小説 | ナノ


 悪態を吐くときは決まって敗者か手遅れになったときだ。
 そんな言葉を宣ったのはだれだっけ。頭の隅で鳴る銃声。スパイだった部下を殺した冷たく温度のない私の横顔が花瓶に映っていたことが蘇る。


「くそッ……」
「ちょ、ちょっと待って!」


 衝動で走り出そうとする私の手を掴んだのは、まだ話の見えない姉だった。心ばかりが先走って、体はここにあるということに焦燥が駆り立てられる。


「離してください、行かなくちゃ……!」
「待ちなさいって! どうしたのよ急に……! 単独で行くより仲間を呼んだ方いいんじゃない!?」
「その仲間が、偽のコインを持って行ったんですよ! 一度それを使って内部に探りを入れたから、もし中に入りでもしたら……!」


 ───敵の、思うツボだ。
 最初から仕組まれていたのだ。私にぶつかった男はカンパニーの人間だったのだろう。薬品は動物を使った後に人体でも安全を試す。非人道的な研究なら、なおさら一般人に募集をかけるわけにはいかない。そこで、無法者の海賊ならばいくら使ったって咎める者はいないだろう。それの標的にされていたのだ、初めから。更にそのコインが大切なものだと知らしめるように刺客を送り込めば、これがなんだと調べざるを得ないだろう。そうしてカンパニーは安全に海賊を研究室に招ける。
 もし、カンパニーが答えに最短で辿り着くトラファルガー・ローだと知ってコインを落としたなら。舐められたものだ。そう思ってからあのキャプテンが負けると思っているのか、と熱くなった脳に差し込まれる冷えた氷のようなハートのクルーとしての自尊心が私を宥める。彼女の手を振り払った後、沸き上がる怒りを宥めるように息を深く吐いた。


「取り乱してしまい申し訳ございません……でも、知らせなくちゃ。服、着替えてくれますか」
「ええ、いいわよ。少し待っててね」


 私が破ってしまったシャツをまずは着替えてもらわないとカンパニーに入った時に怪しまれてしまうだろう。姉は奥の部屋へと向かい、私は壁に背を付く。マントの下から腕を出し、自分の額に手を当てる。そうすることでようやく余裕が生まれた。薄暗い店内の中、そのショーウィンドウから朝の日差しが眩いほど差し込んでいる。花が最後の生を足掻くように風に転がされている。日が経ち観光客も散って閑散としてきた祭りの名残が通路に散っていた。水路に落ちたときは綺麗に見えたのに、踏まれて色を変えた花弁の遣る瀬なさに同情した。
 こんなに感情的になってしまうことなんて珍しいかもしれない。やっぱりこの街に来てから私はおかしくなってしまった、なんて苦笑する。況してや、彼の危機だと思ってしまうとなおさら感情が先行してしまう。こんなところにも恋慕は影響するのか、なんて呑気に考えてからふと疑問に思う。
 カンパニーが海賊を誘い込んで人体実験をしようとしているのはわかった。だけど、一般の傭兵に海賊を無力化させるほどの武勇があるとは思わない。況してやキャプテンだと知ってならなおさら。医者であり、遠距離での戦闘を得意とする彼を捕まえることなど到底できない。身内の贔屓目かもしれないが。もし、私がカンパニーの人間だったら。自分の懐に誘い込んでおいて、武力なしで彼らを制圧するなら。
 ───作用は鎮静だが弱めだ。新しい麻酔薬を考えていたが、あれじゃ精々睡眠薬の補助止まりだな。
 花屋に入る前にキャプテンが言ったことを思い出す。もし作用が弱めのものが濃く抽出することができたら。それを噴霧してしまえば、能力者だろうと勇猛な人間だろうとひとたまりもないだろう。鎮静なら人体の活動が停止する。臓器や筋肉に即効性の影響があるなら、それは正しく敵を鎮圧させるのに相応しい。ただし、まだ実験段階ならどんな副作用があるかわからない。催眠弾よりタチが悪いのではないか。
 嫌な予感がぞわりぞわりと臓腑を食い破る。彼らをある程度弱らせて、海軍に引き渡すとすれば大量の軍資金が手に入る。私たちを陥れた過程と筋書きの結末が結びついてしまえば、予感は思惑へと変わる。


「……急がないと」
「何か言った?」


 顔を上げて呟いた言葉が思ったよりも大きくなる。ちょうど姉も着替え終わり部屋から出てきたタイミングで、中途半端に私の声を拾ったのだろう。呑気な声に胸中で焦燥が木霊していく。


「その、カンパニーが研究しているのって、銀の花、ですよね……?」
「ええ、そうよ」
「白い花よりも銀の花の方が薬効は強いと聞きました」
「そうね」
「もしそれが精製され、人間の生命活動が脅かされるほど高濃度で、ガス状に噴霧された場合……密室にいる人間はどうなりますか?」


 息を呑む音がした。カンパニーがいかに重大で、非人道的な行いをしようとしているか察したのだろう。これはただの憶測に過ぎない。当たってほしくない推測でしかないい。本当はただの何かの記念メダルで、無事それを返せたのだと、信じさせて欲しい。


「だからガスが周囲に漂っているかもしれません。私一人で行きます。このマントも汚れてしまうかもしれないのでお返しします」
「何を言っているの。私も行くし、マントは着ててちょうだい。服は後からいくらでも作れるけど、チャンスは二度と作れないのよ!」


