小説 | ナノ


「あら? 今日はお一人?」


 掛けられた言葉に、苦笑を零した。あの人が片割れのように見られているという思想が根強いこの街が、今は鬱陶しいほどだからだ。
 昨日のあの一件から、包帯を巻き直した私はずっと惰眠を貪っていた。主治医から絶対安静を言い渡され、脳を動かしたくなかった私はこれ幸いと死んだように寝ていた。おかげで明け方に目が覚めて寝直すことができず、散歩をしてすっかり冷えた頃に帰ればキャプテンから大目玉をくらったのだ。
 なんでもないように澄ますことは、得意だった。元から演技派ではあったし、彼の相手役としても腕を磨いてきたつもりだ。しかしそんなものは長年務めたパートナーとして違和感を感じるものらしく、私の仮面を剥ぐことはせずとも隔てた薄氷をいつ割ってくるのか不安で揺らいでしまった。


「今ちょっと薬を買いに行ってて……あとで迎えにきます」
「お熱いことねぇ。今日はどうしたのかしら?」
「ディアナにお願いがあって」
「私ですか?」


 キャプテンは私のせいで切らした消毒薬や痛み止めを買いに行っている。それを待つ間に別件でこの花屋を訪れたのだ。私の呼びかけに反応して、カウンターの奥から顔を出したディアナが笑顔で駆け寄ってくる。

 ──────私にあの方の側に立つ権利をください。

 ディアナから何とも傲慢で純真無垢な願いを聞かされてから数日しか経っていない。恥ずべき言葉だと理解してもなお、欲しいと思ったものへの執着は恐ろしいほど子供のように純粋だった。汚れなき白に、私はなれない。
 あどけなく、真っ直ぐな娘だった。豊かな髪と少女らしい出立ちに生命力を強く感じ、あの時見せたようにただ己の激情を曝け出しつつも己の立場を弁える芯の強さと状況の取捨選択性に優れている。キャプテンはこういう妹分に甘いのだろう。私にいつも見せる口元が僅かに綻んだ柔い瞳の細め方をして、その大きな手で頭を撫でるのだろう。もしもキャプテンがその眩い純白を選ぶ日が来たら。立っているこの地面が揺れているような感覚がして、一瞬彼女の笑顔から顔を逸らして手元の紙袋を見た。


「如何いたしました……?」
「あ、いや。お願いっていうのは、これ……壊しちゃってごめん。直して欲しいの」
「……わあ、また派手にやりましたね」
「落として色んな人に踏まれてしまって……本当にごめんね」
「いいえ! むしろ直してまで使って頂けるほど大切に思ってくれるなんて、嬉しいです!」


 純粋で眩しい笑顔に嘘に塗れた自分を恥じて言葉に詰まってしまう。血痕を隠すためにわざと花を抜いたりした。踏まれたのは本当だが、それ以外にも粗雑な扱いをしてしまったということが加えられる。ディアナは私の話を全く疑わないどころか、こんなに大切に使ってくれていると心から信じている。私の中のもうありはしないと思っていた、なけなしの良心が痛む。


「結構傷んでますね……何日かお時間頂きますがいいですか?」
「なんなら新しいの買ってもいい。お金なら払う」
「これくらいなら修繕の方がお安いですし、もっと頑丈にしてみせます! 任せてください!」
「姉の私が言うのも何だけど、この子の花冠は街一番だと思うよ」
「そう……じゃあお願いするよ、ディアナ」
「はいっ! 彼氏さんお待ちになるなら掛けててくださいね」


 元気よく受け取ってくれたディアナが早速取り掛かるのを見て、私と同時にディアナの姉もテーブルに対面で座る。彼女はこの花屋の勤務ではなく、ファッションデザイナーとして活躍しているはずだ。親族なら妹であるディアナの店内にいる理由付けにはなるが、仕事は良いのだろうか。


「ディアナー、お茶淹れてー!」
「えー、お姉ちゃん自分で淹れてよ!」
「可愛い妹が愛する姉のために淹れたお茶が飲みたいのよ。ねっ、ニイナ」


 作業に取り掛かったディアナが不満の声を漏らす。確かに姉も茶を淹れられることは前回で見ていた。別に不味いわけでもないし、作業の手を寸断するほどの用事でもない。何故だろうと小首を傾げると、目配せをされた。


