へのしかかる重りになる。誰よりも少なく、誰よりも重厚なほどに。


「なんだか少しスッキリしています。纏わり付いていた鎖が外れたような……ふふ、戦友の亡骸を前にして言うことではありませんね」


 もう過去に囚われない女は、屈託無く笑った。
 それから仲間は全て撤退していると聞かされ、短く返事をしたおれを筆頭に外に出た。予想通りここは三階建ての建物で、なにかの実験場だったのか森の奥にひっそりと建つ施設のようだった。
 いつのまにか日付を越えていたらしく、どっぷりと夜に浸かっていた。街の明かりが遠く、星がいつもより輝いて見える。その星の一部が、零れ落ちるように流れた。やがてそれを筆頭に、他の星も道連れされたように崩れだした。流星群。その言葉が頭を過ぎった。幾度かの航海でも中々にお目にかかれる光景ではない。前に見たのはいつだったか。その記憶を辿るより、目の前の光景の情報を処理する容量が脳を圧迫する。それほどまで感銘を受けてしまう。凝り固まった自身の心臓さえ揺さぶるほどの眩い景色であると刷り込まれるような。
 ふ、と。二人で立ち止まって夜空を見上げていることに気付いた。鬼哭が無機質な音を立てておれの肩を叩くから、その下にある女の顔を見る。


「……素晴らしいですね。そうか、流星群。そんなものもありましたね」
「見るのは初めてか?」
「ええ。やはり、百聞は一見にしかず」


 うっそりと。恍惚とまで見惚れるその顔は、興奮を表すように薄暗がりでも紅潮しているのが手に取れるほどわかった。少しばかり幼く見えるそれに、普段冷静でいるこの女の幼く見える局面を微笑ましく見るものを。


「……この星の中に、彼もいるのでしょうか」


 なのに何故だろうか。
 瞳に水面のように映る流れ星たちの刹那の命が、おれと見ているものと果たして同じなのか。
 何故ここまで違和感が拭えないのだろうと、おれの静まり返ったそこへ一筋の黒が混ざらず落ち込んでいくような───焦燥にも似た感情に名前を付けることができずに、名もなき星たちは明け方と同時に姿を消した。


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