 強い光を、その目の中に見た。想定だとか推察だとか、ただ“そうかもしれない”、“だから自分の身の振り方を迷っている”私から言葉を奪った。その私の腕を取り、彼女は駆け出す。朝の光にそぐわない不安感が私達の胸の中で唸った。その咆哮を絞り出すように、風下にいる私にだけちっぽけな声が届く。


「……もう、アンタしかいないのよ。あの子の仇を取ってくれるチャンスをくれるのは」


 それを聞かないことにするには簡単だった。なのにどんなに掠れた声だって彼女からの言葉を取り零すなと誰かに言われているようで、まるで真綿に染み込んでいくように心臓の奥底に沈んでいった。空が私達を追い立てるように厚い雲を引き連れてくる。

 陰りだした空はもうそろそろ泣きそうだった。彼女の指示で近くの茂みに隠れる。カンパニーの城門には小銃を構えた一人の見張りがいた。奥の開いた扉からも人が動く姿が見え、周囲にガスは漏れていないと知る。一階は見学施設、二階がオフィス、三階が実験室になっているらしい。オフィスと言えど張り出た砲台にまだ大砲が残されており、古き城の外観を守っているように思えた。三階はここから見えないが、全面ガラス張りになっている。もしキャプテンたちがいるとすれば三階だろう。それか二階のオフィスかもしれない。
 適当に検討をつけてから正面に顔を戻す。姉は知り合いだという見張りに接触を試みている。


「はーい、久しぶりね!」
「お前……久しぶりだなぁ! 辞めた以来か。元気にしてたか?」
「えぇ。これでもデザイナーとして名を馳せているつもりよ。今日、教授いる?」
「いるにはいるが、今日は実験の日らしい。……なんでも、前に噂されていたガスが完成して海賊共を実験体にしてるんだってよ。マッドの考えることはわかんねぇよな」
「ッ、……へぇ、そうなの」


 彼女の懐に入れた電伝虫と私の手元にある電伝虫が繋がっており、会話は筒抜けだ。当たってほしくない予感が全て当たってしまったことには頭を抱えた。もっと私が早く気付いていたら、彼らはこんな目にあわなかっただろうに。


「ま、名目は城内の設備点検ってことになってるから、いくらお前といえど今日は通せないな。代わりに今晩食事でもどうだ?」
「あ……今日、教授と会う約束をしていたのだけれど、どうしてもダメかしら? 返したいものがあってね、あと、紹介したい人も……」


 少し切羽詰まった状況だった。姉もその状況を理解しているのか、片手に持ったボタンを固く握り締めている。私が持っている鉤縄で壁を登ってもいいが、見つかる可能性が高い。周囲を見渡す私の目に留まったのは、黒いつなぎを着た作業員だった。素早くバトルベルトを外してマントで覆うように腕に抱える。


「何だよ、紹介したい奴って。妬けちまうな」
「ちがっ、そうじゃな……」
「ああ、ようやく着きました。ありがとうございます、お姉さん」


 少しわざとらしい大きい声。それに注意をそらされて睨みつける見張りの男ににっこりと笑ってやる。


「すみません、遅れて。設備の点検に来た者ですが、集合場所に遅れた挙句道に迷っていたところをこちらの女性に案内してもらったんですよ」
「そ……そうなの。教授に紹介したいのも、この子のことなの」
「いやー、遅刻したら仲間に置き去りにされたばかりか同じところをぐるぐる回ってしまって不運だと思っていたんですが、本当に助かりました」


 ジロジロと品定めをするような目線が黒いつなぎを舐る。業者のものだと思ったのか、姉に目線を逸らした隙に握り締めている姉の手に自分の手を重ねてボタンを奪った。


「なんだよ、人助けか。俺に会いに来たのかと思ったぜ」
「それは今晩でしょ?」
「相変わらず男の弄び方は心得てるようだな。こっちだ、嬢ちゃん。教授は三階にいる。付いてこい」
「ありがとうございます」


 大きなその背中に付いていく。ボタンを挟んだ指先で、前を見据えたまま手を振った。ここからは私が受け継ぐ。何かの役に立てればいいのだけれど。空はもうぐずり出してきて、私と彼女との間にしょっぱい涙を落としてきた。
 見学施設というだけあって広く豪華絢爛だった。金細工が惜しみなく使われており、鼈甲や象牙も見受けられる。大理石の床は磨かれているせいで反射しており、靴音が硬く鳴る。そこに業者が機械や設計図を並べている。


「ここまでで結構です、ありがとうございます。ところでお手洗いは向こうの方でしょうか」
「いいや、そこの角を曲がれば案内板が出てくる。それじゃ、よろしく頼むよ。アイツを連れてきてくれたキューピットちゃん」