「そうですね。ディアナ、お願いできる?」
「もぉ……ニイナさんまでそう言うなら!」


 可愛らしく拗ねたディアナが少しだけ嬉しそうに笑って奥へと走っていった。時間はかかるだろう。ゆっくりと前を向いてから腕を組み、ホルスターに入れていたグリップの感触をなぞる。ここ最近物騒なことばかりでつい警戒してしまう自分に内心苦笑した。


「……で?」
「そう身構えなくていいわよ。聞きたいことがあってね。あなたたち、本当は付き合ってないんでしょ?」


 いつでも引き抜けるようにとセーフティーを音もなく外した直後だった。想定していたあらゆる言葉の中にないことを発言した彼女は、私の言葉を待つわけでもなくにんまりと笑った。敵意はなく、また敵でもないと察知した。セーフティーを掛け直し、彼女の言ったことが咀嚼されて漸く降りて来たものの、言葉の真意を測りかねていた。


「───なぜ、そう思うのですか?」
「女のカンよ、勘」


 なんとも非科学的で漠然とした博打だ。呆れたような溜息を吐くと、彼女もわかっているのか、失礼だとは思うけど、と付け加えた。しかし発言の撤回をしない様を見ると確信はあるらしい。運や勘というものは根拠がないし、情報戦でそんなものに頼るには自らの破滅を呼び込む。それでも、実戦では戦局を切り開くものになり得る。
 一拍の呼吸で様々なことを考えた。本当のことを言うデメリットと嘘を続けるメリット。天秤に掛けて傾いた方の返答を、ディアナと同じ色をした瞳を見据えて吐いた。


「ただの女除けです」
「やっぱりね。あの人格好いいもの!」


 嘘は言っていないし、当たり障りのない答えだと思う。この返答で彼女がキャプテンの女を狙おうとする人だと思わなかったからだ。先日の発言も一夜限りのものだったし、本気で手に入れたいわけではないと睨んでのことである。実際、彼女は深く納得してそれ以上は続けなかった。


「ディアナがね、彼のこと本気で好きになっちゃったみたいで。私達の家系は好きになったら一直線という血筋だから、あの子もちょっと突っ走り気味でね」
「そんな感じはします」
「アンタが"彼女"である限り一線は超えないと思うけど……アンタら旅人か何かでしょ? 姉としては、ちゃんとした人と一緒になってほしいなと思うのよ」


 てっきり猪突猛進な家系ならキャプテンを寄越せと言われるのかと身構えた。やはりディアナより姉の方が達観している分、大人な対応ができる。更に未来を見据えて流浪の民ではない人と添い遂げることを願っている。
 少しだけ、細く息を吐いた。取られる、なんて子供みたいなことを考えてしまった。あの花の降る深海のような、ひやりとした感覚が胃の底を撫でるから思わず身震いした。


「そうですか。ならディアナには言わない方が賢明ですね」
「そうねぇ。ね、黙っている代わりにお願いがあるんだけど」
「金銭の要求や彼への取り次ぎには応じませんよ」
「そんなことじゃない。アンタの体を借りたいの。引き締まってるしスタイルもいいから、申し分ない」
「……はい?」


 虚をつかれたような声をあげてしまった。この女、同性愛者だったのか。いや、異性も誘惑しているからただの節操なしか。なんて悪食、非道卑劣。私は思わず両の手で自分の肩を抱き、か弱い小動物のように震える。


「待って待って、何か勘違いしてない? そうじゃなくてモデルになってほしいの!」
「なんだ、そんなことですか。紛らわしいですね」
「絶対アンタ心の中で私のこと罵倒してたでしょ……そうじゃなくて、今作ってるドレスの試着をして欲しいの」
「……コルセットがなければ」


 彼女の職業がファッションデザイナーということは、前の島でひったくりから救った際に知ったことだ。こちらとしては薄れた記憶だったが、彼女の中では根強かったのだろう。ショーに出すほどの腕前ならさぞかし素晴らしいドレスか、奇抜すぎてついていけないドレスかの二択だ。どうか見れるものであってほしいと願うばかりである。
 脅しというより懇願のような響きを持ったそれだが、断る理由がないため渋々口を動かす。動かしてから、変に追求されやしないかと脳が固まったような心地になる。しかしそれ以上言葉の理由を聞かれることはなく、嬉しそうに笑った彼女が善は急げとばかりに私の手を取り立ち上がった。

 奥の部屋から繋がる扉を開くと、路地を挟んで隣の店と繋がっていた。どうやらディアナの店と姉の店が繋がっているらしい。今日は姉の方の店は休業しているようで、従業員さえいない店内は閑散としていた。その店内を通り過ぎて更に奥の部屋に赴く。未完成のドレスや装飾品が並んでおり、どうやら姉の作業場のようだった。そこの一角にあったドレスを押し付けられ、問答無用の広めのフィッティングルームに押し込められる。腹の包帯さえ悟られなければ良いので、コルセットがないことに安心した。
 安心してから、そのドレスが純白なことに気付いた。


「……もしかして、ウェディングドレス、ですか」
「そうよー、次のコレクションで発表するの」


 無縁だと思っていた。着たいとも思わなかった。生まれながらの外道として生きてきて、これから先も必要にならないはずだった。綺麗だとは思っても憧れはしなかった。それがこんなに簡単にも手に入り、隣に立つ人間が欲しいと一人の女として願ってしまうなら……私も随分落ちたものだなと自嘲を零す。
 すっきりとしたボディラインに沿ったウェディングドレスで、両脚の前にスリットが入っていて野暮ったくない。これなら着ても構わないし、変にボリュームがあって一人で着れないわけでもない。
 そして、着てから気付いた。背中が結構露出しているのである。勿論、包帯も見えている。そうなると必然的に姉に知られてしまい、追求を避けられない。するり、と厳重に巻かれたそれを取ると、テープで止められたガーゼが姿を現した。血は滲んでいない。しかし、この純白を汚すわけにもいかない。


「もーッ! なんでこっちにいるのお姉ちゃん!!」


 どうしたものか、と思案していると扉を乱暴に開ける音とディアナの大声が聞こえた。唐突なことで驚いて持っていた包帯を落とす。


「ニイナに新作の手伝いしてもらおうと思ってさ」
「一言くらいかけてよね!」
「はいはい、じゃあお茶運ぶの手伝ってあげるから向こう行くよ。ニイナー、ゆっくりしててね」
「はーい」


 遠去かる二人分の気配と閉まる扉の音。そっとフィッティングルームのカーテンの隙間から顔を出すと、閑散とした薄暗い作業場があるだけだった。作業台の上の白い布を拝借し、ガムテープで上から固定する。包帯よりは心許ないが、ないよりはマシだろう。
 正面は貞淑であるが、背後はざっくりと開いていてシンプルなだけではないよう調整されている。お尻の方まで開いているので、今日のショーツがローライズで良かったと薄く笑って、ドレスとセットにされていたベールの代わりの薄いマントを羽織る。薄く広がったそれが足元に落ちてまるで湖の上に立っているようだった。肘下まである白い手袋を填め、銀細工の繊細な腕輪を付ける。ボリュームで存在感を現すウェディングドレスというより、一輪の花のような凛とした可憐さを出すドレスだった。着る人を選ぶかもしれないが、これを着た花嫁は全ての人の視線を奪うだろう。
 ちょうど着終わってドレスを四方から堪能していると、扉が開いて人が入ってくる声がした。陶器が触れ合うような音もしたのでわざわざティーセットをこちらに持って来たのだろう。カーテンを開けて姉を呼ぼうとした口の形のまま、私の思考共々停止した。


「───きゃ、ッ!」
「あらー、いいじゃない! カレシは向こうにいたから連れて来たわよ」


 叫びそうになって、その言葉を飲み込んだ。ちょっとした悲鳴だと思ってほしい。役職名の冒頭が悲鳴の音と似て良かった、と頭の隅で余計なことを考えた。
 カーテンを開けて目に飛び込んできたのは、手前から目配せをする姉と、ポットを片手に持つディアナと、カップを持ち上げて猫のように目をまんまるに見開いたキャプテンだった。キャプテンがそこまで驚くのは珍しいと、私以上に驚いている彼を見て冷静に考えて笑ってしまった。


「素敵ですニイナさん! あっ、私もブーケの調整したいので持って来ますね!」
「ついでに花冠も乗せようか。白いのならレプリカがどこかにあったはず……」


 二人とも本格的に熱が入ってしまったようで、それぞれが作業場を出て行く。静かになったそこで、気まずく思った私の目に入ったのは作業台に落ちていたリボンの切れ端だった。髪も下ろしたままにするわけにもいかないか、と簡単に纏め上げる。


「迎えに来てみりゃ、ドレスの試着をしていると聞いたが……」


 スッ、と隣の気配が動く。両手を上げたまま、その気配が背後に立つのを感じる。もしかして、待ち合わせ場所にいなかった私を怒っているのだろうか。それとも馴れ合いをする私を諫めているのだろうか。しかさはそのどれにも彼の声色は合わなくて、リボンを結ぶ指先に吐息が落ちてきて表皮の温度が上がる。口角を上げた、彼の意地悪めいた顔が脳裏をかすめた。


「ウェディングドレスだとはな。……嫁に行かせるわけにはいかねェが」


 唐突に、無防備なまで晒された背中から腰を撫でられた。その指先がつう、とお尻の方まで下がって行く。ひゅう、と喉の奥に細く冷たい外気が入り込み心臓の周りを冷やすものだから、余計にかっかと燃える血潮を感じてしまう。


「だが包帯を取ったのは許せねェ。ガーゼのみか? 血、滲むぞ」
「……い、え。布をガムテープで、留めてます」
「馬鹿、かぶれるだろ」


 あの日見たような扇情が、忍び足で擦り寄ってくる。腰に色を残すような手付きが、今度は振り払うように私の額を弾いた。彼が一歩距離を置くと、姉が花冠を見つけたのか作業場に入ってきた。強制的に霧散されたような空気だった。それが悔しくて、私ではその土俵に立てないのだと言われているようで、なんとも歯痒かった。花の匂いがしないレプリカの冠のような、"偽物の妹"が私に相応な立場なのだとレッテルを貼られたような気になる。


「お待たせいたしました!」


 眩しいまでの笑顔で頬を紅潮させて駆けてきたディアナが私にブーケを押し付ける。普通の花嫁が持っているような丸みを帯びたブーケではなく、細長くスタイリッシュに纏められドレスにも見合うようなブーケだった。長いリボンで茎が一纏めにされて、花冠と同じ花もいくつか混ぜられ統一感が出ている。胸元で持たされたあと、ディアナが真剣な顔でそれを調整していく。このくらいの長さにして、ここはこの向きで、この花を足してみては。次々に私ではわからない計算をして、ベストなブーケを目指す様は少女ではなく一人の成人女性として相応しい表情をしていた。
 可愛らしく、強欲であれど素直で、折れない芯を持った女性。キャプテンの好みを把握しているわけではないが、もしディアナが彼の女となり隣に立つ日が来たらクルー全員が受け入れそうな女性だ。私も異論はない。
 ……ないのだけど、受け入れられるかどうかは、別だ。結局、私はこの恋心を諦めることはできないのだろう。どれだけ捨てようと、どれだけ勝手に傷付こうと終わりはない。花の影に隠れてそっと自嘲する。ちらりと視線を上げると、姉と小声で何かを話しているキャプテンの金の瞳が此方を見据えており、居た堪れなくなってすぐに外した。あの瞳にはどんな感情が潜められているのだろう。それとも、私ではなくディアナを見ていたのかもしれない。このドレス姿を見て彼の中の何かが動けばいいと、浅ましい女の思慮など彼には届かないのだろう。もしかすると、もう彼はディアナを気に入っているのかもしれない。
 反対に、姉とはどんな会話をしているのだろう。彼が抱く夜の女性は、いつも決まって姉のような大人びた一線を越えない賢い女だ。その辺の女運はあるらしく、一夜以上で拗れたことはない。迎えにきた私を見ても女性達は優越感で見下したり、部下以上の存在でないと察知してそこに存在していないように振る舞うだけだった。そんなさっぱりした関係を好むなら姉は適任だったし、お似合いだと思う。
 憶測だけが渦巻く。負の連鎖ばかりが私を縛り付ける。裏付けのない情報を当てにしたところでいいことなんてなにもないのに。そんなこと嫌というほど知っているというのに、感情の暴走は終わらない。ディアナにも、姉にもなれない私は誰だろう。
 こんなことなら、彼の妹になんて、願わなければよかった。少しでも、家族にあいしてほしかったなんて、望まなければよかった。
 花の香りを嗅ぐように俯いた私の瞳から一筋。誰にも知られない後悔の涙が、花の中に吸い込まれていった。

 宵闇を星々が突き刺し、満月が切り開く夜のことだった。賑わう酒場で私やペンギン、数人のクルーが浴びるように酒を飲んでいた。地酒だという花の入った酒は咽せ返るほどの香りを纏った飲み口の良い澄んだ酒で、漬けられた花をちまちま食べながらそれを水のように飲んでいた。


「……おい、ニイナ。飲み過ぎだぞ」


 流石に肝臓に悪い飲み方をする私を見兼ねた世話焼きのペンギンが声をかける。
 キャプテンとペンギンの調査の結果、あのカンパニーの研究所に忍び込んで直接確かめた方がいいということになった。その適任者としてシャチが選ばれ、今はひっそりそこへ馴染んで情報をいくつか聞き出しにいっているだろう。あのコインも渡してある。大役から解放されたペンギンと今日は非番の私がこうして酒場にいるのは他のクルーに誘われたからで、決して私が自棄酒したいから誘ったわけではないと誰に呟くわけでもなく言い訳をする。


「大体傷に障るだろ。昼間出かけて帰ってきたかと思ったらキャプテンに内臓出そうなほど包帯巻き直されてたのは誰だ?」
「うっ……あれは本当にキツかった……」


 思い出すだけで吐き気が止まらない。ドレスを返却した後、首根っこを掴まれて船に急行し服を剥かれた。治療室とはいえ扉は開いており、私の悲鳴を聞きつけたペンギンが何事かと顔を出すと、伸縮する包帯がこれでもかと傷口や腹に食い込んで悲痛な叫びを上げる私と医者かと疑う所業をするキャプテンが目に飛び込んできたらしい。事情を聞いたペンギンはその場を治めてくれたものの、同情はしてくれなかった。
 キャプテンの言う通りガムテープでかぶれた箇所を包帯の上から摩る。そうしなければいけない状態だったし、きっと私は悪くない。だからこの自棄酒は半ば彼への当て付けだった。そんなことをして何が変わるかなんて、聞かれても分からないが。


「キャプテンは心配してんだよ。それくらいわかるだろ?」
「わかってる、わかってるよ」
「わかってても理解してない。溺愛されてる」
「それはない」
「あのキャプテンがだぞ。不用意に接触する女にでさえ舌打ちするあの悪人面が、お前が理由もなく膝に乗る許可をするどころか笑い掛けるなんて溺愛以外のなんだっていうんだよ」
「妹だもん。それくらい当たり前でしょ」


 ローストビーフを貪りつつビールを呷るペンギンが不機嫌そうに眉を顰めた。一体何が言いたいんだろう。お説教なら聞きたくないよ、ママ。


「普通、妹はいえ年頃の男女がそんなことしないぞ」
「私兄弟いないから知らなかったし、そんなの人それぞれじゃん。キャプテンなりの親愛ってやつでしょ」


 自分で言ってて悲しくなった。一気に煽ったショットグラスを乱暴に机に叩きつけると、酔いが回ったのかぐらりと目眩がした。私、いつのまにこんなに飲んだっけ。やり場のなくなった手が彷徨って、取り止めもなくなった様を繕いたくて何となしに花弁の砂糖漬けを摘む。
 そっか、親愛。私はそんなもの知らないし、キャプテンもとうの昔に忘れてしまって距離感がバグを起こしているのかもしれない。それなら全部に納得が行く。彼は私を妹でしか見ていなくて、たまに惑わせる手付きは不具合を起こしているだけなのだと。そっか、そっか。それにまんまと嵌って浮ついているだけなのか。私の恋情は勘違いなのか。
 ───そうか。


「おーい、寝るなって」
「んうぅ……」


 ペンギンの声がいやに大きく響いて、傾いていた頭が持ち上がる。花弁を食んだまま眠掛けしていたらしい。遠くから溜息が聞こえて、どこかに連絡しろとペンギンが誰かに指示をしている。酒場の喧騒が煩い。私は何本瓶を開けたっけ。このお酒を飲む前に何杯ビールを飲んだっけ。白い花弁を噛むのも疲れてきた。酩酊。


「親愛なんかじゃなく、お前はキャプテンのこと好きなんだろ?」


 好き、すき。わかんないよ、そんなこと。だってそんな情抱いても結局は報われなくて、無駄なのだ。教会から差し込む光に照らされる横顔の神聖さや、暗闇から覗く瞳の鋭さに魅せられて私は彼を崇めていたのに。思慕を抱く私の方が不具合ばかりだ。あの夜がなかったら、私は今頃こんなことにはなっていない。彼の一挙一動の意味を探ったり、心情を殴られたりするわけがない。つらい、つらいよ。こんな私を苦しめるだけの情なんて。楽にして欲しい。


「わたし、は……いもうと、だから……」


 ぽつりと呟いた言葉は、私の最後の抵抗であり砦だった。もう縋れるものは、そんな不安定な足場でしかなかった。それがなくなったら、私はただのクルーであり、彼からの特別扱いなんてされない。彼が隣に誰かを立たせてしまったら、もう服の裾を掴むことすら許されない。
 どうしたらいいんだろう。ペンギンから水を渡されたものの、その不味さに一口でコップを置いた。代わりに酒で満たしたグラスを掴んで呷る。脳を麻痺させてくれるのはこれしかない。傷だってもう痛くない。拍動する熱が煩わしいだけで、もうどこも痛くない。
 熱くなる脳と頬に挟まれた瞳から逃げた水分が机を濡らす。見たくなくて、突っ伏した。ペンギンに肩を揺さぶられるのも鬱陶しい。振り払う動作で、入口のベルが鳴ったことに気付かなかった。大きく深呼吸をした後にまた肩を揺さぶられる。うるさいなぁ。不明瞭な唸り声を上げて抵抗をするも、何かがおかしいと気付く。でもそれを追求するのさえ怠い。麻痺していく。ねぇペンギン、アンタいつの間に黄色のシャツなんて着てたっけ?


「で? さっき、なんて言ったっけ?」


 ペンギンの続きを促すような言葉に少しだけ覚醒する。なんだっけ。なんの話してたっけ。
 考えることをやめた頭からは何も出てこないのに、喉の奥から熱された蒸気がするすると逃げ場を求めて飛び出していく。


「ん、んう? んー……だからぁ、もう、妹やめたいなって……」
「───おい、どういうことだ。寝るな」


 人の言葉の高低や、感情の隆起がわからない。気持ち良くなって、ふわふわして、そのまま身を任せようとした私の熱い頬をぺちぺちと叩かれた。痛くはないけど、寝かせないようにするその手付きが嫌で頭を振ると酔いも回ってくる。花の香りが鼻から抜けて甘ったるい声が出た。


「んんうー……だぁって、あの人、私をいもうとって……そういう約束、だから……だめ……」
「チッ……はっきり言え」
「だから……すき、なんだもん……。すきだけど、いもうとにしか……みられてないから」


 すん、と鼻を啜る。拗ねた子供のような泣き方だ。ペンギンに本心を晒してしまうのは癪だが、誰かに聞いて欲しかった。いつかは忘れてしまって、死んでいく虚しいこの小さな恋心を。誰にも知らないで死んでいく名前のないその子のことを、知っていて欲しかった。


「……だから、わた、し……妹でしか、となりに、たてない……のに……すき、なの……」


 好きなの、キャプテンのことが。ごめんなさい。
 悔恨の滲む謝罪は形を成さずに朧に崩落していった。涙を止めるには意識を手放すしかなかった。徐々に沈み始める沼にその身を預けていく。もう誰も止めはしない。心地の良い、入眠だ。
 ペンギンが頭を撫でてくれる。うれしいけど、なんだか変だね。その髪を混ぜる手付きが、まるでキャプテンみたいだよ。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -