命の雑踏 | ナノ


 そっと重い瞼を開いた。まだ部屋は暗く、夜の匂いが深く染み渡っている。眠気は何処かに連れ去られ、代わりに入れ違いでやってきたのは眠る前の記憶だ。
 宴の最中から抜け出して寝た。汗をかいてべたついた体にシャワーが気持ちよかった。ああ、騒がしくないからもうお開きになったのだろう。今は何時だ。まだ夜更けには遠い。そうだ、宴をする原因がある。補給ができた。お金以外にも換金すれば大金になるような宝石がいっぱいあった。足がつかないように少しずつやらないと。金は時価が変わらないから持っててもいいし、あとでレートも調べないと。サファイア、ダイヤ、ルビー。血飛沫。
 あ、そうだ。今日敵がいっぱい死んでいた。
 頭は冴えてきたのに未だ重い体からシーツが流れ落ちる。カーディガンを羽織って必要なものを持ち自室の扉を開けば、いつもは気にならない扉の軋みさえ聞こえてきた。
 静かな廊下に忍び寄る鼾の合唱。遠ざかるそれにひっそりと笑って甲板へと続く階段を上がった。そういえば今日の見張りは誰だったかな。誰ともすれ違わなかった道は昼間とこうも違うのかと思った。いつのまにか馴染んだ手摺を押せば重たい扉は開いた。入り込んだ風が冷たく私を出迎える。真っ暗にならないのは輝く星と満月のおかげだ。宴は早々に終わらせたのだろう。あまり長いこと騒いでいると敵も海洋性物も寄ってくる。


「……ふぅ」


 星屑が零れ落ちそうなほど散りばめられた夜空。明るく主張するものもあれば、暗くいくら目を凝らしても見えないものもある。持ってきた双眼鏡で見ても変わらない。
 星座も、星の名前も知らない。そもそもこうして世界を旅しているのだから、見慣れたそれさえ毎夜変化する。特定の星を追っているわけでもないし、昨日消えた星が何なのかさえもわからない。ただぼんやりと人の死を目の当たりにした夜に星を眺める事が習慣だった。その時に思い出すのは母の嘘と、帝国に準えた夜空のことだった。
 わかっている。死人がそこにいないことさえ。分別がついた大人になってもなお、小さな頃からある癖のように私に染み付いて褪せはしない呼吸だ。この呼吸を止めてくれる人が現れることを切に願う。


「……こんな夜中に、何をしている」


 コツコツと甲板を鳴らす靴音と、静かに胃のそこに響くような声がした。彼の声はひっそりとしていてこんな夜に聞くのにぴったりだった。急にその音が聞こえたことと方角から推測するに、見張りの人が伝声管で偶然起きていた彼に報告して能力で位置交換されたのだろう。証拠にその手には湯気の立つマグカップがある。中身は珈琲だろうか。
 瞳には純粋に何をしているかの疑問と、あの日の猜疑が覗き始めている。まだ私を警戒している。でも、何故だろうか。あの時は良しとしたことが今はどうしても、かなしい。


「……こんばんは、トラファルガーさん」
「星占術がお好みとは随分少女趣味だな」
「星の名前も知らないのに、どう占えましょうか」


 柔らかな皮肉も笑みで交わして。下ろした双眼鏡はもう星を眺めていなかった。ただぼんやりと夜空に溢れたビスケットの粉のような、死んだ人間が住まう架空の帝国のような、模様にすら見える小さな星屑を見ていた。


「……なら、葬いか」


 その言葉が静かに揺れる水面に落とされた時、少しばかり目を見開いた。暗い海は絶えず大小の波を立たせており、水音と潮の香りばかりする。そこから問われた声は彼を通しているようで、水葬された人間が海から背後から這い上がってくるようだった。


「いいえ、理由なんてありませんよ」


 本当に理由なんてない。ただ少しばかり昔のことに囚われている興味だけがあるだけで。


「そういえば昨日は助けて頂きありがとうございました。こうしてお話できることができてよかった」
「あまり思ってねェことは口にしないほうがいいぜ」
「感謝は本物ですよ」
「その先は嘘だって言うのか」
「さあ、どうでしょう。貴方に言いよる夜の女性みたいに媚び方を知らないもので」


 磯の香りの中に珈琲の香ばしさが届く。それだけ近くにいるのに彼は本心を見せない。お互いに育む信頼は独り善がりなのだろうか。本当はそんなものなくて、ただの勘違いなのだろうか。私が根付く居場所はどこにもないと言われているようで。戦場にも、島にも、船にも、夜空にも、私はいない。癒着も依存もするつもりはなくても、誰かの心に永続的に住まう場所が───わたしには、ない。


「おれは、」


 不意に口を開いたのは彼からだった。僅かながらに動く月と揺らめく不動の水平線ばかり眺めていたから、少しばかり驚いた。
 いつもの帽子はなくてただ潮風に揺れる髪を無造作に掻き上げた動作だけは輪郭で視認した。部屋着の皺が大きく波打ち、手にしたマグカップから湯気はもう立たない。言葉を待つ間にいくらでも彼を見ていられるのに、その瞳だけが真っ直ぐに見られない。頬に咎めるような視線が突き刺さりそれが顎を掬うようにするから、暗くて見えずともそのアンバーを見つめなければいけなかった。


「……仲間には息災でいてほしいと思っている」


 その言葉の意味と真意を聞く前に、押し付けられたまだ温いマグカップに意識が取られているその隙に、彼は能力を使ってその場から消えた。代わりに現れたブランケットを拾えば彼がよく使う薬草の香りがして、前に私が落とした本が転がり落ちてきた。
 船尾の方の星が掻き消され、白み始める空に朝を悟った。もうそんな時間なのか。そんなにいた記憶がないのに手に触れたカーディガンが冷えていた。冷めつつある珈琲はあまり美味しくない。なら、朝が来るまでもう一眠りするしかない。
 振り返れば夜空はまだ星を残していた。名も知らないそれに明日も会えるだろうか。きっと覚えていないかもしれないし、印象にさえないかもしれない。それでもこの光景だけは忘れられそうにない。
 本を持ちブランケットを羽織って、小さな欠伸を残して私は朝へと足を向けた。





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