 ぞわりと立った鳥肌を振り払うようにさっさと歩き出した。背後の気配も遠のいていくから見張りに戻ったのだろう。業者の人間達も私に気付いて一瞥を寄越しても何も声を掛けなかった。同僚で見かけない顔であっても見張りに通されているなら、関係者だろうと検討をつけているのかもしれない。堂々と突っ切って案内板に従ってトイレの中に入る。個室が並ぶ先にある窓を開けて周囲を見回す。その後に草の倒れ具合を見てここに暫く人が立ち入っていないことを知る。背丈が長くなった草に紛れるようにマントを落とし、隠した。見張りは武装を見せつけているようだし、いざというときに抜けるようにバトルベルトを撒き直した。銃のセーフティーも外しておく。
 トイレから出て直ぐに階段があるのは幸いだった。それを上って二階のオフィスに出る。古城だということを忘れそうなリノリウム造りの廊下だった。人気は無く、照明も付いていないから薄暗い。慎重に物陰に隠れながら進む。見張りの数は結構少ないと思った。巡回している傭兵もいないし、ハートの海賊団はあれが全部だと思われているのかもしれない。舐めたければ舐めてればいいさ。私一人ではどうしようもないが、キャプテンだけにでも知らせられればいいのだから。
 三階の階段の前に見張りの男が二人、談笑している。そのことから侵入者が来るという疑念はないことを察してほくそ笑んだ。そこへ私は身を潜ませることをせずに、ゆったりと近付く。


「誰だ!」
「朝早くからお疲れ様です。教授に個人的に雇われた傭兵です」


 二人の男が一斉にこちらへ銃口を見せる。それに手を挙げて笑みを見せる。勿論、そんなもので警戒を解こうとは思っていない。奥の手が私には残されている。


「そんなもの聞いていないぞ!」
「ええ、シークレットサービスですから。今回の実験体は海賊でしょう? 人手は多い方が良いと個人的に雇われました。無論、許可は得ています」


 ポケットからそれを取り出す。この国の国旗の後ろにアスクレピオスの杖が描かれた金色のボタン。通じなかったらどうしようと脳裏を過ったが、男達は顔を見合わせて顎で上階を指し示した。


「……着いてこい」
「感謝いたします」


 一人の男を置いて、案内役の背を追う。一段、一段と上っていく。会話はなかった。二人分の靴音が響いて、踊り場に出た瞬間だった。

 ──────ドォ……ンッ!

 地鳴りを伴うような腹の奥底に響く爆発音。階上からにしては鈍い音だが、壁が厚いのだろう。


「なんだ……!?」


 異変を感じた案内する男と共に駆け上がると三階はオフィス同様改装されていて、ここが古城だということを疑う殺風景の白いリノリウムが目に痛かった。十人足らずの男達がドアの前で動揺していて、全てが武装した傭兵だった。


「おいっ、何があった!?」
「わからねぇ、急に中で爆発音が……おい、その女はなんだ?」
「教授の護衛です。爆発は予定にないはずです。賊が押し入ったのかもしれませんので開けていただけますか?」


 金色のボタンを見せればこの状況で正常な判断を失ったのか、すぐに信じ込んでくれた。爆発音のおかげでここまでスムーズにきたが、私だって内心焦りがある。この扉を潜ってしまえば、あとは薄っぺらな私の舌戦が効かない。この人数相手にどれだけ出来るのか、自分の力量を驕るわけにもいかない。
 パスワード式の扉を開錠し我先にとドアノブを捻った瞬間、隙間から白いガスが漏れ出た。足元を這うそれの中へ足を踏み入れると、辺り一面に白いガスが海のように足首のところを彷徨っていた。左手にもう一つ扉がありガラスの向こうに実験室が広がって、ガスマスクをつけた研究員が何人かいた。正面奥にはいくつもの柱が聳え立ち何かの機材が積まれ、右手には大きな窓ガラスが一面に嵌め込まれて本格的に降り出した雨でしとどに濡れている。右の壁沿いに武装してガスマスクを付けた傭兵が五人ほど並んでいた。
 半円を描くようにそれらを眺めた後、床に這いつくばっている人間達を見た。白いガスの中に黒いつなぎが浮かんでいる。動かない者や呻くように痙攣を繰り返す者がいる。全て、ハートのクルーだ。


「何だ貴様ら! 部外者は立ち入り禁止だ!」
「申し訳ございません。爆発音がしたので何か異常があったのかと」
「こっちにもボディーガードはいるから余計なお世話だ! ガスが漏れるから早く閉めなさい!」
「かしこまりました」


 背後にいる傭兵らに会釈をして扉を閉めたあと、素早く銃を抜いて意識のないシャチを引き摺る研究員の腕を撃ち、扉のキーパッドを破壊した。仲間ではなく侵入者と判断した傭兵が小銃を連射する隙間を潜り抜け、倒れているクルーに当たらないように窓側の奥の方へ走りながら応戦する。煙幕を投げつけて機材が積み重なった柱へと身を隠すも、そこを壊さんとするように弾幕が横殴りの雨のように降り注ぐ。私が撃った弾のうち二発はそれぞれ傭兵の肩と太腿を撃ち抜いた。あの弾幕や煙とガスの中じゃ上出来じゃないかと自分を鼓舞する。
 弾幕の合間に、キャプテンを見た。壁に凭れていて、その上にペンギンが覆い被さっていた。この死の雨の中では助けにいけない。意識を手放していては起こすための合間で見つかってしまう。蹲って姿勢を低くし、弾幕の薄い方から手を出して威嚇射撃をすれば余計に発砲音が煩くなった。太ももが痛む。弾が掠めていたのか僅かに出血している。頬や額も熱い。傷が開いたのか腹の瘡蓋がチリチリ焼ける音を発していた。屈んでしまったからか、走ったり銃を撃ち込まれているせいか、煙幕とガスが混ざり合って吸い込んでしまったようだ。ぐらりと傾いた体を腕で支えて、頭を振る。まだ煙は晴れないところを見ると換気はされていないようだった。ガスを屋外へ出さないためか、侵入者を弱らせようとしているのか。
 銃声は今だ止まない。白い煙の中、顔を上げることが出来ずに自分のグローブと銃ばかりを見つめる。呼吸数が少なくなって、荒々しい自分の呼吸しか聞こえない。このまま、眠ってしまえばどれだけ楽だろう。どこもかしこも痛いし、眠たいし、投げ出してしまいたい。絶え間ない誘惑の手が四方から伸びてきて、揺れる体をあやすようにとろりと脳に睡魔が忍び込む。傷の痛みも遠のいてきている。わかってる。そんなこと、許されないことくらい。
 太腿の傷に爪を立てて神経を叩き起こす。喉から絞り出した呻き声を支えに、前を向いた瞬間。───何者かに、背後から口を塞がれた。


「───俺だ」


 弾幕の雨が止んだ。リロードの隙間に砂埃が舞う音と息遣いが静寂の中で大きく反響する。
 聞いたことのある低い声。背中に固い胸板が付く。耳元に人の体温が近付く。私の口を塞ぐ手は、いつも私を導いてくれる。


「……きゃ、ぷてん……」
「ペンギンが盾になってくれたおかげであまり吸い込まずに済んだ。打開する機会を伺ってたが、お前が来てくれて助かった」


 息遣いがそこにある。どくり、と心臓が脈打った音が聞こえた。白い煙を揺らしそうなほどのそれが、彼に届いてしまいそうなほどに。
 きっと彼のことだから、これからどうするかの作戦をいくつも脳内で浮かべていたのだろう。それを壊してしまった。予想を裏切ってしまった。悔悟の念と雀躍が、拍動と共に私の体内を駆け巡って彼の指に触れる唇へと集約される。彼の指が上下の隙間に浅く入り込み、鼻筋にある指の刺青が目線を下げれば見えそうなほど近い。早くなる呼吸を宥めるように、キャプテンの頭が私の横髪に擦れる音がした。


「窓を全て割れ。俺の能力で破片とアイツらを交換して階下へ下ろす。その後制圧射撃で気を逸らせ。俺がやる。できるな?」
「……は、い」


 いつも極限に集中していると周囲が遅く感じる。傭兵達のリロードがまだ終わらないのか、発砲音が聞こえない。煙幕や砂埃が晴れるのを待っているのかもしれないが、構っている余裕はない。
 全部の神経が場ではなく、彼に向いている。私の縺れたような返答に微かに笑う空気の振動だって大きく感じてしまうほどには。


「幸運を祈る」


 私の側頭部に付けていたキャプテンの頭がズレて、髪の合間に唇が落とされたのが分かった。リップ音もしないのに、ただ研ぎ澄まされた感覚の中で、それだけは。
 離れていく気配を繋ぎ止めるように振り返った。少しだけ見開かれた金眼に、今だけは情け無く眉を垂れることを許してほしい。最後の脱力だった。はにかむような笑みで、彼の無事を祈る。


「……キャプテンも、」


 瞬き一つ落としてからが合図だった。体制を直した後、柱の影から左腕を伸ばしてがむしゃらに発砲して彼の指示通り窓を全て割った。煙が排出される代わりに、雨の音が舞い込んでくる。その最中にキャプテンが能力を展開する。鬼哭を手に取るような金属音がして、また始まった弾幕に掻き消された足音が離れていく。


「───ッ、ぅあ……!」


 私の左腕が射抜かれて銃を取りこぼしたのと、キャプテンの能力でみんながガラス片に変わるのは同時だった。右手でセーフティーを外したもう一丁で、場に躍り出たキャプテンを援護するように傭兵達へ射撃する。刀が銃弾を弾く金属音が反響して、私の火を吹くトムキャットの先で火花を見た。彼の能力の前で、ただ小火器を持つだけの人間なぞ無抵抗も同然だった。腕を落とされ、小銃を真っ二つにされ、胴体もバラバラにされれば直ぐに決着はつく。最後になんとかドアを開けようとする研究員の横っ面スレスレに弾丸を叩き込むと、気付いたキャプテンが全ての研究員も刻んだ。あれほど煩かった銃声も、右往左往するだけで怯えていた研究員達も、今や蠢く肉塊として地に転がっている。
 セーフティーをかけたトムキャットを仕舞い、持ってきていたバンダナで左手の止血をする。片手では上手く巻けなくて四苦八苦していると、鬼哭を担いで近付いてきたキャプテンがそれを奪った。医者らしい几帳面な巻き方で、刺青だらけの手がそれを施すアンバランスさをただ見ていた。


「……ありがとうございます」
「ん。……何故分かった?」
「カンパニーのシンボルがディアナの姉が刺青として入れていたのを見たことがあって……。そこから芋蔓式に」
「お前のことだから脅したんだろ」
「……お見通しですか」
「いいや。お前はいつも俺の予想を裏切る」


 言葉に反してくつくつとキャプテンは笑みを溢すから、良い意味でということだろうか。そしてこっちに来いというように顔を傾けて顎で行き先を示す。私が壊したキーパッドのある扉の反対側にもう一つ扉があった。研究員たちがそこを出口として逃げ出さなかったわけが、一面に広がっていた。


「───……すごい」
「確かに今年の収穫量は少ないらしい。だから市場より全てを買い占めて独占していたと言っていた」


 広い部屋一面に銀の花が敷き詰められていた。足がすっぽり収まってしまう量で、隅にいくつか鉢植えで植えているも、枯れないからと伐採済みの花で部屋が埋まって銀色に輝いているのだ。もし雨が降ってなくて朝の陽光を目一杯に浴びていたら眩しいほどだったろう。

 ───ドンドンドンッ!

 開けっ放しの扉を振り返ると、パスワードを入力できなくなって開閉不能な扉が凹みつつある。下にいた傭兵がなんとしてでも扉を開けようとしているのだろう。


「俺がやる。お前は、」


 銃に手をかけて動こうとした私を制してキャプテンは徐に能力を展開し、鬼哭を振るう。鉢植えに植えられている花が茎を残したまま斬られ、無造作に散らばった。


「それを袋に詰めてろ」


 掴みきれない意図を探る私を置いて、キャプテンは歩いて行った。転がる肉塊が瞬く間に扉を打ち破らんと突撃の姿勢をした傭兵に変わり、肉塊同様その場に転んだ。それを斬り刻むキャプテンの手付きは慣れたもので、宣言通り片が付くだろう。私は慌てて入れ物を探し、都合良く袋など無いため大きな布に斬られた花を置いていく。研究員達が集めた花は萼のところで切られていて、茎がない。キャプテンが斬ったものは長めに茎が残されていて、これならディアナも喜ぶんじゃないかと思った。あの、姉のドレスは白い花にも負けない純白だった。だからレプリカだという白い花冠を被せられた時、何となく合わないと感じた。本番までは間に合わせるのかもしれないが、これだけあれば花冠も花束もいくらでも出来そうだ。キャプテンがどういう意図でこれを斬ったのかわからないが、もしお裾分けが叶うなら彼女達にせめてもの詫びとして渡したい。


「入れたか?」
「あ、はい。あの、キャプ……」
「ならそれを担いで窓から飛べ。……良いもの見せてやるよ」


 四隅を纏めて持ち手を作っていると、鬼哭を納めるキャプテンが帰ってきた。傷もない。やっぱりこの人は強くて美しいと再認識させられる。
 私が口を開くのに被せて、キャプテンが無茶なことを言った。言葉を理解したものの意味がわからずに一瞬嫌な顔をしたが、良いものと聞いて言われた通りにする。小走りで走り出す私の後ろから扉を閉めたキャプテンはゆっくり歩いて能力をより大きく展開しているようだった。
 曇天と、激しい雨。にわか雨だったのか遠くの雲が切れ始めている。割れた窓ガラスが靴底で弾ける音がする。もう新鮮な空気を吸った皆は起きているだろうか。皆が無事でよかった。キャプテンが無事でよかった。
 前に進むように地面を思いっきり蹴って跳躍する。鋭く足の肉を抉ろうと聳え立つガラスを、飛び越えた。

 ──────雨音が、消えた。私を濡らすはずだった雨が、代わりに私の頬に触れて、視界に広がって、雲間に差し込む光を反射しているものは、


「、うわ……っと」
「うおおぉっ! あっぶねーな!」
「ご、ごめんって」


 思わずその光景に魅入ってしまい、着地の体勢が遅れた。いつもより足の裏に感じる衝撃が大きく、着地音も響いてしまった。そしてシャチの真横に着地したため、驚かせてしまったようだ。彼もまた、この光景に釘付けだったのだろう。


「キレーだな、これ。キャプテンか?」
「ああ、うん。多分そう」


 二人でまた上空を見上げる。キラキラと、雨の代わりに舞うもの。それは、あの研究所にあった銀の花や花弁だった。
 生涯でもう二度と見る機会などないだろう。あれほど厚く黒かった雲が散り散りになり、今や薄く灰色がかって霧散していく。その隙間から僅かに差し込む陽光に煌めいて、瑞々しい香りを放ちながら花達がはらはらと落ちる。街全体が輝いているようだった。街の至る所から歓声が聞こえる。それにつられるように皆も騒ぎ出した。


「あっ、おい! まだ敵残ってるぞ!」
「寝てスッキリしたからなー、相手してやろうぜ!」
「眠気覚ましの運動にはもってこいだな!」


 そんなことを言いながら、血気盛んなクルーはどんどん下へ飛び降りてしまう。まだ体内に薬物が残っていたとして、動いて全身に薬理作用が回ってしまったら正確なデータが取れないとキャプテンに叱られるんじゃないかな。


「チッ……アイツら、馬鹿か」


 これから全員の診断をする主治医は医者らしかぬ苦言を吐いた。振り返ってその姿を見る手前、私の手に持っていた花を包んだ布の感触が消えて、代わりに乾いた紙の束に変わった瞬間驚いて手放してしまった。大きな音を立てて落下した束は、紐で括られて散乱することはなかった。布の袋はというとキャプテンの手に渡り、私が紙の束を拾って顔を上げる時には一つの花へと変わっていた。どこに能力で交換したのだろう。頭を傾げる私を正すようにキャプテンが手に持った花を髪に刺しながら、視線を紙の束へ落とした。


「それは好きに使え。ここの研究の詳細や人体実験の記録、不透明な研究資金の使い道がリストアップされている。反政府組織というだけあって、それだけでも痛手になるだろ」
「なぜ、こんなものを……」
「脅しに使えると思ってな。穏便にはいかなかったが」


 少しだけ足を動かすと、靴底でガラス片が音を立てた。もう少しまとめれば告発書にもなりうる。しかしそれは海賊の私たちが持っていても手に余ってしまい仕方のないものだった。


「それで? 答えは?」


 傾いた頭を元に戻した手が、ゆっくりと髪を梳いて振り積もった花弁を払う。返答を促す言葉は、私をこの場から逃してくれそうにない。何を、と聞かなくても私と彼ならわかる言葉だ。むず痒さにきゅっと結んだ唇を、意を決して緩めた。


「……考えて、なかったです」


 嘘は言っていない。ただ一心不乱にここまで来て、がむしゃらに銃をぶっ放していたのだ。今朝の彼の問いなぞ、頭の片隅にもなかった。だから馬鹿な私は未だ答えを見出せないでいる。あらゆる可能性がある。そのどれもが根拠がなく、彼の求める答えでもないような気がしたから。
 キャプテンは私の決心がお気に召さなかったらしく、不満げに片眉を上げてため息をついた。


「なら、時間切れだ。罰として、あの花屋に使いにいけ」
「え?」
「頼み事をしている。歩いていけばちょうど良いだろ」
「……はあ、」


 急な頼み事と、罰にもならないお使いに拍子抜けてしまった。キャプテンはそんな私を置いて皆と同じように飛び降りてしまった。残された私は髪に刺された花を風に揺らして、はらはらと上空から舞い落ちる銀の花をただ一身に浴び、答えのない問いを抱えているだけだった。

 ここから花屋は少しだけ遠い。戦う皆を置いて、外に隠していたマントを見つけて羽織った。短い森を抜けて教会を背後にし、水の匂いが漂う水路の近くに出た。左手に折れると今は閑散としているあのアングラなバーが並ぶ通りがある。彼処であの夜、キャプテンが男の人だと気付いてしまった。欲情する彼を見るのは初めてではなかったが、誰かへ宛てた熱量を持った瞳を向けられて温度の上がった吐息混じりの声を寄越されてしまったら。嫌でも意識してしまう。私だけが持つ、はしたない思慕を。
 諫めるようにため息をついて歩き出す。空はすっかり晴れて落ちる銀の花も止んでしまった。街の人はそんな珍しい光景にはしゃいで、出回らなかった銀の花に大層喜んでいた。まさか海賊の仕業だとは知るまい。そんなお祭り騒ぎの名残りで周囲はまだ騒ついている。傷だらけの私を見る人もいない。


「……ディアナ、いる?」


 扉を開けると控えめな鈴の音が鳴った。薄暗い店舗内に彼女の姿はなく、先程怯えさせてしまった経緯から中に入るのは憚られた。私の小さな訪問に奥の方から足音がして、それがバタバタと大きなものになる。


「ニイナさん……!」


 扉を乱暴に開けて奥から顔を出したディアナは私の姿を捉えると、絞り出すような声で私の名とともに安堵の息を大きく吐き出した。そこまで安否を心配してくれているとは思わずにたじろぐ。


「良かったです、ご無事で。あの降っていた銀の花はもしかしてニイナさん達が……?」
「そう、えっと……彼が。本当は商品にも使えるようなものを持って来れれば良かったんだけど……」
「良いんです、そんなこと……ニイナさんたちが無事なら、それで良いんです」
「ありがとう。お姉さんは?」
「仕事が入ったとかで慌ただしく隣の島へ向かいました。厄介な男から逃げる、とかなんとか」


 彼女らしいと少しだけ苦笑した。それにつられて顔の皮膚が引き攣れて傷が痛む。僅かに寄った眉根にディアナはハッとした顔をして、おずおずと私の頬に触れる。彼のものとは違う、温かく柔らかな指先に大丈夫だというように微笑んだ。


「酷いお怪我です。大丈夫ですか?」
「平気。もう塞がってるから。それより私の花冠と……彼が依頼していたものって出来てる?」
「あっ、はい! お待ちください!」


 撃ち抜かれた左腕をマントの下に隠して、ここに来た用件を伝える。ディアナはハッと気付いたように奥の扉へ走っていった。開けっ放しの扉の枠に凭れて、こっそりと詰めていた息を吐いた。ディアナにはまだ私達が偽装の恋仲だと伝えていない。伝えない方が良いと姉と決めたものの、あの無垢な瞳に対して嘘を貫き通すなど至難の業だった。まるで嘘偽りのあるこちらが自責の念で自白してしまうような。純粋にこちらを案じているからなおのこと心苦しい。出航がそろそろだと言っていたベポの言葉を信じるなら、このまま穏やかに淡い恋心を死なせてあげるのが良いのかもしれない。


「お待たせしました!」


 輝かしい笑顔で出てきたディアナから手渡された大きめの紙袋。その中に花冠が入っているであろう白い箱が入っており、緩衝材のように銀の花が敷き詰められている。


「あれ、この花……」
「はい、降ってきたものです。近所の方々が集めて下さったんですが、商用として利用できないので贅沢ですがこうするしか……。お皿に持ってポプリとして使ってください」
「なるほどね。ありがとう」


 香りも良く、枯れないならいいインテリアになりそうだった。今まで自室にそういった女の子らしいものなんてなかったから、この機会に飾ってみようか。これで少しは見る目も変わってくれるかな、なんて打算的な考えをする。そんな未来なんてあるはずないのにちょっとだけ期待してしまうのは、目の前のディアナと同じく彼に恋をしているからだった。
 彼がディアナや他の女性を選んで船に乗せたとして、私は祝福するだろう。近くで彼の幸せそうな顔を見て、妹として、クルーとしてそれを守っていくのだ。いつかは息耐えるであろうその心に寄り添いながら、生き地獄を握り締めてもなお生きていくしかない。私に選ぶ権利なんて、ない。私の望みが叶う日なんて、来ない。


「あの、やっぱりお怪我が心配です。手当させてください」
「……ねぇ、ディアナ。前に私に言ったよね」


 その場を離れようとするディアナを言葉で止めた。純白と銀色に吸い込まれそうな紙袋から顔を上げる。
 彼の言葉も、気持ちも、行動も。全て一時の気の迷いなのだ。きっと、心許せる女性が現れたら私なぞ妹という特権を振り翳しているただの部下にすぎない。
 でも今だけはどうか、嘘をつくことを許してほしい。傲慢で着飾った虚栄心を信じて欲しい。彼が欲しいと願うのは、何もあなただけではないのだから。


「───あげないよ。……あげてなんか、やらない」


 あの時言えなかった答えを、今なら堂々と言ってみせる。どんなに懇願されてもあげるわけがない。簡単に手離しはしない。彼女が彼を好きだと言うように、私だって彼を好きなのだから。
 大きく見開かれた宝石のように美しいディアナの瞳が揺れる。言葉の意味がわからないというように小首を傾げて、奥へと走っていった。そのまま死なせていけば良かった恋心を引き摺り出して傷付けてしまった私の独善的な思考が悪いのだ。それでいい。最後にそういうことをしても、どうしてもいわなくてはいけないと思ったからだ。それが偽りの私達の関係であり、私の本心でもあるのだから。
 鈴の音が鳴らないように静かに扉を閉める。ここから船まではまた少し歩く。その間は何も考えなかった。考えてしまっても仕方ないし、私の中で結論が出たからだ。花の匂いだけの鼻腔に、潮の香りが届く。頭を空っぽにしているとこうも着くのが早い。波に洗われた砂を踏む。もう皆は帰っただろうか。
 黄色い潜水艦が見えてくると、キャプテンの能力が私の少し先まで届く。ここまで来いと言うような領域には直ぐに着いた。足先から膝、腰から腕、彼が髪に刺した花が付く頭から髪の先。羽織ったマントのはためきの最後さえ彼の能力下に入った瞬間、甲板へ降り立っていた。遠くでコインが砂に埋もれた音がした。聞こえないはずなのに、彼がコインを弾き飛ばした指先をしていたからきっとそうなのだろう。歩みを止めた私と彼の距離は広くはなかったが、近くもなかった。何かの隔たりがあるようなその距離感が、もっと離れて欲しいと私の中の強がりが願った。


「お使い、行ってきましたよ」
「ご苦労」
「私の花冠ですか、これ」
「そうだ。急ぎで作るように言ってきた」


 持ち上げて見せた紙袋が音を立てて主張した。キャプテンはそれを受け取ることも、目を向けることもなかった。ただ腕を組んで壁に凭れて私がどうするか観察してるようだった。不審と困惑が混じる。さっきの戦闘で疲れているだろうに、この船を覆うくらい縮小されているとはいえまだ能力も解除されていない。彼はどうしたいのだろう。───私は、どうしたいのだろう。


「……キャプテン、いらないんじゃないですか、こんなもの」
「あ?」
「だって、私たちはもうここを離れますし、演技はしても花冠なんて被る必要は……」


 なぜわざわざ花冠を急ぎで作ることを依頼したのだろう。もう不要になると言うのに。謎は増えるばかりだが、全てを企てているキャプテンは現状を理解していない私に呆れるように溜息をついた。


「お前がまだ中身を見ていないことはわかった。……早く開けろ」


 疑問を抱けど命令に従う他ない私は白い箱を掴んで取り出す。緩衝材代わりの花が入った紙袋が落ちて甲板に落ちて溢れた。花の香りがするその白い箱を開けると、そこには私が頼んでいた白い花冠が修復完了されて綺麗なまま収まって───


「……えっ?」


 小さな声が喉奥から漏れる。瞬き一つ分呼吸が止まった。

 ───そこにあったのは、銀の花の花冠だった。

 目がおかしくなったのかと思った。しかし白い箱と花の色は一致しない。それは全ての原因である花で、カンパニーが研究していた花で、キャプテン達が窮地に落とし込まれた花で、先程全てをキャプテンが街に撒いた花で、私の髪の隙間で揺れている花だった。
 この国のしきたりを思い出す。白い花冠は恋仲だったり男避けを表すもの。銀の花冠は夫婦の証。───プロポーズの時に渡すものだと。
 私の手から箱が滑り落ちる。甲板に音を立てて落下したのは、白い箱と、キャプテンの持っていたはずの鬼哭だった。


「な、んで……」
「さあな、なんでだと思う?」


 全てに合点がいってしまった。能力で手に入れた花冠の出来を見るように指先で弄ぶキャプテンが持つそれは、確かに銀の花だけで作られた花冠だ。キャプテンが斬った茎が長い花を布で包み、持っていたのは私だ。それを奪われた挙句どこかに交換したのはキャプテンだ。今しがた受け取った場所とお使いの真意を悟ってしまえば全てが仕組まれていたのだと遅ばせながら気付いてしまった。


「ずるいです……ずっと、キャプテンは私にばかり考えさせて、答えを言ってくれない……。間違ってたらどうするんですか。正解ってなんですか。私の勘違いなんて見苦しいばかりでしょうに……っ!」


 彼の前で、こうして女として取り乱した姿を見せたくなかった。そうしてしまえばもう戻れないからだった。彼が此方を見据える。あまりに澄んで真っ直ぐに貫く双眼に怯えたようにたじろいだ。


「駆け引きは得意じゃなかったのか?」
「貴方を……! そういう目で見たくなかった! 私は貴方の妹で、クルーで、都合の良い相手役で良かったのに……なんで、私を揺さぶってくるんですか……!」


 二歩、三歩と後退っていく。私は自分の気持ちを押し殺したり偽ったりするのはお手の物だった。だから彼の女役として最適だった。煽るような言葉だって、瀬戸際を攻めるような浮ついた駆け引きだって得意だった。なのに、彼の前じゃ全て形なしになる。亀裂が入ってぱらぱらと崩れ始める音を立てるそれに、ひたすらに壊れないよう縋っている。
 追い風が吹いて押し戻そうとする。私の体は逆らうものの、足元に散らばった花達によってキャプテンの革靴が埋もれた。風であおられたマントのフードが私の頭に被せられて視界を半分覆う。その狭められた視界でキャプテンが目を細めたのを見た。


「お前は俺をその土俵に立たせるつもりはねェってのか? 正解まで辿り着いてもなお頑なに自分は妹でクルーで都合の良い相手役だと、俺の本心を拒絶するつもりか?」
「……えっ……?」


 刺青だらけの手が持ち上がり、翻る。その上にあった花冠が一つの花に変わる。フードの下で違和感が増した。より濃くなった花の香り。ズレて落ちそうになるそれに触れる。花の柔らかな感触のほかに、草の固い感触がある。花冠だ。


「意味、わかってるんですか」
「お前こそ、わかってんのか。ニイナ」


 呆然として口から出た言葉にキャプテンが手に持つ花に口付けた。強烈な視線が私を射抜く。強張る体に教え込むような秋波だった。彼の花で埋もれた口から発せられた言葉は、妹でも、演技の女でも、クルーでもない、一人の個体としての名前。
 緩く頭を振る。被せられた花冠ごとフードを握り込み、現実を受け入れずにいる。だって、昨日まで彼は兄でキャプテンだった。いつからだ。そういう目で見られることがなかったのは断言できる。今までだってこの関係を破壊できる機会なんていくらでもあった。待ち構えていたわけでもないだろう。
 今の彼はまるで、どこかに仕舞っていた感情を心に嵌め込んだみたいな。
 それが怖かった。私のせいで彼らしかぬ男性へと変質させてしまったようで───いや、違うのかもしれない。本当の彼は、今目の前にいる。私の願いを叶えるために全て押し込めて隠していただけに過ぎない。


「わた、し。妹です。クルーとしてハートを背負い、前線で戦っています。キャプテンの女なんてただのその場限りの演技で……」

 ぼろぼろと涙と共に崩れ落ちる私の虚飾たち。さぞかし滑稽だろう。崩落するそれらを拾ってまだ縋りつこうとする醜い私を嘲笑うように───まるで、それこそが間違いだと言うように───キャプテンは柔く笑んだ。


「ああ、知っている。そのどれにも当てはまらないと思っちまったんだよ」


 彼が正当化するのは、肩書きのない、ただ一人の私だけだった。
 溢れた涙を攫うように風が強く吹いた。渡したくなくて目蓋を強く瞑ると、急に背後に壁の気配を感じた。驚いて目を開けると、目の前にキャプテンがいた。足元に散らばる花が風で混ぜられて纏わりつく。離さないというようにキャプテンが私のフードを掴んで、顔を覗き込む。優しく指を絡められて背とともに壁に縫い留められ、二人の掌の間でキャプテンが口付けた花が潰れた。
 キャプテンの帽子も風で飛ぶ。それを気にせずに、キャプテンはこんなにも至近距離でいつもみたいに意地悪く笑った。


「お前はつくづく、俺の想定を裏切ってくれるらしい」
「きゃ、……」
「お前が俺をそういう目で見ていなかったことくらい知ってる。だから待ってやる。だが、俺は気が長い方じゃねェ」


 きつく手を握られる。甘美で瑞々しい香りも共に強くなる。迫り上がってくる呼吸が乗せられて、熱くなっていく。鼓動が振動となって彼に伝わってしまうだろう。涙なんて蒸発してしまったと思ったのに、まだ流れるらしい。
 彼と同じ熱量を持つことを許されるなんて、思わなかった。


「待つから、早く覚悟決めろ。お前は生涯、俺の女だ」


 私を殺すための文句を宣った彼はフードを掴む手を離して、苛烈な言葉と裏腹に優しく私の後頭部を抱き寄せた。そして布越しに当たる彼の頭から「やっとだ」と小さな声が聞こえた。震える手で彼の背を掻き抱くと、痛いくらいに応えられた。
 私はこれから、妹でも、クルーでも、都合の良い女役でもない。本当に彼のただ一人の女性として、生涯生きていくんだ。
 また風が吹いて足元の銀色の花弁を巻き上げた。空高く舞った花弁はこの島に来た時に水路から投げ込まれる白い花弁のように頭上から降り注ぐ。それはまるで祝福されているようだった。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -