命の雑踏 | ナノ


 何事もなかったように過ごすこと二月ばかり。賢明なのか掘り返されたくないのか、暗黙の了解なのか。私たちの間にあの夜はひっそりと仕舞われたままだった。昼間は船長と部下として、夜は本を貸し出しする司書と客として。それで彼も私も良しとしていた。何も変わり映えすることなく、だからといって特別なことがあるわけでもなく。
 強いて言うなら───少しばかり、目配せが増えたような。


「トラファルガーさん、おはようございます」
「ああ」


 朝食をとるために遅れて食堂に入れば長身の彼とぶつかりそうになりつつ朝の挨拶を交わす。そうして涼しげな瞳が物言いたげに一瞥をくれて去って行く。今日はいくつかの薬草を煎じると言っていたから立ち会わせてくれるのだろうか。
 コックに珈琲とトーストを頼んで受け取れば早速それに齧り付いた。挽きたての珈琲の香ばしい香りに紛れてトーストの焼きたての匂いがたまらない。シンプルにバターを乗せるのが好きで、この船のコックが作るトーストはとても美味しくて好きだ。さっくり焼き上げて中はしっとり。黄金に輝く荒野を歯で食い破り、柔らかく真っ白な綿毛のようにささくれ立つ中身を唇で食むことが愛おしく感じる程だ。これにジャムをたっぷり乗せる日は紅茶がいい。明日はそれをリクエストしてもいいかもしれない。ジャムはとろとろのマンゴー、ブルーベリーとラズベリー、ルバーブと白桃……ああ、蕩けるバターと定番のストロベリーも捨てがたい。


「随分幸せそうに食べるな」


 目の前の椅子が引かれてペンギンさんが鎮座する。朝の挨拶を軽く交わして、彼はクロワッサンに噛み付いた。バターたっぷりのさっくりとしたクロワッサンもいいなぁ。


「この船の朝食、特にトーストは他の船に浮気させない程の魔力を持っていると思います」
「はは、それコックに言ってやれよ。コック冥利に尽きるだろ」


 後ろを指さされて振り返れば、聞いていたのかコックがいい笑顔でサムズアップしていた。小さく手を振り返してその手で口の端のパン屑を拭う。こんな微粒な屑さえ美味しいとは何事だ。


「……今日の予定は?」
「これからトラファルガーさんにお伴します。それから昨日の続きをご教授賜りたいですね」
「ニイナは覚えるの早いからなぁ。もう殆ど俺が教えることはないんだがな」


 最近、私は射撃を教わっている。前に襲撃した船には銃火器類も豊富に積載されており、この際だからと進んで教えを乞うたのだ。主にペンギンさんが指導者となり、拳銃からライフル、狙撃の留意点まで教えてくれた。今となっては解体、組み立て、エイム、全てについてお墨付きだ。人体の急所、風速や距離の計算、標的の動きの読み方。護身よりも中長距離からの援護を目的とした狙撃だ。硝煙の臭いにも慣れた今では、鴎を撃ち落とすくらい容易い。
 こっくりとしたバターを注ぐ様に珈琲を飲み下す。香ばしさが口内から鼻に抜ける瞬間が好きだった。もう一口と唇を付けたカップはまだ熱く、薄い皮膚でなんとか耐えれる温度だった。つるりとした陶器の感触が心地よく、舌と喉に香り高い珈琲を流し込んでくれる。


「そういや、聞こうと思ったんだが……」
「なんでしょう」
「……ニイナって船長と付き合っているのか?」
「、げほッ」


 秘密事のように声を潜められてどうしたものかと思えば、途轍もなく突飛なことだった。気管に入った珈琲のせいか、はたまたペンギンさんの戯言のせいか。あれほど優雅で至福な朝食が一気に現実に戻されたような心地だった。その張本人はニヤニヤとお節介な笑みを浮かべているが、その期待にはさっぱり応えられない。


「否定しますが、一応お伺いします。何故そう思ったのでしょう」
「いやー、最近ニイナと船長って見つめ合うことが多いだろ? だからつい、揶揄ってやりたくて」
「タチが悪すぎます。私と彼はそういった間柄ではありませんよ」


 見つめ合う、という表現に語弊はあるが強ち間違ってはいない。そこの否定はしなかったが、残念そうに───一ミリもそうは見えないが───肩を竦めたことでこの会話は打ち切られた。





 ノックをすれば気配でわかっていたのか、すぐに入室の許可が下りた。扉を開けると爽やかな草花の匂いがする。用意をしてくれたのか机の上は準備万端で、ゴリゴリと薬鉢をする音が響く。その側にあるサイドテーブルに珈琲を二つ置き、近くにある椅子を手探り寄せて座る。


「……今日は?」
「前の島で見かけた薬草の調合」


 無愛想に聞こえるそれも集中している証拠だと知ったのは最近だ。この部屋は直射日光を避けるため窓は少なく、唯一ある窓にはカーテンが常に掛かっている。湿気も大敵のため換気も怠らない。
 擦り終わり粉末になった薬草を試薬へ投下する。するとそれが毒々しいマゼンタへと変われば、彼は舌打ちをして排水口へ流した。すぐ手元にある器から数種類の薬草を摘み上げ、また鉢を擦り始めた。
 薬草、生薬、漢方は精製された化合物より作用が穏やかだ。組み合わせ次第で数多の病気に効くし、知識さえあれば旅先で容易に手に入るから海賊にとって重宝するものでもある。副作用がないわけではないから、初めて作るものは治験しなければならない。また未知の薬草は毒性も孕むことがあり、その無毒化をすることもまた船医の務めだ。


「一つ、聞きたいことがある。ただの興味だ」
「何でしょうか」


 すり潰す手を止めずに彼が口を開いた。私は見ていた薬草学の本から顔を上げれば、彼の目線はまだ鉢の中を見ていた。こういう時唾液が飛ばないようマスクをするが、販売するわけでもないし使うかどうか分からないものだからと省いているのだろう。出会った時と変わらない顎髭と下がった口角。目線だけは鋭くなるそれに、彼の中に固着するものがあるのだと知った。


「戦争とはお前にとってどういうものだ」
「……それは、」
「怒るなよ。言っただろ、本当にただの興味だ。別にお前を責めるわけでは……ああ、主題が漠然としすぎたな。敵を蹂躙する部下を見てどんな気持ちだったのか。敵をどう思っていたのか」


 貴方は今、その問いをどんな気持ちで言っているのだろうか。
 顔を見ればわかる。侮蔑したいわけでも憐憫の気持ちでもないことも。細かくなる薬草の先に、何処を見ているのか。白い景色に、佇むのは恩人か家族か。


「……まだ問題が曖昧ですね。ですがいいでしょう、事実を言いますと何とも思っていない、が私の答えです」
「……」
「初めは世界の為になるのだと使命感や選抜されたという高揚感、野次馬根性の興味本位しかありませんでした。実際に軍服を着て、凶弾に倒れた前指揮官の代理に立って勝利に導いた時はまるで一つのゲームをクリアしたような気持ちでした。何せ指揮官。状況を見て采配を振るうだけで自分の手を汚さなくていいわけですから」
「随分と歪んだ鬼才だな」
「死体を見ても、血肉をぶちまけて弾ける敵味方を見ても、ただ駒が壊れたとしか思わないのです。人的資源、代わりのきく兵士。ですがその損傷を最低限にすることが私の唯一の楽しみでした。おかげで神のように崇められることは悪くなかったですよ」
「知っているか、それは世間ではサイコパスって言うんだぜ」
「ふふ、知ってますよ。ですが人の死に怯えてばかりいては戦場に立っていることができません。幸い前線に行こうが指揮官に変わりはないので皆体を張って守ってくれましたよ。兵は私を守り、私は政府を守るものだと思っていました」


 粉砕が完了したのか騒音が私の語尾とともに消えた。粉末を試薬に入れれば綺麗なコバルトブルーへと変わる。溶けきらない薬草が鈍い金色に輝く。まるでそう、夜空みたいだ。


「私が唯一絶望したのは、守るべき政府が醜悪だったこと。ああ、どういう実態かは聞かないでくださいね。私にも守秘義務があるので」
「もう関わりがねェのにか?」
「貴方がいま倒すべきは政府ではないでしょう。それに、知っていることを聞くほど愚かではないらしい」


 書庫に籠ることもあった。そこでは禁書となる公にならない過去の戦記や掃討戦が書かれており、勿論フレバンスのこともあった。ペンギンさんやシャチさんと話すうちに意図的ではないにせよ彼が白鉛病を患っていたことを知り、そこで過去に見た一冊の白い街が思い出された。
 だから、この質問の意図が曖昧だ。彼の中でも理不尽で唐突で整理し難いことなのだろう。それか整理がついたと思っていても深層に刷り込まれた疑問なのだろうか。何れにせよ、私は彼を満足させる答えを持っていない。


「政府は最初利口な私の噂を聞きつけて招集したようですが、使い続けるうちに私に世界を掌握できるほどの知恵があると恐れていました。世界を相手に出来るほど私は力があるわけでもないのに」
「知恵があることは否定しねェのか」
「だから兵役が終わっても見張りがいたでしょう」
「ああ、本当にただの≪見張り≫だったな」
「……私にとって戦争は自分の知恵を持って制するゲームでしたが、他の人間は命懸けでしたよ。誰しも死にたくないと願う、当たり前のことでしょう」


 蹂躙する、無残に殺されて滅ぼされた国の、政府を呪う彼の気持ちは見えない。不気味なほど静かで、澄んでいる。かつての絶望は上書きされただけで奥底で燻っている。搾取された側と搾取した側。相容れないことを知っていてもなお、彼も人間らしく歩み寄ろうとするのだろうか。
 出来た粉末を瓶へ分ければ、試薬の中の星は沈んでいた。いつのまにか閉じていた本の背表紙を意味もなくなぞる。
 人が死んでも何も思わなくなったのはいつからか。人間は消耗品だと思ったのはいつからか。夜空の星は宇宙の塵だと思ったのはいつからか。

 彼を、仲間を、失いたくないと思ったのは。いつからだろうか。

 分かり合えなくても、共存することは許されるのだろうか。


「……あ、それ」


 机の上を片付け始めた彼の手元に見たことがある薬草がある。不意に私が声を出した方を彼も向き、そこに薬草があると知ると続きを促すようにまた此方を見た。あまり他所ではみない薬草なので、彼も知らなかったのかもしれない。


「それ、木香草です。乾燥させてすり潰すと木の香りがします。安眠効果が得られるくらいで、薬草として内服しないはずですが……」
「なるほどな。なら内服として服用できるか試験するか。睡眠導入剤とかに入れると良さそうだな」
「誰を犠牲にするつもりですか……」
「ちなみにアンタはどう使っていたんだ」
「戦地でよく見かけたので、軍医が安眠できるようにと枕によく入れてくれました」


 戦地では如何なる時も外での休息になる。だが女性兵士のみ民家を使用することを許され、ふかふかとは言えないベッドで睡眠を取ったものだ。しかしいつ何時敵襲があるかわからないため、横になっても休まるわけではない。そんなわたしの隈を見兼ねた軍医がよく枕を作ってくれた。心地よい木の香りでリラックスでき、すぐに疲れた体が引きずられるように眠りへ落ちたのだ。
 その時の感覚を思い出して懐かしくなる。少しばかり頂戴して今夜枕に仕込んでもいいかもしれない。そう聞こうとした矢先に彼の方が一寸早く口を開いた。


「なら、またアンタが眠れない時にでも入れてやるよ」


 なんて事ないように言う一言。薬瓶をしまうために背を向けた彼が透明なガラスの音を鳴らして戸棚を漁る。本当に世間話をするような、息をするように出た言葉。それによって私の言葉は押し込められ、微妙な間を置いて話し出すのも憚れてしまった。自分で言い出すよりも先に出たその一言は、私を机に突っ伏させるには充分だった。
 机の湿っぽい木の香りではないそれに恋い焦がれながら、彼の一言が私に纏わり付いて離れない呪詛のように感じた。その合間に香った夜の潮の香りは幻だというのに、今日はやけにそれがリアリティを持って私を責め立てた。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -